緊褌巻
緊褌巻のオリジナルです。
今は、投稿済の「改訂版」を決定版としております。
そちらをお読みいただければ、と思います。
作者より
この作品の時代設定は昭和55年。舞台のモデルは兵庫県西宮市の鳴尾高校です。五日間で、一気に書きました。
私は物心がついた時から相撲が大好きでした。
相撲は取るほうも、幼い頃から大好きで、大学時代は、同好会で、廻しを締めて取っていました。相撲部が稽古したあと、土俵を使わせてもらっていました。廻しは稽古場に掛けられていたものを使わせてもらっていました。文字どおり、他人のフンドシで相撲を取っていた訳です。
相撲を実際に取る人は段々少なくなっています。そのこと、とても残念に思っていましたので、どういうシチュエーションを考えたら、たくさんの若い子が相撲を取るようになるだろう、というのが、この小説の発想でした。
元々はコメディーにするつもりでした。出来上がった作品。コメディー的要素も残っていると思いますが、当初の予定とは、やや違う方向に行ったかなと思います。
1
僕は自分のことを割りとハンサムだと想っている。もっとも他人からそう言われたことはない。しかし、鏡に自分の顔を映して、顎をひいて、ちょっと上目遣いに鏡を見ると、そこにはなかなかに魅力的な男性がいるのだ。
中学時代は女の子と付き合ったことはない。別に何もしなくても女の子の方から「付き合って下さい」と交際を申し込まれるだろうと想っていたのだが、そういうことは起こらなかった。クラスに好きな女の子もいたのだが、自分の方から申し込むと、付き合っている間や、将来結婚した時、精神的に優位に立てなくなるので、何も行動は起こさなかったら、そのうちにその女の子は、他の男の子と付き合い始めた。その子とは、きっと将来結婚することになるだろうという予感があったのだが。可愛い子だったけれど仕方がない。高校も別になった。まあ今後、一発逆転ということにならないとも限らない。いや、きっとそうなるだろう。
今日は高校の入学式。新しい生活が始まるその第一歩だ。中学の時に比べれば女の子も大人になっているわけだし、きっと僕の魅力にも気がついてくれるだろう。たしかにある程度の年齢が加わらないと僕の良さというのは分からないかもしれない。
僕が通うことになったのは、自宅から南に三分も歩けば着いてしまう県立高校だ。子供の頃からずっと「高校生になったらあそこに行くのだろうなあ」という目で見ていたが、やっぱりそうなった。道路を隔てた隣は僕が卒業した小学校である。
入学式が始まろうとしている。校庭は新入生であふれている。
突然、僕の視野が形づくる映像の、距離にして約十メートル先の一点が光った。思わず目を閉じた。そうして呼吸をととのえ、気持ちを落ち着けた。ゆっくりと目を開き、その光に目を凝らした。そこに信じられないほどの美少女がいた。髪はスラリと長く、目はパッチリと大きく、睫は長い(そうに違いない)。鼻は・・・・・・いやいやこれではそこらにころがっている普通の美少女だ。ぴったりの形容詞が思いつかない。
しばらくじっと見つめていると、美少女の視線が僕のほうに動いた。一瞬視線が交差した。僕はスッと目をそらした。そらしてすぐに後悔した。
「しまった。数秒間じっと彼女を見つめて、それから僕の最高の笑顔を送るのだった」おそるおそる彼女の方を見やったが、彼女の視線はもう別の方角に向けられていた。
その時、僕はまわりにいる男子生徒が目と視線の角度は様々でも、ほとんどみんな彼女の方を見ているのに気づいた。
「なあ、すごく可愛い子がいるな」
くぐもった声が僕の後ろから聞こえてきた。僕の聴覚はそちらに総動員だ。
「彼女だよ。諏訪愛夢」
「ああ例の、本当にすごく可愛いなあ」
諏訪愛夢。その名前は僕にも聞き覚えがあった。僕の通っていた中学から数キロ北にある中学。そこにものすごく可愛い子がいるという噂は聞いたことがある。去年、同じクラスの男子が何人か連れ立って「美少女鑑賞ツアー」と称して見に行ったりもしているはずだ。ツアー挙行後、しばらく騒いでいた。芸能界からもスカウトが随分足繁く通ってきているという話も聞いたような気がする。それほど評判になる美少女とはどんな子なのか。僕も興味があったが、偶然ではない出逢いというのは僕の趣味ではない。身近に好きな女の子がいたこともあり、いつしか忘れていた。しかし、今日の出逢いは全く意図したものではない。そういえば、さっきの掲示板に貼り出されていたクラス分けの名前の一覧表。僕は一年七組だったけれど、その中にたしか彼女の名前もあった。諏訪愛夢という名前に、脳の片隅がチョコンと動いたのを覚えている。もっとも中学からずっと同じクラスで、一番仲が良い保科とまた同じクラスになっていたので、そっちの方に気がとられていた。そうか、あれがあれだったのか。これは運命だ。運命の出会いだ。出会いは偶然でも、ふたりが結ばれるのは必然だ。彼女は数年後には斯波愛夢になるのだ。おや、スワアイムにシバフヒト。どちらも同じ五音じゃないか。どちらの姓もSで始まっているではないか。
一年七組の教室に入った。やっぱり諏訪愛夢と同じクラスだ。しかし、こうなると保科と同じクラスというのは、むしろ厄介だ。彼はなかなか、いやとてもカッコイイ。頭も良いし、スポーツもよくできる。いつもクラスの女の子に一番人気があった。
座席は出席番号順とのこと。男の子の一番と女の子の一番が並び、その後ろに二番同士が並ぶ・・・・・・とすると、シとス。これは隣になるのかと思ったが、ひとつずれた。彼女は僕の左後ろの席になった。彼女の隣に座っている男子の姓は高山。タよりシの方がスに近いじゃないか。君はタ行じゃないか。でも、その高山君というのは、二十五歳くらいに見える小父さん顔だ。これなら大丈夫。それにしても、先月までは数キロ離れていたふたりの距離が今は約一メートル。このペースならゼロになるのもすぐだ。
担任の先生が前に立っている。ずいぶん若い。これで大学を卒業しているのか。高校を卒業したばかりといっても通用しそうだ。でもニコニコとしていて感じは良い。
それに何といえばいいのか、一言で言ってしまえば、ものすごく綺麗な顔をしている。僕のこれまでの人生で、美という面で、最高だと思った男性は保科だが、保科でもこの人にははっきり負ける。諏訪愛夢といい、この先生といい、今日はなんという日だ。もっとも、常に微笑んでいるので、親しみやすく、暖かい印象だ。もし、いつもおすまししている人だったら、ちょっと近寄りがたいという感じになってしまうだろう。
自己紹介によれば、今春大学を卒業したばかり。受け持ちの教科は歴史。市内の別の高校が母校だそうだ。
名前は朝香旅人。旅人とはちょっと変わった名前だが、先生の話によれば、大伴家持の父親、若山牧水のご長男もこの名前だそうだ。
先生が出欠を取り始めた。
「石倉隆さん」「ハイ」
「井上慎一さん」「フアイ」
女子生徒ならともかく、男子生徒をさんづけで呼ぶ先生には初めてお目にかかった。
・・・・・・
僕の番だ。
「斯波・・・・・・」
ちょっと間が空いた。いつものことだ。僕が自分の名前を言おうとすると
「『ふひと』と読むのですか」
「そうです」
僕の名前は「史」と書く。一回で呼んでもらえることはめったにない。僕はこの先生がぐんと好きになった。
・・・・・・
保科の番だ。
「保科・・・・・・」
また少し間が空いた。
「このお名前が『まひと』と読むのでしたら、面白いのですけれどね」
「それです。『まひと』です」
保科の名前は真人と書く。
「あ、そうなんですか。さっき、史という名前の人がいましたよね。史と真人だと真人の方が偉いのですよね」
それは、何かにつけて保科が僕に対して言うセリフだ。歴史の先生だし、ここで何か解説をするのかなと想ったが、そのまま出欠の読み上げを続けた。
諏訪愛夢の声は想像したとおりだった。「はい」の二音だけだったけれど、静かで、優しくて、澄んだ声だった。
「それでは一人ずつ自己紹介をお願いします。座席順にしましょうか」
男の子の一番、女の子の一番、男の子の二番、女の子の二番・・・・・・という順番だった。
じっくりと自己PRに励む人もいれば、あっさりとすませる人もいたが、男子生徒はみんな諏訪愛夢を意識している気がした。先生は一人が終わるたびに、その内容について軽くコメントしたり、質問をしたりしていた。相変わらずニコニコとした顔で。それを繰り返しているうちに教室の中は和やかな雰囲気につつまれた。時折、笑いも起きた。
いよいよ僕の番だ。あっさりいこう。
「斯波史です。若草中学出身です。趣味は読書と・・・・・・」
ちょっと言いよどむ。どうしようか。やっぱりやめておこう。
「以上です」
「斯波史さんですよね」
「はい」
「このお名前から想像するに、とても相撲が好きなのではないかと想うのですが、どうでしょう」
何で分かるのだ。今まさにそのことを言おうか言うまいか迷った末に言うのをやめたのだ。僕はこの先生に会ったことがあっただろうか。僕が誕生してからこれまでの人生を超高速で再現してみた。その中の登場人物には・・・・・・どう考えても朝香先生はいない。じゃあ何で・・・・・・僕は色々と思い巡らせたけれど分からない。
「はい、好きです」
「誰のファンなのですか」
「北の湖です」
「あ、やっぱり。でもそれはなかなか渋いですね」
「先生も相撲が好きなのですか」
「ええ、大好きですよ」
「誰が好きなのですか」
「もう六年前に引退していますけれど、北の富士が好きでした。その関係で九重部屋の力士を応援しているので今は千代の富士ですね」
千代の富士か。二十歳で入幕してきた時は、将来は大関になるかと思ったこともあったが、二十四歳になった今も幕内と十両を往復している。関脇どまりだろうが、四股が綺麗で、精悍な力士だ。それにしてもこの先生、結構面食いだ。
「相撲は見るだけですか。取る方はどうです」
「好きです。小学生の時も中学生の時も誰彼構わず取っていました。でもなかなか相手をしてくれる人がいなくて。あ、あそこに座っている保科はよく取ってくれましたけれど」
保科が真面目な顔をして、右手を小さく振っている。お前、その振り方だと皇室アルバムだぞ。
「史さんと真人さんはお友達でしたか。真人さんも相撲を取ることはやぶさかではないと。きちんと廻しを締めて取ったこともあるのですか」
「いえ、それはありません。大抵、休み時間に制服のままで取っていました」
「じゃあ、ベルト通しがよく切れたでしょう」
「そうですね。みんなベルトだけをひっぱるのでよく切られました」
「あれはズボンごと持たないとダメなのですよね」
「あの、先生は相撲を取っていたのですか」
「ええ、大学生の時にね。ちゃんと廻しを締めて取っていましたよ」
「ええー」という何人かの女子の悲鳴が上がった。先生は今の発言で、きっと来年の二月十四日にもらえるはずだったチョコレートの数を何割か減らしてしまっただろう。もしかしたら限りなくゼロに近くなったのかもしれない。黙っていたら間違いなくこの学校のアイドルになっていただろうに。でも、それって何だかとても悲しい。
「もっともこの体ですし、本格的に相撲部に入っていたわけではありません。同好会に入っていました。相撲部の稽古が終わったあと、土俵を使わせてもらっていたのです。稽古も自由参加でした」
そうだろう。この先生の身長は百八十センチくらいありそうだけれど、。体重は六十キロ強といったところではないだろうか。細い。
そうか、朝香先生は相撲が好きなのか。それも生半可ではないレベルで。嬉しい。
「読書の方は、どういうジャンルが好きなのですか」
「色々です」
本当は歴史小説が一番好きなのだが、先生の受け持ち教科であることだし、相撲の話で長い時間喋ったので、これ以上はやめておこうと思って、言わなかった。
諏訪愛夢の番が来た。彼女が軽やかに立ち上がった。よし、これでじっくりと見ることが出来る。まだしみじみと拝見させていただいていない。
彼女が先生の方を見ていたずらっぽい表情で笑った。先生もニヤッとした。今までの生徒の時とは笑顔の種類が違う。二人は知り合いなのか。もしかして恋人同士なのか。七歳違いくらいならありえない話ではない。ヤンとフレデリカもそうだった(作者注:この文章は時代考証からいって問題があります)。絵に描いたような美男、美女のカップルだ。男子生徒が緊張している空気が感じられる。
「諏訪愛夢です。葛城中学から来ました。趣味は読書と・・・・・・」
一拍おいた。
「それから私もお相撲が趣味です。朝汐さんのファンです」
何ともいえないどよめきが沸いた。
男子生徒の羨ましそうな視線が僕に集中する。いやあ、君達。庶民諸君。悪いね。申し訳ないね。それにしても、ああ、それにしても。何ということだ。僕は、僕は・・・・・・失神しそうだ。
だけど気になるのは先生だ。
「あのう、先生と諏訪さんは知り合いなのですか」
どこかからか、男子生徒の質問の声があがった。よく訊いてくれました。
「ううむ、どうせそのうちに分かってしまうでしょうから言っておきましょうか。親戚なんです」
親戚か。でもどの程度の関係の親戚なんだろう。
「僕は六人兄弟の末っ子でしてね。一番上の姉とは十三歳年齢が離れているのですが、彼女はその一番上の姉の娘なのです」
叔父と姪か。それ素晴らしい。たしか従兄妹同士だと結婚できるが、叔父と姪は結婚できないはずだ。
結局、最初の一時間目は自己紹介だけで終わった。
休み時間になった。
諏訪愛夢は左後ろの席に座っている。共通の話題があるわけだし、ここは話しかけるべきなのだろう。しかし胸がドキドキしてしまって、とても口から声が出そうにない。
「あのう、斯波さん」
彼女の声だ。向こうから話しかけてきてくれた。彼女も同級生の男の子に対してさんづけで呼ぶのか。何て謙虚な一族だ。
「は、はい」
声がうわずっている。
「よく、『国技』の投稿欄に載っていらっしゃいますね」
いらっしゃいますね、ときてしまったか。となると、会話は最高級の丁寧レベルでいかないといけないか。
「国技」というのは月刊の相撲専門誌だ。そうか、彼女は専門誌を読むほどに相撲が好きなのか。
「はい、三回掲載されました」
「あの投稿欄は名前の他に住所と年齢も載っていますよね。同じ市内に、同じ年齢で、とても相撲に詳しい人がいらっしゃるんだなあって思っていたのですよ」
諏訪愛夢は僕の名前を前から知っていたのか。何ということだ。
えっと。僕の喋る番だ。彼女の大きな瞳が僕を見つめている。やっぱり睫は長い。それに色がとても白いことと、黒子が全然無いことにも、話しているうちに気がついた。
「あの、朝汐のファンなんですか」
「ええ、私、どちらかというとアンコ型のお相撲さんが好きなのです。いかにもお相撲さんという感じで、見ているだけでしあわせな気持ちになるのです」
僕らの会話を聞いていた高山君が心なしか微笑んだような気がした。このお兄さんは八十キロは優にありそうだ。一般人にしてみれば、立派なアンコ型だ。顔は朝汐に・・・似ているぞ。
「愛夢は前から『斯波さんという人に逢ってみたい』って言っていたものね」
僕の隣に座っている女の子が会話に加わってきた。隣の子は諏訪愛夢の友達だったのか。結構可愛い顔をしている。諏訪愛夢を見る前だったら惚れていたかもしれない。名前は・・・・・・覚えていない。
ところで、今、何と言ったのだったっけ。僕の耳にそよ風のようにフワリと飛び込んだきた音波が頭の中に入ってきて脳細胞に浸透した。音波がようやく言葉としての意味をもった。僕はあがってしまった。さっきまでは運命の出会いだとか勝手にほざいていたけれど、ここまでうまくいってしまうものなのだろうか。こんなに出来過ぎた話があるだろうか。
「あ、じゃ、じゃ、じゃあ」
どもるな。
「き、期待はずれだったでしょう」
僕は、自分自身を割りとハンサムだと思っていると前に書いた。しかし、それは客観的に証明されたものではないし、主観的に言っても彼女に釣り合うほどの美少年とはとても思えない。
「いえ、何となくこんな感じの人かなというイメージはあったのですけれど、イメージどおりでした」
「どんなイメージだったのですか」
彼女はニコッと笑ったが、何も答えなかった。これ以上こういう話を続けると心臓が破れる。話題を変えよう。でも相撲以外のことは思い浮かばない。
「何でそんなに相撲が好きになったのですか」
言った途端に気付いた。
「あ、朝香先生の影響ですね」
「そうなんです。叔父は近所に住んでいましたし、小さい時からとても可愛がってくれたのです。色々とお相撲のことを教えてくれました。だから、物心がついたときには、もうお相撲が好きになっていました」
「相撲でいえばいつ頃ですか」
「最初に記憶にあるのは大鵬さんが横綱で。あ、柏戸さんが引退した時のこともうっすらと覚えているのです。叔父が『これで大鵬がたったひとりの横綱になっちゃった』と言っていたのが記憶に残っているのです。大関は北の富士さん、玉の海さん、琴桜さん、清国さんの四人でした。そのあとしばらくして北の富士さんと玉の海さんのふたりが一緒に横綱になったのですよね」
「今、一ヶ所間違いましたよ」
「え」
諏訪愛夢は、一体、どこを間違ったのかと、じっと考え込んでいる。その表情がまたたまらなく可愛い。
「あ、分かりました。玉の海さんの大関時代の四股名は玉乃島でしたね。斯波さん、やっぱりすごい」
すごいのは君だ。この子は一体。僕は心底驚いた。僕も幼稚園に通っていた頃から相撲は見ていたけれど、柏戸の現役時代のことなど知らないぞ。今、指摘したのは本で得た知識だ。そうか、僕は三月生まれだから、きっと僕より一年近く早く生まれているのに違いあるまい。
「諏訪さんの誕生日は四月か五月でしょう」
どうだ、僕の推理はすごいだろう。
「いいえ、三月です。三月十七日」
「あ・・・・・・、僕より六日だけお姉さんなのですね」
「斯波さんも三月なのですか」
「はいそうです」
会話が途切れた。なにか話さなきゃ。
「『国技』はですね」
彼女が話し始めてくれた。
「叔父がずっと買っているのです。私は普段は叔父の買ったものを読ませてもらっていたのです。最初に投稿欄で斯波さんに気づいたのも叔父だったのですよ。この学校に赴任することが決まったときも叔父は『あの投稿欄に載っていた子も住んでいる場所から考えて、僕が行くことになった高校に入学してくるのではないかな』と言って楽しみにしていたのですよ」
なるほど、さっきの自己紹介の時のことにやっと合点がいった。
しばらく前から保科がことらの方をチラチラと見ている(保科の席は教室の隅に近い列だ。ホならもう少し僕らの席に近くてもよさそうだが、このクラスの男子生徒はタ行とナ行がやたらに多い)。会話に混ぜてほしいのだ。でも彼は自称硬派で、女の子には関心がない、というポーズを中学時代にとり続けてきたから、自分の方から来る事は、プライドが許さないのだろう。とりあえず今は待て。あとで呼んでやる。
それにしても、高校の休み時間というのはこんなに長いのだろうか。五分くらい前に二時間目が始まるチャイムが鳴ったような気がしたけれど、二時間目も引き続きホームルームだけれど、朝香先生はまだ来ない。
「愛夢。今日は随分おしゃべりね。いつもはおとなしいのに」
僕の隣の女の子が二度目の割り込みだ。
「うん、これまで叔父のほかにこんなにお相撲の話が出来る人はいなかったから嬉しくて」
僕も嬉しいよう。僕だっていなかったのだよう。親戚にもいなかった。保科がたまに相手になってくれたけれど、それほど詳しいわけではなかった。こんあに可愛い子とこんな話が出来るなんて。僕は、僕は何てシアワセな奴なのだ。ああ「国技」よ。親に、「勉強もしないで」と叱られながら、何度も何度も繰り返し読み続けたあの日々よ。友達に嫌われながらも「相撲取って、相撲取ってよう」といやがる相手を無理矢理に抱え込んで右四つに組んで言ったあの日々よ。むくわれた。僕の十五年間は最高の形でむくわれた。
「あの、斯波さん」
「はい」
「叔父はこの学校にお相撲のサークルを創ろうと思っているのです。協力して下さいませんか」
「はい、喜んで」
僕は一呼吸おいて、頭を下げながら低音で続けた。
「謹んでお受け致します」
新横綱、新大関が誕生する時に、相撲協会の決定を伝える使者に対する、昇進力士の口上を真似たわけだけれど、諏訪愛夢には当然通じた。
「ワーイ」
彼女が手を叩いて笑ってくれた。何て素晴らしい笑顔なのだ。
「あ、あとで保科さんも紹介して下さいね」
ドキッとした。保科が真っ直ぐにこちらを向いた。顔がパッと輝いている。お前、その距離で今の言葉がよく聴こえたな。
「だって、保科さんもお相撲を取られるのでしょう」
保科が立ち上がった。こちらに向かってくる。スリ足ではなく、スキップで。保科よ。ついに来るのか。
その時、教室の扉がガラっと開いた。
「いやあ、ごめん、ごめん。教室が分からなくて迷子になっちゃった」
朝香先生が入ってきた。
「ああ、疲れた」
先生は教卓に両手をついて下を向き、肩を上下させている。もしここに水と柄杓があれば、稽古場で後輩力士が、胸を貸してくれた先輩に感謝の意を込めてするように、先生に水をつけてあげるのだが。
おっと、保科はどうした。彼の方を見ると、もうこちらに背中を向けて、自分の席に戻るところだった。まるで花道を引き揚げる力士のように、その後姿が寂しげだった。
(解説)
「真人」 天武天皇が六八四年に制定した八色姓の第一位。初め継体以後の諸天皇を祖とする公姓の豪族十三氏に、のち皇族が臣籍降下の際に賜った。
「史」 1) 古代朝廷の書記官。史生。
2) 古代の姓の一。多く帰化人で朝廷の書記を世襲する氏が有した。
(以上「広辞苑」より)
2
入学式のあった週の土曜日の午後、僕と保科と、それと何故か高山のお兄さんが連れ立って朝香先生の家を訪ねた。一応の名目は「第一回相撲同好会設立準備委員会」だ。
僕は知らなかったのだが、高山君も僕と同じ中学の出身らしい。言われてみて中学の卒業アルバムを見たら、確かにあの顔が載っていた。僕らは学校が終わったあと着替えだけをすませて、自転車に乗っ高校の正門前に集合した。そして北に向かってペダルを踏んだ。
「どうする。先生の家を地図で調べたら、割と武庫川に近かったけれど、河原を走るか」
と保科が訊く。
「そうしよう。その方が気持ちがいい。高山君もOKだよね」
僕らは武庫川のサイクリングロードを上流に向かって走った。河原には所々、桜の木が植わっている。だが、昨日の雨でかなりの花が散ってしまった。でも雨上がりの大気がさわやかだ。甲山も今日はくっきりと見える。緑が鮮やかだ。川面を風が横切る。桜花が舞う。
朝香家の前に着いた。とても大きな木造家屋だ。敷地がものすごく広い。門のチャイムを鳴らすと一分ほどして先生が顔を出した。たぶんこれでもチャイムが鳴ってすぐに出てきてくれたのだろう。
「やあ、よく来てくれましたね。どうぞどうぞ」
僕らは門をくぐって玄関に続く敷石を歩いた。
「あ、今日はあとで愛夢も来ますから」
その名前を聞くたびに僕はドキッとする。学校以外の場所で逢うのは初めてだ。
「本当は学校が終わってすぐに来たかったみたいだけれど、今日はピアノのレッスンがあるのですよ。残念がっていました」
「はい、そのことは今日学校で諏訪さんから聞きました」
「そうですか。史さんと愛夢はいつもふたりで話しているみたいですものね」
そうなのだ。入学式の日以来、休み時間は僕は大抵、愛夢と喋っている(最近、僕の血圧は随分高くなっているのではないかと思う)。それはとても嬉しいことだけれど、僕はここのところの男子生徒の僕に対する冷たい視線が気になる。「何でお前ばっかり」と思っているのがよく分かる。仲には「相撲に詳しくなるにはどうすればいいのだ」と僕に尋ねてくる子もいたから、そういう相手には僕は出来るだけ丁寧に答えてあげた。
「諏訪さんは、先生以外に相撲の話をする相手ができて嬉しいみたいですね」
「それだけでもないでしょう」
え、それだけでもないって、それは一体どういう意味だ。
「毎週土曜日がレッスンなのですか」
保科が訊く。
「そうです。でもこれから相撲のサークルについての会合が土曜日になりそうなら、レッスンの曜日を変えると言っていました」
これだけの会話が玄関に到着するまでの間に出来た。
玄関に入ると、そこに品の良い五十歳代見当の、男性と女性がいた。
「いらっしゃい」
「両親です」
先生が僕らに紹介してくれる。
「お父さん、お母さん。僕のクラスの生徒さんです。」
「もう学校の生徒さんが訪ねて来て下さったとはありがたいですなあ。さ、どうぞどうぞ」
とお父さん。
「どうですかのう。旅人はきちんとやっておりますかのう。この甘えん坊が学校の先生になって人様にものを教えると聞いた時にはびっくりしましたわい」
とお母さん。
「はいはい、ああお母さん、お昼ご飯の用意はできていますか」
「はいはい」
手のかかった、けれども決して豪華すぎるということはないお昼ご飯をいただいたあと、僕らは二階の先生の部屋に入った。
和室で十畳ぐらいだろうか。四畳半の我が部屋に較べて羨ましいことだ。それにしても、部屋中本だらけだ。
「すごい本の量ですね。これみんな読んだのですか。」
とこれは僕。
「途中で読むのをやめたのが半分くらいあります。本と相撲は生きる糧です」
それにしてもすごい。僕も読書は好きなので背表紙をざっと眺めた。
やっぱり歴史小説が多い。吉川英治、司馬遼太郎……。ギボンの「ローマ帝国衰亡史」やトインビーの「歴史の研究」もある。
このへんは哲学書かな。「アナーキズム」「共産党宣言」「資本論」「フランス大革命」……そうか、この先生はこういう傾向の思想の持ち主か。「老子」「荘子」おや「論語」もあるな。 おおニーチェの「ツァラトストラかく語りき」だ。そうだよな。やっぱり「かく語りき」だよな。「このように語った」じゃきまらないよな。(作者注:邦題が色々あるという訳です。)
ここらあたりは宗教書か。「聖書」も「仏典」も「コーラン」もある。三大宗教勢ぞろいだ。
事典類も結構あるな。「世界宗教事典」「世界哲学事典」「世界SF文学事典」「日本皇室事典」おや、この先生は右翼なのか。
伝記の類も相当ある。「アレキサンダー」「ナポレオン」という文字がたくさんあるな。英雄崇拝思想の持ち主か。ヒトラーやナチスに関する本もある。ファシストなのか。
小説もいっぱいある。「ファウスト」「トニオ・クレーゲル」「戦争と平和」「風とともに去りぬ」「ジャン・クリストフ」「赤と黒」「人間の絆」「罪と罰」・・・・・・名作と言われている有名なものが多いな。あまり特定の作家に対するこだわりはなさそうだ。
SF小説も多い。クラークの「地球幼年期の終わり」「都市と星」・・・・・・アシモフの「銀河帝国の興亡」「永遠の終わり」・・・・・・など。
マンガもたくさんあるな。おや、ここの一角は少女マンガのようだ。作者名を見てみる。田淵由美子、岩館真理子、竹宮恵子、美内すずえ、陸奥A子、太刀掛秀子、文月今日子、みつはしちかこ、くらもちふさこ、弓月光・・・・・・。
「先生は少女マンガも読むのですか」
「姉が四人いますからね。その影響で小さい頃から読んでいます。今も『別冊マーガレット』と『りぼん』は毎月買っています。三日は『りぼん』、十三日は『別マ』だよんと。特に『りぼん』はいいですよ。マンガのキャラクターのついた封筒とか、便箋とか、メモ帳とか、その他色々と付録がつきますからね。あの三百五十円はとても安いと思います」
「使っているのですか」
「はい、愛夢への手紙などはそれを使っていました」
「へえ、近くに住んでいるのに、手紙を出したりしているのですか」
「あ、まだ言っていませんでしたか。僕は大学は東京だったのです。だから、こっちに住むのは四年ぶりなのです」
僕はもう一度ぐるっと部屋を見渡した。肝心のものがない。
「先生、相撲関係の本はないのですか」
「ああ、この奥に相撲部屋があります」
先生は襖を開いた。
また部屋があらわれた。そこから相撲の風が吹いてきた。僕はエサに飛びつく犬のように、そちらに向かって突進した。
すごい。
「国技」が。創刊した双葉山時代からのものが全部揃っている。今まで欲しいと思いながらも高価で買えなかったいくつかの書名が頭に浮かぶ。そのひとつひとつを確認してみた。ある、ある、ある、みんなある。
「先生」
「はい」
「しょっちゅう遊びに来させてもらってもいいですか」
「史さんならきっとそう言ってくれると思っていました。いくらでも来て下さい。僕が家を留守にしていても勝手に入ってきてくれていいですから。両親にもそう言っておきます。家の合鍵も渡しておきましょう。とりあえず何か読みたい本があったら持って帰ってもいいですよ」
僕はおもむろに、そっと[国技]の創刊号を取り出し、じっと表紙を眺めた。その場にどっかりと座り込み頁を繰った。
「この二部屋とも先生が使っているのですか。いいですね」
保科の声がする。
「ええ、上の五人の兄姉はもうみんな結婚していて、今、この家にいるのは両親と僕だけですからね。部屋が余っているのです。もっとも、兄姉の家はみんな結構近いので、よく遊びにやってきます。正月やお盆の時などは凄いですよ」
逢ってまだ数日しかたたない人間に合鍵を渡そうとする人のいる家庭ならきっとそうだろう。
さて打ち合わせが始まった。僕も本に未練を残しながらも話し合いに加わる。僕らの高校は、学校に届けさえ出せば、同好会を創るのは自由だそうだから、創設に関しては何の問題もない。
しかし、予算の付く正式の部になるためには、ある程度の人数と、そして何より実績が必要だ。
だから今すぐ[学校に土俵を造ってくれ」などと行っても無理だ。決めなければならないことはいくらでもある。稽古をどこでするのか。廻しをどうするのか。会費を集めるのかどうか。集めるとしたらどれくらい。いや、何よりも先ず、今のこの時代に、裸になって相撲を取ろうという人間がどれだけいるだろう。会員を募集することが先決だ。募集方法は。やっぱり、ポスター掲示ということになるだろう。
「ポスターは愛夢が描くと言っています。あの子、イラストを描くのは得意だから」
「諏訪さんも同好会に加わるのですか」
そういう話は僕は聞いていない。
「勿論、マネージャーをするつもりですよ。え、史さんは聞いていなっかたのですか」
聞いていない。
朝香先生がちょっと考えた。
「ああ分かった。あの子にとっては、それは当たり前のことだから、史さんにはもう分かっていると思い込んでいて、とりたてて言いもしなかったのでしょう」
そうか、彼女も同好会に加わるのか。じゃあ、会員募集の件は問題ないじゃないか。十人や二十人はすぐに集まるだろう。
一時間ちょっとたった。少し前から僕はソワソワしている。
「こんにちわあ」
明るくて大きな声が一階から聞こえてきた。
来た。それにしても愛夢は普段はこんなに大きな声を出すのか。
ドタドタドタドタ。
階段を駆け上がってくる音だ。彼女は普段は階段を走るのか。
ザン、という感じで一気に襖が開いた。彼女は普段はこんなに……。
でもそこに現れたのは、紛れもなくあの顔だ。あの光り輝く美少女だ。でも何か変だ。愛夢ってこんなに小さかったっけ。確か身長は157センチと言っていたけれど。
「おや、優夢も来たのですか」
「こんにちは」
やわらかい声とともに、また別の女の子が姿を見せた。あれ、この子も愛夢だ。愛夢が二人だ。
「どうもすみません。妹が『付いて行く』と言ってきかないもので、連れてきてしまいました」
妹か。それにしてもよく似て椅子。でも落ち着いて見たら、体の大きさが全然違う。年齢の離れた姉妹なのだな。
「いくつなのですか」
と保科が訊く。
「小学校二年生です」
愛夢が答える。
その優夢ちゃんは、僕たち三人を見回したかと思うと、
「あ、あのお兄ちゃんカッコイイ」
と叫んだ。
その視線の先にいたのは、僕、ではなく、高山君、でもなくて、保科だった。姉に較べると、妹の方は普通の美意識の持ち主のようだ。
優夢ちゃんは、保科の方に寄ってきたかと思ったら、ちょこんとその膝に座った。顔はそっくりでも、性格はだいぶ違う。愛夢は僕の膝に……座らないだろうなあ。
「あら、優夢ちゃん、駄目よ。保科さんすみません」
「いいですよ。若い女性にもてるのはうれしいことです」
自称硬派も、相手が七歳ならOKか。だけど、愛夢とそっくりの顔の持ち主が保科の膝に座っていると言うのは、見ていて穏やかではない。
「本当にすみません。叔父さんが小さい頃からよく遊んでくれているものですから、この子は、若い男の人はみんな優しくて、よく遊んでくれると想っているのです」
愛夢もちょこんと座る。勿論、僕の膝の上ではない。
それにしても、私服の愛夢を見るのは初めてだ。いやあ、可愛いなあ。うちの高校の制服は、ジャケットとベストと、チェックのスカートに白いハイソックスで、愛夢にとても似合っていて、僕は大好きなのだけれど、今日のセーター姿の彼女もとても可愛い。
「ねえ愛夢。史さんは愛夢が同好会のマネージャーをする、ということは知らなかったみないですよ」
「え、そうなのですか。私、言ってなかったかしら」
「はい」
「それはすみませんでした。でも斯波さんは、そのことはもうご存知だと思い込んでいました」
「ね、やっぱりそうでしょう」
同好会設立に関する話し合いをまた続けた。お姉さんの再三の注意にもかかわらず、優夢ちゃんは、保科の手を引っ張って「遊ぼう、遊ぼうよう」と騒いでいる。注意といっても、ああ優しい口調で言っても子供はきくまい。結局、保科は優夢ちゃんと遊ぶ係りになった。二人で家庭盤をやっている。僕の家は親戚が多くて、僕は子供と遊ぶのには慣れている。子供を楽しく遊ばせる自信なら大いにある。自称シングルエイジキラーだ。いざとなればこの僕が、と想っていたが、保科で充分のようだ。(それに優夢ちゃんも、きっと保科が相手をする方がいいのだろう。ふん。)保科が、子供と上手に遊ぶことが出来るということは、初めて知った。
途中、朝香先生のお母さん、チョッと前に中座していた愛夢が、紅茶とケーキを出してくれた。少し休憩だ。
「諏訪さんは、今ピアノで、どういう曲を弾いているのですか」
と保科が会い夢に尋ねている。保科や高山君にしてみてら、ずっと相撲の話ばかりというのは疲れるだろう。申し訳ないなと思う。
保科の質問に愛夢が答えている。保科はよくクラッシックを聴いているし、音楽には造詣が深いのだ。もうやめているけれど、ピアノを習っていたこともあるはずだ。こういう話になると僕は付いていけない。他の男の子と話をしている愛夢を見るのは寂しい。みんなこういう気持ちで愛夢と僕を見ているのか。すまないなあ。
保科との会話から聞こえてくる言葉の断片から類推するに、愛夢のピアノは相当なもののようだ。もっとも本人はしきりに謙遜しているが。
「あの、先生の家にピアノはありますか」
と保科が尋ねる。
「ええ、姉がみんな習っていましたからね。ありますよ」
「諏訪さんのピアノを聴かせてほしいのです。ぜひ」
「そういえば、僕もしばらく聴かせてもらっていなかったですね。愛夢いいですか」
「はい」
愛夢は意外に素直に承知した。自信があるというより、彼女の性格から言って、人に頼まれると断れないのだろう。
一回に降りて、ピアノの前に並ぶ。
「何を弾きましょうか」
「あれをお願いします」
「あ、あれですが。叔父さん、大好きですものね」
演奏が始まった。
静かな始まりだった。ゆっくりとした音楽だ。徐々に、徐々に早くなってきた。そして高音部が中心となる。僕に音楽のことはよく分からない。どう表現したらよいのか分からない。でも何て美しい旋律だ。何分くらい続いたのだろうか。それほど長い曲ではなかった。終わった。もっと聴いていたい。音楽を聴いていてこれほど感動したのは初めてだ。
「パッヘルベルのカノンですか」
と保科。
「オーケストラが演奏しているレコードなら聴いたこはとあるのですが、ピアノは初めてです。素晴らしいですね
」
「あ、ありがとうございます」
愛夢がチラッと僕の法を見る。僕も何か言わなきゃ。
「感動しました」
と、とってつけたような一言しか言えなかった。自分の持つ語彙の貧弱さが恨めしい。それでも愛むはニコッと微笑んで、僕に向かって軽く頭を下げてくれた。
結局、その日は夕食までよばれてしまった。
「明日は休みだし、泊まっていきなさいよ」
と先生のお父さんが言ってくださったし、先生からも勧められたけれど、さすがにそれは遠慮した。僕達は三人で自転車で五分くらいの距離にある愛夢の家まで、愛夢と優夢ちゃんを送っていった。優夢ちゃんは、くるときは、お姉さんの自転車の荷台に乗ってきただろうに、帰りは保科の自転車の荷台だった。すっかり保科が気に入ったようだ。保科に色々と話しかけている。
「ねえ、お兄ちゃん。私、大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる。いいでしょ」
「うん、いいよ。お兄ちゃん待ってる」
「やったあ」
諏訪家に到着した。
「それじゃあ」
とそのまま立ち去ろうとしたら、愛夢が、
「すみません。もう遅いから申し訳ないのですけれど、両親に挨拶させますので待っていて下さいませんか」
と言って家の奥に声をかけた。
玄関口にご両親が出てこられた。
「父とははです」
と愛夢が紹介してくれる。お父さんもお母さんも、穏やかそうな人だった。それにお二人とも予想通り美形だ。特にお母さんは。お母さん、お母さんだと。この人が朝香先生が言うところの一番上の三十五歳いの姉か。どう見ても女子大異性としか思えない。お父さんは、さすがに大学生には見えないが、三十を超えているようにも見えない。(実際は三十七歳だと言うことは愛夢から聴いて知っているのだ。)
「いつも愛夢がお世話になっています」
とお父さん。
「今日は、優夢も随分お世話になったのですよ」
「ああ、この子は騒がしかったでしょう。それはそれは」
とお母さん。
「こちらが高山さん」
「保科さん」
「斯波さんです」
ご両親の眼が、じっと僕にそそがれる。さっきの二人に対してよりも長いような気がするけれど、気のせいだろう。
「ねえ、お父さん、優夢はこのお兄ちゃんのお嫁さんになるからね」
と優夢ちゃんが、保科の手を引っ張る。
「あらあら」
とお母さん。
ご両親の視線が保科の方に移った。
「よろしかったらお茶でもどうですか。あがっていかれませんか」
とお父さん。
僕は「はい」と言いそうになったけれど、保科が、
「いえ、今日はもう遅いですからこのまま失礼します。また今度伺わせてください」
ときりっと答えた。
う、やはりその方が礼儀にかなうか。そのあたりのことは保科にまかせておけば間違いないだろう。しかも今後について余韻を残す。保科うまいぞ。
「そうですか。またぜひいらして下さい」
「お兄ちゃん。また遊びにきてね」
と優夢ちゃん。
その横で愛夢が僕たち三人に向かって、
「今日はありがとうございました。今後よろしくお願いします」
と頭を下げる。本当に丁寧な子だ。
僕らは自転車のペダルを踏んだ。
もうすっかり暗くなっている。玄関の門灯の淡い光の中で、四人の家族は視界から消えるまで、ずっと僕達を見送ってくれた。
そして僕らは南は向かう。
僕の自転車の荷台には十二冊の相撲の本が載っている。僕のジーンズのポケットには、朝香家の合鍵が入っていた。
3
五月の連休が明けた最初の日曜日。今日は始めての稽古日だ。この稽古に参加する人数は、僕の予想をはるかに超えて四十七人。一年生が大部分だけれど、二年生もいるし、三年生も二人いる。ただ僕はこの四十七と言う数字に少し不吉なものを覚える。赤穂浪士と同じ数だ。毛っ子苦、最後に残るのはたったひとりということになるのではないだろうか。だけど、もしひとりしか残らないとしたら、そのひとりは間違いなくこの僕だ。
愛夢は「こんなにお相撲が好きな人が多かったなんて」と単純に喜んでいる。彼女はその原因が自分にあるということがちっとも分かっていない。約一ヶ月、彼女を見ていて気が付いたことがある。それは、愛夢は自分が類稀な美少女(どうもぴったりの形容詞が思いつかない)なのだという意識が欠落しているらしいのだ。そういう種類の人間がいる、それも女の子にいる、というのは僕には信じられないことだった。でも彼女を見ているとそうとしか想えない。ひとつ想い当たることがある。僕はあれから毎日のように朝香家に出入りしている。最近ではよく留守番を頼まれるし、お使いを頼まれたこともあった。諏訪家にもすでに三度お邪魔した(もっともこちらの方は、複数でしか伺ったことはない)。
その時々で朝香一族の人々(諏訪家以外の先生のご兄姉のご家族の方にも何人かお逢いした)にお逢いして感じるのだが、愛夢、優夢、そして朝香先生級の美の所有者はさすがにいないにしても、総じてみなさん美男、美女だ。この環境で育てば、愛夢も他の家庭で育つよりは、容姿についてチヤホヤされることは少なかったろう。それにしても、家庭から外の世界ではいやというほど「可愛い。すごく可愛い」と言われ続けてきただろうに。愛夢には自分を客観的に見る能力が欠如しているのだろうか。
一度だけ、朝香家で僕が留守番をしていると、愛夢がやってきたことがある。勿論、何か用事があって来たようだし、僕がそこにいることを知っていたわけでもない。
このとき、僕は朝香先生の相撲部屋で始めて愛夢と二人だけの時間を過ごした。彼女といると動悸が収まらないのは相変わらずだけれど、だいぶ自然に話せるようにはなっていた。色々なことを話した。相撲以外のことも多かったと思う。僕らは相撲以外のことでも話が合うことが分かった。彼女がこれまでに読んできた本は、僕と一致するものが多かった。何より嬉しかったのは、彼女とはセンスが合うのだ。先ず、お互いにあまり服装に関心がない。このときまでに、何度か私服の愛夢を観たが、セーターか、トレーナーか、ヨットパーカーか、ブルゾンだ。この四種類以外の格好を見たことがほとんどない。
何故なのか。尋ねた僕に対して、愛夢は、
「少年体型なので、女の子らしい格好をしても似合わない」
「色々と考えるのが面倒」
「あっさりとした格好が好き」
「何故か生理的にボタンというものが嫌い」
という四つの理由をあげた。
これを聴いた時は驚いた。そしてとても嬉しかった。最初の少年体型云々はともかくとして、あとの三つについては、まさに同じ理由で、僕もほとんど前記の四種類のみしか着ないのだ。特にボタンに関する事など、こういう感覚を持っているのは、自分だけかと想っていた。
服装に関心がないと言っても、本当に関心がなければ何を着てもいいはずだ。一応好き嫌いははっきりしているのだから、僕達はきっととてもオシャレなのだろうと言うのが、愛夢と僕の統一見解となった。
但し、この四種類については、彼女は数多く持っているようだが、僕は所有数も多くないという違いはある。唯一凝っているのが頭というのも一緒だ。頭と言っても髪型のことではない。
愛夢は、さらさらと背中まで伸びたストレートヘアーだし、僕もどちらかといえば長髪だが、シャンプーは毎日しているけれど、整髪料もドライアーも使ったことはない。タオルでふいて、ブラシでざっと梳かすだけだ。頭に凝っているというのは、愛夢はカチューシャが好きなようで、よく使っている。(あと、一度だけ、愛夢が、うちの高校の制服とよく似た感じの服装をしていたことがあったのだが、このときは彼女はベレー帽をかぶっていた。あんまり可愛いので僕はまともに見ていられなかった。)僕はバンダナが好きで、私服のときは大抵締めている。愛夢は将来きっとお化粧をする女性にはならないだろう。僕はお化粧というのが好きではない。
もっとも彼女にお化粧が必要なはずもない。あれ以上どう美しくなりようがあるのだ。
あと、面白さに対する感性も一致した。世の中で僕が面白いなあと思うことが色々ある。その話をしても今までは「それのどこが面白いのだ」という感じで応じられたのだけれど彼女は違った。
以前、僕が歌詞で変だなあ、と感じていたアイドルの歌。その話をしたら、彼女も同じように思っていた、とのことだった。
話しは続く。
「古文の現代語訳で『何々だなあ』とか『何々であることだよ』という文章があるでしょう。あれも面白いと思いませんか」
「斯波さんもそう思いますよね。私、何でみんな面白いと思わないのか不思議だったのです。でも作家の庄司薫さんもそのことは愉快に思われているみたいですよ。そういいうことを書かれた文章を読んだ記憶があります。」
僕は調子にのった。
「それから、ソ連でブレジネフ書記長の演説が終わったあと、演説を聴いていた人が全員一斉に立ち上がって『鳴りやまない三十分間のスタンデングオべーション』とかやるでしょ。あ、それから、中国などで指導者にいちいち形容詞をつけるでしょう。革命の偉大な領袖とか、我らの敬愛する周総理とか、英明な指導者華国鋒主席とか、ああいうのも面白いと思いませんか」
この話はうけなかった。でも、愛夢はいつだってニコニコと僕の話を聞いてくれる。
途中で先生のお母さんが帰ってこられたけれど、僕達は夕方まで話し続けて、二人一緒に夕食をよばれた。この日は、先生のお父さんも、先生も夕食の時には戻って来られなかった。愛夢は甲斐甲斐しく僕の世話を焼いてくれた。
僕はこの日初めて一人で愛夢を家まで送っていった。またご両親に「お茶でも」と勧めていただいたが、先日の保科を見習って失礼した。
ところであの時の愛夢の用事は一体何だったのだろう。
初めての稽古日を迎えるにあたって、先ず稽古場は朝香先生が知り合いの伝を頼って、僕らの高校と同じ市内にある私立大学の相撲部の土俵を借りることが出来た。申し込む際、こちらの人数を話したら、ひどく驚かれた。当日は部員全員(といっても正式な部員は三名だそうだが)でコーチをして下さるとのことだ。
廻しについては、朝香先生が人数分を全て負担された。僕は中学時代、結局あきらめたけれど、一度買おうと思ったことがあるから知っているのだが、稽古用の木綿の廻しといっても一本六千円以上する。だから、先生にとっては、大変な散財の筈だ。新任の高校教師の俸給がそれほど高いわけでもないだろう。
このことについては、実は先生と僕の間で議論があった。
僕は「廻し代は各個人に負担してもらいましょう」と主張した。「その方が『折角、買ったのだから』と少しでも定着率が良くなるかもしれませんよ」と。そしてこれは言わなかったのだけれど、本当は相撲を本気で取る気がないのに、愛夢目当てで入会してくる生徒が少しでも減るだろう、と想ったのだ。最初、僕はとりあえずは愛夢目当てであっても、多くの人が、相撲を経験してくれるうちに、その中のほんの数人でも相撲が好きになってくれたら、それでいいと思っていた。でもどんどん積み重なっていく入会申込書を見て素直に喜んでいる愛夢を見ていると、あとで悲しい思いをさせたくなかった。だからせめて「廻しを自分で買ってでも入会する」というラインを引きたかったのだ。
ところが、朝香先生は「高校生に六千円もの負担はかけさせられない」の一点張り。ユニフォーム等を揃えるのに、それ以上の自己負担がかかるクラブはいくらでもある。議論が進む中で、僕は先生の気持ちに気づいた。先生も分かっているのだ。この入会申込書のほとんど全てが、愛夢目当てだということを、だけど先生は、それでもより多くの生徒に相撲を体験してもらいたいのだ。そして、体験したひとりひとりに、その記念として廻しを残したいのだ。愛夢は「私はマネージャーですから」と言って四十七本の廻し全てにそれぞれの名字を書き込んだ。廻しがあれほど堅いものでなければ、きっと彼女は刺繍しただろう。
大学に到着した。甲山が間近に迫る。広々としたキャンパスだ。校舎もとても洒落ている。そのキャンパスの片隅に稽古場はあった。
部員の方が揃って出迎えて下さった。朝香先生が丁寧にご挨拶する。先生は「相撲部の方がご指導下さるのだから、同好会出身は引っ込みます」とここに来る前に僕に言っていた。今日は見学のみの心づもりのようだ。
先ず着替えだが、これだけの人数はとても一度に稽古場に入りきれない。といって外で着替えるわけにもいかないので二組に分けた。僕は後ろの組だ。前の組の着替えが終わったとの合図があって、僕は稽古場に入った。
相撲が大好きといっても、僕にとって相撲の稽古場に入るというのは始めての経験なのだ。
土の香りと、汗の匂いと。これが稽古場か。神棚がある。鉄砲柱がある。土俵中央に砂が盛られている。僕は目頭が熱くなった。
二人一組でお互いの廻しを締め合う。僕は高山君と組んだ。まわしに書き込まれた「斯波」の二文字をそっとなでてから高山君に締めてもらった。廻しの締め方については、実は浅香先生の廻しを借りて教えてもらっていたから、不器用な僕にしては、割と手早く出来た。ただ廻しの長さの調整が難しい。
うちの高校の連中はみんなはずかしそうだ。お尻がスースーするのがきになるらしい。僕は人混みの中をぬって大鏡の前に立った。自分の全身像を映した。そこには、顎をひいて、ちょっと上目遣いにした時の僕よりも、もっともっとカッコイイ自分がいた。「この姿を愛夢に見てもらえるのだ」を思うと嬉しくてたまらない。
全員の着替えが終わって、しばらくしたら愛夢が稽古場に入ってきた。そして上がり座敷に正座する。ずらりと並んだ裸の男の集団を見て、彼女が恥ずかしそうに眼を伏せるのではないかと想ったが、違った。僕はその様に考えた自分を恥じた。愛夢がそういう眼で相撲を見ていないことくらい分かっていたはずではないか。愛夢は真っ直ぐ顔を上げていた。僕は愛夢のこんな真剣な表情を始めて見た。
竹箒によって、土俵中央に盛られた砂が崩され、土俵意の周辺に広がっていく。土俵の内外が掃き清められ、全員が神棚に向かって整列した。
「神前に向かって、礼」
部員の方の声が響く。
「準備体操をします。広がってください」
朝香先生も廻し姿になって僕達生徒の中に混じっていた。
準備体操で広がるとなると、稽古場だけではおさまりきらない。部員の方が一人先導して、二十人近くの人間は外に出た。僕は外の組になった。準備体操が終わると、四股だ。四股なら、見様見真似で、小さい頃から何度も踏んできたけれど、本当の四股は生易しいものではなかった。号令にあわせて右足を高く上げて、左足に体重をのせる。そして右足を踏みおろす。腰を割る。そのままの位置から左足を上げる。右足に体重を乗せる。左足を踏みおろす。腰を割る。この繰り返しだ。
「上体を真っ直ぐに。前に倒したら駄目だ」
「両足の幅を狭めないように、踏み込んだその場所から上げる」
言われたとおりにして四股を踏むと、すぐに汗が吹き出した。
何事が始まったのかと、まわりでクラブ活動を行っていた人たちが、結構集まってきた。
ひとりが、一から十まで数え、その号令に合わせて全員一斉に四股を踏む。十まで数えると、その隣の人が一から始める。そうやって全員がいちどずつ号令をかけてしこは終わった。内股が痛い。
再び稽古場に入った。入る時、上がり座敷の愛夢と視線が合った。ちょっと微笑んでくれた。
次は鉄砲だ。これは上体を強化するための稽古だが、本来は鉄砲柱に向かって行う。鉄砲柱は一つしかないので、ほとんど全員、板壁に向かって行った。右手で板壁を突きながら、右の腰を前に出し、同時に右足も開きながら前に出す。そして右腕にぐっと力を入れて戻す。これを左右で繰り返す。僕は段々と愛夢の存在を忘れていった。愛夢と出会って以来、身近にいる愛夢を意識しなかったというのは初めてかもしれない。
稽古は続く。土俵の端で充分腰を割り、手を土俵について、土俵の円の直径上を、あちらの端に向かって進む。進み始めると同時に両脇を締め、足の裏を土俵から浮かさないようにして、左右の足を前進させる。そして端に到着したら、土俵の円周にそって右に向かって横に進む。このとき、右肘を返し左肘を絞り込む。左に進む時はこの逆。一つ一つに納得する。これは、スリ足の稽古であり、また両腕の構えについては、自分の下手を返して相手には自分の上手を取らせず、自分の上手を絞って相手の下手は殺すための稽古でもある。
楽しい。楽しくて仕方ない。
基本の稽古が一通り終わったら、いよいよ申し合いだ。人数も物凄く多いし、積極的に土俵に入っていかなければ相撲は取れない。僕はどんどん入っていきたかったけれど躊躇した。ひとりでも多くの人に相撲を取ってほしかったのだ。でもどうしても辛抱できなくて、数番は取った。
ただこのあとのぶつかり恵子は、何が何でもやってみたかった。「ぶつかり」という言葉が出たときは、すぐ土俵に飛び込んだ。僕は百七十三センチ、五十五キロの体を全身弾丸にして、百キロ以上ある部員の方の胸にめがけたぶつかる。そして全力で押す。全力で押したってとても動くものではない。「ほら押せ、まだまだ、もっともっと押せ」とかけ声がかかる。部員の方が、ジリッジリッと後ろに下がる。勿論、僕はもう眼いっぱいになっているのを体で感じて少しずつ力を抜いているのだ。そして充分押させたところで横にふる。僕は受身をとって転がる。一回終わると、もう体中の力は全て使い果たしてしまった。だけどぶつかり稽古はこれでは終わらない。一旦ぶつかりを始めたからには一回で終わるなど許されない。「ほうら。思い切ってぶつかってこい」と胸を広げる。僕は何とか立ち上がった。両手で廻しの前をパンと叩くと、二度目の突進だ。「まだまだ。まだまだあ」稽古場に大声が響き渡る。
三回目が終わったとき、僕は土俵の外でうずくまり、動けなくなった。ところがまだ許してもらえなかった。
「こらあ。立たんか」とお尻を蹴られた。俺は今日始めて回しを締めて稽古をする素人だぞ。素人相手に何で
ここまでするのだ。と猛然と腹が立った。腹が立ったら立ち上がってしまった。結局、僕は、七回ぶつかった。あとで訊いたところによれば、どうも朝香先生が「この子にはいくら厳しくして下さってもいいですから」とその部員の方に耳打ちしたらしい。
このあと整理体操をはさんで、土俵は再び掃き清められた。土俵中央に砂が集められ、盛られた。土俵の内外に箒目が入れられた。
全員が蹲踞の姿勢をとる。
「黙想」
掛け声に合わせて目をつぶる。
三十秒経過。
「直れ」
「全員整列」
「神前に向かって、礼」
これで稽古は終了した。
稽古場の奥にある風呂に入った。体中に張り付いた土俵の砂を洗い流す。とにかくすごい人口密度だけれど、それでも僕の心はのびやかだ。数十分前は、一歩も動けない状態だったけれど、今は普通に戻っている。自分の若さを認識する。ただ体の色々な場所が痛い。
「これが稽古上がりの風呂かあ」
みんなザッと体を洗うと、そそくさとあがっていくが、僕はちょっとのんびりしてしまった。
この時、僕は愛夢のことを思い出した。
「そうかあ、今日の稽古を愛夢は全部見ていたのだ」
ぶつかり稽古の時の自分を思い出す。普通の感覚なら、自分の好きな女の子には絶対に見られたくない姿なのだろう。でも僕は全然平気だった。むしろ誇らしい気がした。
風呂からあがって着替えをすませた。部員の方たちのお見送りをうけて僕らは稽古場をあとにした。
大学の最寄の駅までぞろぞろと歩いていく中で、一度だけ愛夢と視線が合った。「何か言ってくれるかな」と想ったけれど、彼女は悲しそうな表情をして僕を見たあと、すぐに、顔をそむけた。
この彼女の反応は僕には意外だった。さっきのちょっと誇らしいような気持ちは吹っ飛んだ。「そうだよなあ。衆人監視の中で、裸のお尻を蹴飛ばされたのだ物なあ。愛想を尽かされて当然じゃないか」
僕はすっかり落ち込んでしまった。最寄り駅で解散となり、愛夢は二つ目の駅で降りた。降りる前にまた悲しそうな顔をして僕を見た。僕は急に重たくなってしまった稽古廻しを抱えて、保科と一緒にさらに電車に乗り続けた。電車に乗っている間も僕は喋る気がしなかった。保科も黙っている。
僕達の家の最寄り駅から、黙ったまま二人で歩いた。
保科の家に着いた。駅からは保科の家のほうが近い。
「ちょっと寄っていくか」
保科が言った。
二階に上がって、保科の六畳の部屋に入る。この部屋には中学時代しょっちゅう来ていた。
でも最近は朝香先生の家に入り浸りだから、随分久しぶりに入る気がする。僕らは以前からの定位置に座る。保科は彼の勉強机の前の椅子。僕は彼のベッドだ。
「さてと」
そう言ったきり保科は黙った。僕の方から話し始める気はしない。一分くらいもたったろうか。
「なあ斯波」
話し始めた。
「お前、愛夢のことをどう思っているんだ」
僕はそれまで下に向けていた顔を保科の方に向けた。僕達は中学時代、色々な話をしたけれど、女の子に関する話はほとんどしたことがない。保科は自称硬派だから当然だが、僕もそういう話を彼にしたことはない。僕は中学生の時に好きだった女の子のことも彼は知らない。
僕はしばらく迷った。言った方がいいのだろうか。何も言わない方がいいのだろうか。でも愛夢のことで嘘はつきたくなかった。
「好きだよ。大好きだ」
「まあそうだろうなあ」
「保科、お前はどうなんだ」
緊張した。
「あの子を好きにならない男はいない」
そうか、保科もやっぱりそうだったのか。
「でもね斯波」
保科がちょっと口元を引き締めてから続けた。
「あの子はお前のことが好きだよ」
「何でそんなことが分かるんだ」
保科はあらためて僕の方をしげしげと見つめた。
「そうか、もしかしたらと思っていたけれど、お前、気がついていなかったのか」
「何をだよ」
「だから愛夢がお前のことを好きだっていうことだよ」
「だから何でそんなことが分かるんだ」
「お前に対する態度を見ていれば分かる」
「優しいってことか。それだったら愛夢は誰にだって優しいじゃないか。お前にだってそうだろう」
「そうだ。確かに愛夢は誰に対しても優しい。でもね斯波」
一拍おいた。
「あの子がお前を見る眼は特別に優しい」
「そんなことあるものか」
保科はしばらく黙った。
「それじゃあ斯波」
また話し始めた。
「俺達が始めて朝香先生の家を訪ねたときに、先生が玄関先でいった言葉。それからその日、愛夢を彼女の家まで送っていった時、ご両親のお前を見つめた眼と表情。お前、あの意味が分からなかったんだな」
「どういう意味なんだ」
「愛夢は朝香先生やご両親に、何かにつけてお前の話をしているのだよ。それもお前のことが好きだということがはっきり分かる態度でな。そういう意味だ。俺はな斯波。もうあの日に気がついていたぞ。愛夢はお前が好きなんだって」
そうなのか。本当にそうなのだろうか。でも。
「じゃあ、今日のことはどうなんだよ。俺は……」
僕は興奮すると一人称が変わる。
「あんな惨めな姿を彼女に見せたんだぞ。たとえ少しは好意をもってくれていたとしてもあんな格好を見せてしまえば、誰だって嫌になるだろう」
「そうか、そのことも俺が解説しなければいけないか」
「俺はな斯波、今日は蒲鉾を決め込んだ」
蒲鉾と言うのは、板(壁)にくっついたまま他人の稽古を見るばかりで、自分は稽古しようとしない力士のことを指す相撲界の隠語だ。そうか保科、お前もそういう言葉が自然に口から出てくるようになったか。
「だから稽古を見学している愛夢の方をずっと見ていたんだ。やっぱり男の裸を見ているよりはその方がいいものなあ」
僕は何も答えない。
「ぶつかり稽古で、お前が土俵に飛び込んでいったとき、あの子は本当に嬉しそうな顔をして、お前を見ていたんだ」
僕は黙って保科の話を聴き続けた。
「それが、お前が二回、三回とぶつかっていくたびに愛夢の顔は下を向いていってね。最後はじっと下を向いたままだった。たぶん、泣いていたんじゃないかな」
「俺はな保科。稽古が終わったあと、愛夢に何か声をかけてほしかった。でもあの子は顔をそむけたまま俺の方を見ようともしなかったんだぞ」
「見てたさ、見てたよ。お前、帰り道で途中からずっと下を向いたままだったから気がつかなかったのだろうけど、あの子は、何度もお前に声をかけようとする素振りをしていたぞ。俺には愛夢の気持ちが何となく分かった。俺はお前が実はマゾだって知っているから、他人にころころ転がされようが、お尻を蹴飛ばされようがまるで平気なのだってことを知っているけれど、愛夢にはそれは分からない。お前に声をかけたら、かえってお前が傷つくのじゃないかと想って何も言えなかったのだろう」
そうなのか。保科の話は一応理屈がとおっている気がする。だけど。
「なあ保科、もし愛夢が仮に、仮にだけれど、俺のことを好きだとしたら、一体何故なんだ。あの子はあんなに可愛いんだぞ。あんなに可愛くて、優しくて。この俺のどこに愛夢に好きになってもらえる資格があるんだ。俺はお前みたいにハンサムな訳じゃない。学校の成績だってお前の方が上だ。社会と国語だけは俺の方がいいけど」
こういう時にまで見栄を張るんじゃない。
「それにスポーツじゃ何をやったってお前には適わない。相撲だけは俺の方がちょっと強いけど」
また見栄を張ってしまった。
「音楽だってそうだ。俺は全然わからない。お前みたいに愛夢と難しいクラッシックの話なんか出来ない。確かに相撲のことは詳しいさ。そのおかげで愛夢とあんなに仲良くなれたのだものな。だけどそれが何だって言うんだ。俺は小さい時から相撲が好きだった。好きで好きでたまらなかった。だから勝手に詳しくなっていっただけだ。何も努力なんかしていない。この俺のどこにあんなに可愛い子に好きになってもらえるような飛び抜けたところがあるんだ。お前の方が余程、愛夢にふさわしいじゃないか」
「馬鹿だね。お前」
そう言ったきり保科は黙ってしまった。
三十秒もたっただろうか。
保科は話し始めた。
「確かに愛夢は可愛い。あれだけ可愛い子は日本中探したってそうはいないだろう」
それは違うぞ保科。日本どころか世界中探したってあんな可愛い子がいるものか。人類の歴史全体でも一体、何人ぐらいいただろう。あ、彼女にぴったりの形容詞を思いついた。「歴史的美少女」だ。
「だけど、その容姿は、彼女が努力した結果か。そうではないだろう。それにあれほど性格の良い子はそう入るものじゃない。でもな、俺も何度か朝香家や諏訪家に行って想うことだけれど、ああいう家庭環境で育てば、ああいう性格の子ができあがるのはわかるような気がする」
保科が僕の方を見る。
「そうか、この理論でがもうひとつ納得できないか。ふうむ」
保科はまた一分程度考え込んだ。
「なあ斯波、お前、人からよく道を尋ねられるだろう」
今度は一体何の話なのだろう。言われてみれば確かにそうだけれど。
「俺とお前と二人で歩いている時も何回かそういうことがあったけれど、みんなこの俺ではなくお前のほうに訊くだろう」
確かにそうだったような気はする。
「お前に飛び抜けた部分があるとすれば、それは『人の好さ』だ。そしてそれがどうしようもないくらいに体中からあふれ出てしまっていることだ。愛夢もそうだし、朝香先生もそうだ。お前たち三人は、みんな同じ種類の人間だ。だからお互いに惹かれ合うのだよ。」
あとの二人はともかく、自分については納得できない。
「俺はそんないい人間じゃない。世の中で腹が立つことはたくさんある。嫌な奴だっていくらでもいる。それに俺は気が短いぞ」
「自分の基準で世の中を見るのはやめてくれ。もう少し自分を客観的に見てほしいもんだ」
保科はあっさりと決め付けた。
「愛夢はね」
保科が静かな口調でポツンと言った。
「自分の親戚以外にお前みたいな少年がいることを発見して、とても嬉しかったんだよ」
保科は大きく体を伸ばした。
「世界中の人間が、お前や愛夢や朝香先生みたいな人ばかりだったら、世の中は平和だろうなあ」
一拍おいた。
「ま、あまり面白くはなさそうだな」
僕はすっかり黙り込んでしまった。保科ももう何も言おうとはしない。保科の言った言葉のひとつひとつを考えてみた。保科の言うことは信じていいような気がした。するとどういうことになるのだ。「愛夢が、あの愛夢が、この僕のことが好きだって言うのか。僕の心の奥底に歓喜のかたまりが芽生えた。そしてそれがどんどん広がって息全体に満ちようとしたその瞬間、保科の姿がそこに浮かんだ。
「保科」
「何だ」
「お前はそれでいいのか。お前だって愛夢のことを」
「俺か、俺のことなら気にするな」
「だけど」
「俺はな。将来お前の弟になることに決めたんだ」
何だって。
「優夢は八年たったら愛夢になる。お前は生涯、愛夢ひとり。俺は色々な女の子とつきあいながらゆっくりと優夢の成長を待つ。どうだ素晴らしい人生設計だろう」
僕はどう切り返したらいいのか分からない。
「それに」
保科が言葉を継いだ。
「お嫁さんにすると優夢に約束したものな。俺は一度約束したことは必ず守る」
保科、お前カッコイイなあ。前からそう思っていたけれど、ここまでカッコイイ奴だとは知らなかった。もっとも、相手の女の子の年齢を聞けば、世間の人たちも僕に同意してくれるかどうかは分からないが。
「まあそういうわけだから」
保科は僕の方に寄ってきて、僕の方をポンと叩いた。
「今後ともよろしくな。お兄さん」
(ひとつ気になることがあるから断っておく。分かってもらえているとは想うけれど、さっきの保科の話の中で、「お前はマゾだ」という言葉が出てきたけれど、あれはああいう話の流れの中でそいういう言葉が出てきたわけであって、保科と僕の間にそのような淫靡な関係があるというわけではない。決して)
僕が帰る時、保科は玄関まで僕を見送ってくれた。玄関口で僕は保科に尋ねた。
「なあ保科、俺は愛夢に自分の気持ちをはっきり伝えるべきなのだろうか」
「そうだなあ」
保科はちょっと考えた。
「まあとりたてて『好きです』とか言わなくても、お前たち二人はそのうち自然になるようになるよ」
一拍おいた。
「でも」
保科がまた話し始めた。ちょっと宙を見つめ、僕に視線を戻した。
「言うべき時にはちゃんといわなきゃな。それはとても大切なことだと思う」
僕は水平線よりほんの少しだけ視線を上に向けて、保科の眼を見た。
保科はニッコリ微笑んだ。百パーセントの笑顔……とは思えなかった。その笑顔の中に、含有率十パーセントか二十パーセントの寂しさを感じた。
そうか。
僕は分かった。
やっと分かった。
「弟になる」だって。「お兄さん」だって。「好きだといっても、その程度だったか」さっき僕はそう想って正直ホッとした。何も分かっちゃいなかった。
「それじゃあ」
僕らは別れた。僕は歩き始めた。保科の家の玄関がもうすぐ見えなくなるはずの場所で僕は振り返った。保科はまだ家の前に立っていた。僕は左手を挙げた。保科は小さく右手を挙げた。
歩きながら、僕は、ひとりで自分の部屋に戻る保科のことを想った。保科がこれから何をするか。僕には分かる。保科はきっとレコードを聴く。曲は……パッヘルベルのカノンだ。
歩いて五分。僕の家の前に着いた。このとき、僕の心の中に分けの分からない衝動が生まれた。その衝動に突き動かされて、僕の体は北を向いた。
僕は走った。脇に廻しを抱えたまま、僕は走った。一旦、武庫川に出て、河原を走った方が安全だったのだろうけれど、僕は直進した。僕は前だけを見てひたすら走った。走るのはけっして早い方ではないけれど、長距離は得意だ。あたりは住宅街で視界はあまりよくないから、横から自動車が飛び出してくるかもしれない。でも今の僕は平気だ。「車か。ぶつかるのならぶつかってこい。相撲で鍛えたこの体だ。そんなものに負けるか」
でも国道二号線の赤信号ではきちんと止まった。
二十分後、僕は愛夢の家から十メートルほどのところにいた。そして愛夢の部屋を見やった。
「あそこに愛夢がいる。僕の一番大切な人がいる」
今、どうしても愛夢に逢いたいとは思わなかった。ただひたすら愛夢の家を、愛夢の部屋を見守り続けていたかった。
「これだと知らない人が見たら、ただの変態さんかな」
そんな想いがチラッと胸をかすめたが、僕はあわてて打ち消した。そういう余計なことは考えず、今はただ、この昂揚した幸福感の中に浸りきっていたかった。
十五分もそこにた佇んでいただろうか。僕は南は向かってまた走った。
4
稽古の帰り道、僕は愛夢に嫌われたと想っていたけれど、とりあえず、そんなことはないことだけは、翌日以降の愛夢の態度でよく分かった。でも愛夢が僕に対してそれ以上の気持ちをもっているのかどうかは、僕は確認したりはしなかった。今までどおりの日々が続く。僕はこれでいいと思った。
だけど保科の言った「言うべき時」は想ったより早くやってきた。最初の稽古の日から二週間がたっていた。
その日は二回目の稽古日だった。前回と同じ稽古場を使わせていただいた。このときまでには、今後とも継続して、月二回、日曜日の午前中に相撲部の稽古が終わったあと、土俵を使わせていただけることに話が決まっていた。部員の方も、できるだけコーチして下さるとのことだった。このとき、稽古に参加した会員は全部で十六名だった。
「前回よりだいぶ人数が減りましたなあ」
部員の方が言っている。納得顔なのが悲しい。
稽古は前回と同じように進んだ。この日の僕は、一回目より随分多く、申し合いで相撲を取った。ぶつかり稽古にもまた飛び込んだ。愛夢は今度は泣いたりはしなかったけれど、とても心配そうな顔はしていたらしい。
稽古はつつがなく終了した。
この日は、一回目のように、そのまま解散することなく、全員朝香先生の家に集まることになっていた。こちらの方には会員のほぼ全員が参加した。
朝香家の一階の襖がとりはずされて、いくつかの部屋を合わせて宴会場が作られた。勿論、酒は出ない。だけど、朝香一族の相当多くの人のお手伝いもあって、みんなに鍋料理がふるまわれた。四~五人ずつでグループになって、ひとつの鍋を囲む。朝香先生、愛夢、保科、高山君、僕はそれぞれ別のグループだ。
最近は会員全体が集まる場では、なるべくかたまらないようにしているのだ。愛夢と同じグループにはいるための暗黙の戦いがあったけれど、「僕、諏訪さんの隣に座りまあす」と明るい声を出して愛夢のそばをはなれない会員がいた。一年十組の中村君だ。彼は会員の中では、比較的相撲が好きな方だし、それなりに詳しい。彼に同調する声が続いて、積極的な会員が、愛夢と同じグループを占めた。
それぞれのグループが、それぞれの話題で盛り上がっている。朝香先生はやっぱり
相撲を話題にしたかったのだと想う。だけど相撲のことが話題になっているグループはほとんどない。僕のグループもそうではないし、朝香先生のところもちがる。先生は、こういう席で、それが望まれてもいないのに自分の話したいことを話す。というタイプでは全然ない。
ただ愛夢のグループだけは、中村君がしきりに愛夢に対して相撲の薀蓄を傾けている。彼女のグループは、僕の席から割りと近いところだったので、彼の話声はよくきこえるし彼の大きな顔もよく見える。でも愛夢については、僕の席からは後姿しか見えない。中村君が相当程度は相撲に詳しいことは、聞こえてくる彼の話で分かった。彼は色々と愛夢に教えようとしているようだ。でも、彼が教えようとしている程度のことなら愛夢は全て知っている。僕にはそれがよく分かる。そして、彼女が決して人の話に水を差したりしないことも。
宴会もたけなわとなってきた。中村君はさっきから下品なギャグを飛ばして、愛夢を笑わそうとしているようだ。「そうそうそう言えば、僕は前から訊きたかったんだけど」
中村君が僕のほうを見た。
「諏訪さんと斯波は正式に一対一でつきあっているの」
急に全てのグループの会話がとまった。今の彼の言葉が聞こえなくて、まだ話し続けていた人も、まわりに注意されて話すのをやめた。さっきまでの喧騒は、一瞬にして静寂にとってかわった。みんなの視線が僕に集中する。
僕は答えた。
「仲良くはしてもらってますけれど、正式におつきあいしていただいているというわけではありません」
愛夢の頭が少し揺れた気がした。
「ふうん。そうなんだ。じゃあ、別に好きとかそういうわけでもないんだ。へえ」
僕は朝香先生を見た。それから保科を観た。二人とも同じ表情だった。口元にほんの少しの微笑を浮かべ、目が「頑張れ」と言っている。
「僕は諏訪さんが大好きです。諏訪さんが僕のことをどう思っているかはわかりませんけれど」
このとき、愛夢がどんな顔をしていたのかは僕には見えなかった。室内はどよめきにつつまれたけれど、でも、それはそれぼど大きいものではなかった。
「まあ、お前はそりゃそうだろう。諏訪さんはどうなの」
何でそんなことを訊くんだ。もし、もしも彼女が、保科の言うように、僕のことが好きだとしたら、こんな場所で言えるわけないじゃないか。もし全てこりらも勝手な思い込みで愛夢が僕のことをなんとも思っていなかったとしたら……そのときは出家しよう。それとも若山牧水のように、旅と酒に生きる放浪の詩人(作者注:歌人だよ)というのもいいな。
しかし、愛夢の答えはそのどちらでもなかった。
「私も斯波さんが大好きです」
この時の愛夢の顔も勿論、僕には見えなかった。でも、保科にはよく見えたらしい。あとで懇切丁寧に教えてくれた。
室内はさっきの何倍ものどよめきにつつまれた。
宴会は終わった。
夕暮せまる街中を、愛夢と僕は、二人だけで、朝香家から諏訪家へと到る道を歩いている。
二人ともずっと黙っている。会話が途切れた時、話し始めるのは愛夢の方が多かった。でも今の愛夢は何も話さない。やはり僕から話始めるべきなのだろう。こういうとき、一体どういうセリフを言えばいいのだろう。
「みんな、とても騒いでいましたね」
愛夢はこっくりとうなずくだけだ。会話が続かない。こんなことは初めてだ。
「明日になったら、みんなどんどん会をやめちゃうでしょうね」
愛夢は「どうして」という顔をして僕を見る。
どうしてって、だってそうに決まっているだろう。やっぱりこの子は何も分かっちゃいない。
でも……違う。今、話さなければいけないのは、こんなことではない。
僕はまた色々と思いつく限りのセリフを頭に浮かべ、そしてそれに対する愛夢の答えを想定した。色々と考えたけれど、結局、素直に聞きたい事を訊いた。
「一体、僕のどこがよかったのですか。どうして好きになってっくれたのですか」
愛夢は答える。
「『国技』で初めて斯波さんの文章を読んだ時『この人はなんて優しい人なのだろう。なんて温かい気持ちでお相撲を観ているのだろう』と思って、感動したのです」
愛夢は続ける。
「それで初めて斯波さんにお逢いしたとき、本当に想像していたとおりの人だったのです。だから……」
愛夢は言葉をここで切った。
「だから……」のあとは、いくら僕でも分かる。
「初めて斯波さんにお逢いしたのは、入学式のときの校庭で、そのとき一瞬だけ視線が合ったのですよ。憶えていますか」
僕は頷いた。そのときのことは憶えている。とてもよく憶えている。
「私、その瞬間分かったのです。あっ、この人が斯波さんだ。この人に間違いないって。でもそう思ったとたんに何だか恥ずかしくなってしまって、すぐに視線をそらせてしまったのです」
それじゃあ、あのとき、視線をそらせたのはふたり同時だったのか。
「でも視線をそらせても、もう胸がドキドキしてしまって。今でも斯波さんと一緒にいるときは、いつもドキドキしているんです」
なんだって。
「斯波さん、今日は本当にごめんなさい。私がもっと早く斯波さんに私の気持ちをお伝えしていればよかったのですね。私、斯波さんが私のことをどう思っておられるのか、分からなかったのです。自分に自信なんてないし」
この子は、この子は一体なんて子なのだ。
「諏訪さん」
僕は胸がいっぱいになった。僕の次のセリフはさっきの想定問答集のどこにもない言葉だった。
「僕のお嫁さんになって下さい」
愛夢はびっくりした表情で僕を見た。でもその表情は三秒も続かなかった。
「はい、喜んで」
そうして愛夢はゆっくりと頭を下げながら続けた。
「謹んでお受けいたします」
顔を上げた。
愛夢が笑った。
と思う間に、愛夢の大きな眼からポロポロと涙がこぼれおちた。
愛夢はいつだって、いつだって僕に笑顔を見せてくれた。
でも初めて見る愛夢の泣き顔は、そのどれよりも綺麗だった。
僕はこの時、愛夢の方に近づいて、僕ら二人の歴史の上で、新たな一歩をしるす行為を行うべきだったのかもしれない。でも、愛夢の涙を見ているとそんなことは、もうどうでもよかった。
夕陽が沈む。
西の空に描かれた神々しい紅が、六甲の山なみにふりそそぐ。
荘厳な光が僕らの周りをつつんだ。
光の中に愛夢がいる。
僕はこの時の光景を生涯忘れない。
了
(注) この小説は特定の年代・場所をモデルにしたフィクションです。
作中、愛夢がピアノで弾くパッヘルベルのカノンは、ジョージ・ウインストンのアルバム「ディセンバー」に収録されている曲を想定しています。
この作品、舞台は、昭和55年を想定していますので、その時期には、そのアルバムは、まだ世の中には出ていなかったのですが、この点は、時代考証を無視させてください。
藤原鎌足の次男、藤原不比等の名前は、史とも書きます。そのことは知っていましたが、長男で、僧になった定恵の、僧になる前の名前は、真人であったということを、この作品を書き終えた後で知りました。
びっくりしました。