side youngerNo.1
side younger.
彼の声を、自分は知らなかった。
知る必要などなかった。
知っているのは、通っている高校の最寄駅に住んでいるらしい、ということだけ。
午前8時30分と少しのタイミングで彼は現れる。
その「少し」の尺は日によって違うが、高級感を感じさせつつも気取らない、ダークスーツ姿の彼を見ない日は殆どなかった。ネクタイの色柄は大体ワンパターン。紺か深い青を斜めに入れ、その目や輪郭の鋭さを助長していた。
特別、何があったというワケではない。
断じて。
湧出するその雰囲気と顔立ちが、つい探してしまう何かを持っているのは事実だと思う。しかし別に人目を引いている訳でも誰か知り合いに似ている訳でもない。
にもかかわらず、高校生活に慣れてきた頃には「今日もいる」程度とはいえ、意識はし始めていたと思う。でもそれが何故だかは、まだ考えていないしきっとわからない。
改札を抜け、階段を降り、歩を進めること1分足らずで着くバス停。錆びれてはいるものの、他に客がいないワケではない。向かいの市バスのバス停も同じ様なもので、他に誰もいないワケではない。
ただ何故か、彼が特別なだけなのだ。
こじんまりとしたロータリーは、バス一台が通るので精一杯、という規模で、向かいの市バスのバス停に寄ったバスは肩身狭そうに目の前を抜けていく。
当たり前の様に彼を乗せて。
吊革にかける指は二、三本で、空いている手の方は、窓外からは見えない。
目があったことさえもない、ましてや声を聞いたことも、笑った顔を見たことも、接点と呼べるようなものも、何一つなかった。
それなのに、だ。
なんだってこんなことが起こったのだろうか。
一人一人に、人生という「道」なんてものが用意されているとしたら自分のそれは、多少のアップダウンと寄り道程度で構成されてきたと思う。
少なくとも今のところは。
高校に入り、一度目の夏は手も足も出ず過ぎ去った。周りの男女の関係の変化に気づいたのが遅かったのか、はたまた原因は別にあるのか、道の隣はまだ埋まらない。
そんな、淋しくものどかな私の道と比べ、彼の道はまず、位置する場所から違うのだろう。
地上を離れ、もっとずっと高いところにあって、複雑で、分かれ道や交錯で溢れているのだろう。
今までよりも世界が広がった、とはいえこちらはしがない十代女子だ。田んぼのあぜ道からやっと県道に出たとはいえ、
彼の通っている高速道路は見上げるしかできない。
そして高速道路から下を見下ろすような人はいない。わかっていた。
…つもりだった自分を恨むのは詮無いことなのだろうか。
今となってはたくさんの後悔と化した数々の仕草は数え上げたところで何にもならないが。
土曜の午後、シフト調整はしていたのに、と半ばキレつつ早足で地下鉄を目指す。行き先は友達のお誕生日会、となるのだろうか。
ささやかな祝杯には子供ビールを用意したとメールがあった。
お前以外揃ったぞ、なんて言われたって知らない。
毎日会って騒いでいた頃がそう遠くないだけに、数ヶ月ぶりの再会はこっちも待ち遠しいのだ、そんなこと言わないが。
文句はバイトの先輩に、と返すと溜飲も少しは下がった。
手土産にはバイト先から正規の手続きをかっとばして「購入」してきたCDを用意していた。いつまでたっても沸騰の気配は全くない二流バンドだが、自分と今日の主役はよく聴いている。それだけでは味気ないと、昨日のうちに駅ナカの雑貨屋で、バレッタを包んでもらっておいた。似合うだろうな、と口許が緩む。我ながらいいセンスだ。
いきなり体調不良に陥りバイトをサボった先輩は、おそらくそのショップ内で最も背が高く、それでいて顔は最も小さい。
隣に並ぶと遠近法がはたらいてしまうほどで、そのはっきりした目鼻立ちと、ショートカットを揺らしながら仕事をこなす姿は男性店員羨望の的である。
彼氏の惚気はおそらく自分にしかこぼさないのもモテる要因の一つだろう。後輩に惚気るのはどうかと思うが、
でもどこかで憧れてしまうのは「大人」だからなのだろうか。
流れる景色を目で追いつつ、吊革にかける指は二、三本。
ターミナル駅で流れ込んでくる乗客達からバレッタの入ったバッグを庇う。
折角包んでもらったのだ、くしゃくしゃで渡すのはしのばれる。その時。
彼が転んだ。