第一章①
睡眠とは人類の至福ベスト三に入ると思う。布団に入った瞬間。二度寝の瞬間。至福を感じる点は人それぞれだ。しかし、その至福の中でも不愉快な気分に陥ることがある。
それは、睡眠を邪魔されることだ。すなわち、他人に起こされることである。
春休み最終日、僕はとある事情により悔しさと遺憾で高校一年最後の休みを終えた。次の日からは高校二年生となって、新しい生活を歩むわけなのだが、どうだろうか。新学期初日くらい気持ちよく起きたいものだ。
その牙城はもろくも崩れ落ちる。顔面を照らすように、窓から差し込んできた太陽の光はまぶたを貫通し、眼球にまで届く。目覚めない方がおかしいほどの眩い光だった。
おかしいな、昨日はカーテンをしっかりと閉めたはずなのに。
明るく照らされるまぶたを右腕で覆うようにして、再び深い闇へと戻す。だが、現状を考察する間もなく、今度は布団が宙へと舞う。
何? 異世界からの侵略者?
「おっきろー! 朝だぞ」
布団がとられる勢いと脳の芯まで響く大声に目を覚まさざるを得なかった。何が起こったのかと思い、慌てて周囲を確認すると、そこには両手で布団を持った女が立っていた。
どこのマタドールだよ。いくらスペイン人でもシエスタ中に闘牛が来るとかびっくり企画はないはずだろう。
学生服にスカート、ニーソックス。闘牛士とは程遠い姿だ。というか、よく見ると、いや、よく見なくても、うちの学校の制服だ。
布団を剥がされた僕は冬眠中の蓑虫のように体を丸める。春とはいえ、まだ冬の寒さが抜け切れていない四月の朝は、布団なしではいられない。
「おーい、朝だってー、起きろー」
聞き覚えのある声、というにはいささか不自然か。毎日のように聞いているこの声は顔を見なくてもわかる。幼いころから延々と聞き続けてきた声だ。
家が斜め前にある、充那さん家の一人娘。なんかライトノベルのタイトルみたいだな。
下は紗郁という名前で、昔から家族同士で仲が良く、生まれた時から付き合いがある。
お互いの母親が産婦人科に通っているうちに仲良くなったようで、幼稚園から高校まで同じ道を歩んできた。いわば幼馴染というものなのだが、学年が一つ上のお姉さんだ。とはいっても、生まれた月は一ヶ月しか変わらず、ほとんど同い年である。だからその分、同じ学年がよかったと、正直一〇〇回は聞いたような気がする。いや、比喩とかじゃなくて、ほんと。
それでも、僕に構ってくれる何でもできる立派なお姉さんだ。僕は「さや姉」と呼び、向こうは「ゆうくん」と呼ぶ。高校生にもなって、この呼び方は少々恥ずかしいのだが、お互いがこれ以外の呼び方ができないのも現状。慣れというのも怖いものだ。
世話係のように付き添ってくれるのはありがたいのだが、僕は早くこのお姉さん離れをしなくてはいけないとも思っている。いつまでも頼っていると、キャリアウーマンなんて見つけられないし、さや姉にも学生生活の青春を謳歌して欲しい。
年下の幼馴染ばかり世話していると、彼氏なんてできやしないのだろう。登下校や休みの日にはよく一緒にいるので、彼氏なんて影は一切ない。と思う。
それでも、睡眠を邪魔するものは誰であっても許さない。
「あと一時間……」
「早く、遅刻するよ」
他人に起こされる時のテンプレートのように答えたものの遅刻という言葉に反応してしまう。始業式とはいえ高校二年になって初日から遅刻ということは、是非とも避けたい。
自慢ではないが、一年の時は一度も遅刻をしたことがない。それも、さや姉が毎日こうして迎えに来てくれているからなのだが。
不本意ながらも体を起こしベッドからゆっくりと降りる。睡眠時間が短いわけではないのだが、人に起こされる朝は何とも快調な起床ができない。
目の前に立ったさや姉は笑顔で仁王立ちしている。いつまでもこの人には頭が上がらない。
朝からそんな爽やか笑顔で見られると文句の一つも言えないじゃないか。
「さや姉、おはよう」
「うん、おはよう」
結局、睡眠の妨げをした文句も言えず、朝のあいさつを済ませた。
僕の寝起きのテンションとは正反対の笑顔は朝から重すぎるよ。朝食に背脂たっぷりのとんこつラーメンを出されている気分だ。
この朝から暑苦しい笑顔も慣れたもので、怒りなど湧いてこない。
のそのそと部屋を出ると、そのまま廊下をすり足で進み、下の階へと降りていく。さや姉は見守るようにして僕の後ろからついてくる。
階段中部あたりから見えてくる玄関のガラスを通した太陽の光がまた目に突き刺さる。目を細めながらも一階へとたどり着くと、そのままリビングの扉を開ける。
「ほら、さやちゃんが来てるんだから早く支度しなさい」
母さんがいつものように朝食を作って待っていた。テーブルには妹の杏奈が制服でパンを食べており、父さんはいつものようにソファでコーヒー片手に朝のニュース番組を見ている。
朝はいつも、おはようテレビというニュース番組を見るのが日課のようだ。目的はニュース番組というより、よっちゃんの愛称で親しまれる美人アナウンサーが目的なんだろう。
入社二年目に突入した美人アナウンサーを見て一日を頑張れるなんて、いい歳して何してんだよ。って、ん?
よっちゃんが出るテレビ画面左上に表示された時刻に目をやる。時刻は七時五分。
そっか、おはようテレビは七時からだから……えっと……今日は始業式で九時開始……
「って、七時!? 早いよ! ほんとにもう一時間寝られたよ!」
騙された。妹もいるから時間が正しいのかと思ったけど。
「朝からうるさいし、黙って座れば?」
杏奈に睨まれてしまった。今日から中学二年生というのに、すでに垢抜けた妹である。お小遣いを友達との買い食いに使うくせに、親や親戚にねだってブランド服を買わせるという悪女である。僕も何回買わされたことか。
今日から楽しい明るい学生生活を送るんだろうな。クラス内では上位グループにいそうだし。
仲が悪いわけではないのだが、かといって特にいい関係でもない。こっちから話しかけると「何」と睨まれるのに、向こうから話しかけてきたときに無視すると怒るのだ。
『海外でも人気のリリアンヌ。三月に日本解禁になりましたが、一ヶ月経ってもその人気は衰えることを知りません。すでに全国に三店舗を掲げ、行列ができています』
テレビでは新作ファッションブランドを紹介していた。
「わぁ、これ欲しい。うちの学校でも話題になってんの。ママ今度買って」
杏奈は朝食そっちのけで、テレビに釘付けになっている。
どうして女っていうのは恋話とブランド物が大好きなんだろう。うちの妹はミーハーで新しいものが大好きだからな。それに引き替えさや姉は……派手すぎず地味すぎず。
「なによ」
目が合った。
「いや、別に……」
この家は女性が強すぎて逆らえない。母さんに頭が上がらない父さんは、まだ眠りについている大学生の姉貴と妹にもこき使われている。そこへさや姉まで来た日には、大変だ。討論になると、まず父さんは女側に味方する。母さんはともかく、姉貴と杏奈にはたてつかない。そうなれば、四対一になった僕は自然と白旗を上げるほかない。
だから、この家では逆らうことができないのだ。女性中心の法律がこの家にはある。
そのままテーブルに着いて朝食を食べている隙に、両親は二人一緒に出ていった。共働きの二人は母の運転で父さんを会社へ送り届け、母さんはそのまま仕事場の役所へと向かう。
「何年経っても仲いいね、あの二人」
テーブルの向かいに座ったさや姉は、窓から二人の出勤姿を見て言った。
「喧嘩しても次の日には仲直りしてるし、あの二人」
杏奈がお茶を飲みながら、言う。
「あれは喧嘩とは言わねえよ」
母さんが父さんを一方的に咎めてるだけだ。喧嘩というより説教だ。
朝食を終わらせ、顔を洗い、寝癖を直し、歯を磨く。最後に制服へと着替えると準備は完了。
登校の準備をしたところで、時刻は八時を回っていた。始業式には少し早いが、さや姉がいるので出ないわけにはいかない。
「じゃあ、行ってきます。杏奈、鍵頼むな」
「うん」
というか、あいつも学校だよな。何で僕らより遅く出るんだ。まさか不良になったんじゃあ。
そんなどうでもいいことを考えながら、桜が散る道を歩きながら学校へと向かう。