第三章 不可解な温もり
第三章
あたしはいつものように桜の散る道を駆け抜け学校に向かい、何も変わらない朝を迎える予定だった。しかし、その予定はあっさりと崩れた。
学校の玄関は何故か閑散としている。階段を上り『二‐二』と書かれた教室に向かうあたしの足取りは、雰囲気の違和感のせいか重かった。いつもなら賑やかな声が聞こえてくる廊下も、やけに静かだ。あたしは恐る恐る教室の扉を開けた。
あたしは自分の目を疑った。あと少しで一限のチャイムが鳴るのに、何故か教室には生徒がほとんどいない。
「お、おはよ……」
控えめの挨拶と共に、教室を見渡すあたし。
「あ!千夏ちゃん!おはよ」
あたしと目が合った瑠璃ちゃんが少し慌てたように駆け付ける。きっと、瑠璃ちゃんもあたしの気持ちに近い何かを感じていたと思う。
「おはよう瑠璃ちゃん!──この状況……何かあったの!?……ってか沙耶は?!」
状況が掴めないあたしは少し興奮気味に聞いた。
「あのね、瑠璃が教室に着いた時は、何も無かったんだ。いつものように沙耶ちゃんと話していて……でも、突然三階から怒鳴り声と悲鳴が聞こえて、大きな物音がしたの……」
瑠璃ちゃんは呼吸を整え、続けた。
「瑠璃たちが呆気にとられていたら、三階から三年生の先輩が降りてきて、沙耶ちゃんに『お前の彼氏が大変だぞ』って言ってきたの。凄く焦っている感じだった。沙耶ちゃんはその先輩と一緒に三階へ向かって、クラスの皆も心配していたり、面白がったりしてほとんど三階に行っちゃった……」
「そんな……」
言葉が出なかった。閑散としたクラスの原因に、沙耶と沙耶の彼氏さんが関わっているなんて、思いもよらなかった。
「瑠璃は怖くて何も出来なくて、ここに残っちゃった……。最低だよね……」
「そんな事ないわ瑠璃ちゃん。三階で何が起こっているかも分からないし、危ないわよ。最低なのは面白がって見に行った人たちの方」
あたしは少し大人ぶってしまったのかもしれない。沙耶なら本心で言いそうな台詞を、堂々と言ってしまった。もしあたしが瑠璃ちゃんの立場だったら、もっと怖がっていただろう。
「きゃあぁぁぁぁぁ!!!!!!」
耳鳴りがしてしまいそうな悲鳴が、やはり三階から聞こえてきた。沙耶が危ない目にあっているかもしれない。あたしが困っているとき、沙耶は助けてくれた。
「あたし……ちょっと行ってくる!瑠璃ちゃんはここで待ってて!」
そう言うとあたしは教室を飛び出し、三階へと駆け出した。
三階の『三‐一』と書かれた教室は、既に生徒たちで溢れかえっていた。
入口付近の生徒たちを掻き分けながら群れに飛び込み、騒動の中心地と思われる三年一組の教室内へと入って行った。
生徒と生徒の隙間から、その中心地の光景がわずかに見えた。
そこには胸倉を掴まれている端正な顔立ちの男子生徒と、その生徒の胸倉を掴んでいるゴリラのような男子生徒が立っていて、周りを野次馬や心配する生徒が囲んでいた。
「千夏!」
あたしと同じく人混みに揉まれていた沙耶が飛びついて来た。
「沙耶!大丈夫?なんか凄い事になってるね……」
「私は大丈夫……でも、こうちゃんが!」
「こうちゃんって……沙耶の彼氏さんの?!」
沙耶の返事を聞く前に、あたしは全てを察した。さっき見た、端正な顔立ちの生徒は、沙耶の彼氏さんの、宇津木孝作先輩だったのだ。
沙耶が泣いていて、あたしはどうしたら良いか分からなかった。理由は分からないけど、孝作先輩を助けなければ……。でも、ゴリラ生徒のあの腕。殴られたりしたら……。
「おい、邪魔」
聞き覚えのある冷たい言葉と共に、あたしは突き飛ばされた。
「ほら邪魔邪魔。どけ」
その男はどんどん中心地に潜入していき、騒動のせいで乱れた机と椅子の中から、自分の机と椅子を見つけ、彼の領土であろう窓際に配置し、だるそうに座った。
皆、一瞬呆気にとられたが、ゴリラ生徒が我先にと叫び散らした
「おい隆次てめぇ!」
冷たい男の人の正体はやはり隆次先輩だった。突き飛ばされた背中の痛みが増す。隆次先輩の冷たさは今に始まった事ではない。でも不思議な魅力があるのだ、と、沙耶に話した事を思い出した。
隆次先輩の言葉と態度にゴリラ生徒は自我を失い、孝作先輩を勢いよく投げ飛ばし、隆次先輩に鼻息を荒くしながら近づいた。
孝作先輩は床に倒れ、沙耶が駆け付けているのが見えたが、ゴリラ生徒の方に注意を寄せていたあたしは震えていた。
「あぁ?殴りたいなら殴れば」
冷めた隆次先輩の言葉で、ゴリラの血管が切れるような音がしたと同時に、大きな腕を振り下ろした。
教室、いや学校中に響く悲鳴。倒れ込む隆次先輩。震えるあたし。
「お前ボクシング部だろ?殴り返せよほら」
冷めた視線を返す隆次先輩に、ゴリラがもう一発目を構えた。
「やめて!!!!」
耐えきれなかったあたしは大声で叫び、気付くと隆次先輩の前に立ち塞がっていた。
どうしたら良いのか分からなかったけど、何故か抵抗しない隆次先輩がこれ以上殴られるのを見たくなかった。
ゴリラ生徒の動きが一瞬止まり、
「お前、隆次の事が好きなのか?」
と興味本位で聞いてきた。
顔を真っ赤にしたあたしは震えながらゴリラに睨み返す。
「こいつはおもしれぇ。おい、お前。そこにぶっ倒れている隆次にキスしろ。そうすりゃ見逃してやる」
「はっ!?あたしが隆次先輩にキキキ……キス!?冗談じゃな──」
──あたしの口が塞がった。
温かく柔らかい感触は、すぐに隆次先輩の唇だという事が分かった。
あたしの心臓は張り裂けそうで、今の状況を理解出来ず、頭が真っ白になり、不思議な暖かさに包まれた。
「これでいいだろ。さっさと行け」
あたしの緊張感とは裏腹に、隆次先輩は『一つの作業』を終えたかのように気だるくゴリラをあしらった。
「まさかお前からするとはな……。はっ」
拍子抜けするような冷めた小馬鹿にする笑い声が聞こえ、野次馬生徒たちや孝作先輩、沙耶までも皆、呆気にとられた。完全に場の空気は沈静していった。
ようやく学校に異変を感じた教師たちが騒動を治めようと駆け付け、三年一組の教室から生徒たちが各教室へと帰って行った。皆、大半は呆れ返っていた。冷やかす生徒もいた。
あたしはその場に、まるで魂が抜けたかのように立ちすくんでいて、孝作先輩が沙耶に心配されながら、教室を出て保健室に向かう際、
「ごめんね千夏ちゃん、俺のせいで巻き込んでしまって……」
という暖かい声だけが耳に残っていた。
「ほら、さっさと帰れ」
隆次先輩の冷たい声があっさりとあたしの胸に突き刺さる。
気付くと三年一組の教室はいつもの姿に戻り、あたしだけ取り残されていた。
逃げるように自分の教室の戻り席に着いたあたしは、瑠璃ちゃんに心配されながら放心状態で授業を受けた。
「千夏ちゃん大丈夫だった?なんか、ぼーっとしてるみたいだけど……」
「……えっ!?あぁ、うん大丈夫平気平気ありがとう」
「本当?凄く心配したよ。沙耶ちゃんや孝作先輩は……大丈夫だった?」
「…………」
「ちょっと千夏ちゃんっ」
駄目だ、と瑠璃ちゃんは思っただろう。あたしならそう思った。
あたしは冷静になっていた。隆次先輩とのキスの余韻に浸る間もなく、何故、簡単に振った相手に易々とキスできるのかと疑問を抱き、あたしの心は複雑に傷付いていた。
「あっ、沙耶ちゃん!」
保健室から教室に戻ってきた沙耶を見つけ、瑠璃ちゃんが叫んだ。
「沙耶ちゃん、大丈夫だった……?」
「ありがとう瑠璃ちゃん。私とこうちゃんは大丈夫よ。それより千夏のほうが……」
「もう!意味分かんない!!」
あたしは瑠璃ちゃんとは方向性の違う叫びをした。
「どうしてあんなに簡単にキスが出来るわけ!?あんなに簡単に振った相手にさ!しかも、初めてだったのに……」
あたしはまた泣いた。驚きながら心配してくれる瑠璃ちゃんや、あたしよりもっと辛い状況の沙耶の事を頭に入れず、怒りと悲しみが込み上げてきた。
「千夏、気持ちは察するわ。もっと他に方法があったはずだし、隆次先輩は千夏の……女の子の気持ちを傷付けたのは事実だわ……」
辛いはずの沙耶が慰めてくれた。
「そうよ!あのゴリラの言いなりになるなんて!それに隆次先輩は宇津木さんと付き合っているんじゃないの!?」
そう言うと、今日、宇津木さんは学校に来ていない事に気付いた。
「とにかく本人に直接言いたい事が山ほどあるわ!」
鼻水をずるずる流しながら鼻息を荒くし、机をばんばん叩きながら怒りを露わにした。
「落ち着きなさいっ」
あたしが叩いたせいで定位置からずれた机の位置を戻しながら、沙耶がなだめる。
「放課後、隆次先輩に直接会って聞いてみたらどう?」
沙耶の言葉に後押しされたあたしは、自分の部活そっちのけで、ボクシング部の部室、練習場、三年一組の教室を走り回っていた。気付けば同じところを何回もまわっていて、各場所にいる生徒や先生に隆次先輩の足取りを訪ねたが、返ってくる言葉は皆「知らない」だけだった。
「どこにいるの……!」
疲れ果てたあたしは別の場所を探そうと、廊下を当てもなく歩いた。保健室が視界に入り、素通りしようと思ったが、沙耶が放課後、保健室で休養している孝作先輩の様子を見てくる、と言っていたのを思い出した。
孝作先輩の様子も心配だし、何故あのゴリラ生徒に襲われたのかも気になっていた。
さすがに三日連続ともなると迷惑かなと思い、静かに恐る恐る保健室の扉を開けた。
「ん?千夏?どうした?」
そこには、律子先生だけが紅茶を啜っていた。
「あっ、律子先生。沙耶と孝作先輩いますか?」
「あぁ。あの二人なら、ついさっき帰ったよ」
「そっか……。孝作先輩、大丈夫だったんですか?」
「倒れたせいで少し捻挫をしちゃったけど、それ以外は大きな怪我は無かったわよ」
「良かった……。今頃はデート中かなっ」
少し羨ましく思ったあたしは嫉妬気味に言ってしまった事に照れ臭くなり、保健室を出ようとした。
「ねぇ千夏、あの二人は本当に幸せなのかしら……?」
「えっ?」
幸せに決まっているじゃない先生。先生まで嫉妬?良い歳してっと思ったがさすがに口には出さなかった。
「孝作君、今日大変だったみたいね」
先生は話を変えた。
「うんうん、ゴリラみたいな先輩に襲われて」
「ゴリラって」
「でもなんで襲われたのか、分からなかった」
あたしがそう言うと、先生は一瞬間をとり続けた。
「さっき三人で話したんだけど、どうやら孝作君に嫉妬してたみたいよ。その……ゴリラ君?が」
「そっかぁ……。確かに孝作先輩は勉強も運動も何やっても完璧だし、格好良いし、目立つもんね……」
あたしは納得した。けど、それだけの理由で襲いかかるなんて、ゴリラ先輩には納得いかなかった。
「その話が終わった後、職員室に用があって、少し保健室を離れていたんだけど、職員室から帰ってきたときに、丁度あの二人が保健室から出てくる所だったのよ」
あたしは息を飲み、律子先生の話を聞き入った。
「そしたら、沙耶ちゃんが俯いていて、泣いていたのよ」
「えっ……?」
「沙耶ちゃんに声をかけようとしたんだけど、孝作君が心配要りませんって言って、急いで帰っちゃったのよ……」
「そんな……二人の間に何があったの……」
「分からないわ。でも、世の中に完璧な人間なんていないわ。孝作君を疑う訳じゃないけど、完璧に思われている人ほど、背負っているものは大きいのかもしれないわ……」
部活の終わりを告げるチャイムが鳴り、いつも笑顔で幸せそうだった沙耶の意外な一面。気付いてあげられなかった部分を垣間見た。あたしは自分だけが不幸だと思っていた事を、恥じた。