第一章 散々な一日
第一章
散々な一日
昨日の事など忘れたかのように、あたしは足早に桜の散る道を駆け抜け、一限のチャイムが鳴り響く学校の教室へと向かっていた。
「おはよう、千夏」
教室に着き、一番に挨拶してくれる沙耶が声をかけてきた。
きっと昨日の事を聞きたがっているに違いない。
昨日あたしは勇気を振り絞って片思いである隆次先輩に告白した。返事はNOだった。こんな散々な結果を伝えても、沙耶を困らせてしまうだけだ。お願い今は何も聞かないでと、心の中でつぶやいた。
「さっ、今日は1週間で最もだるい1限からの体育だよ」
沙耶はあっさりと私の不安を振り払った。
体育の事よりも、もっと気になる事があるでしょうに。でも、きっと気付いていたに違いない。あたしの気持ちはいつも沙耶に見透かされてしまうのだ。
「早くしないと遅刻しちゃうよっ。ほら早く」
「あ!待ってよっ。この幸せもんめっ」
沙耶の背中は、あたしが昨日思い描いていた好きな人と結ばれるという幸せを、半年間も背負ってる。私たちはさっさと更衣室に行き体育着に着替えた。
足早に体育館に向かったが、既にボールをつく音が聞こえてきた。今日もバレーボールをやるようだ。このところ体育はずっとバレー。
「ほら、遅刻二人組。さっさと来い。練習試合するぞ。あ、時間無いから、1セット先取な」
体育顧問が面倒くさそうに呼び掛ける。
けど、試合と聞いてあたしの胸は高鳴る。運動が大好きなあたしは『試合』と聞いただけで
どんなに冷めた心も沸点に到達する。
「じゃあ名前呼ぶぞ~」
「はい!」
熱のこもったあたしの声が体育館に響いた。
「まだ名前呼ばれてないでしょ」
沙耶はにこっと笑った。
「あ、お前ら二人は遅れて来たから、そこの宇津木たちと組め。丁度6人になるからな。いいな、宇津木」
「は~い」
猫があくびしたような返事があたしの耳に通り抜ける。
それと同時に、あたしの沸点が氷点下まで冷めきった。
「宇津木…さんって、あの宇津木蘭……さん?!」
オーバークールした心を温めようと、顧問に再確認した。
沙耶のほうに目を向ける余裕はなかったが、きっと呆れていたに違いない。
「なんだ?宇津木じゃ不満か?」
「い……いえ」
あたしは苦笑いするのが精いっぱいだった。
「あら千夏に沙耶。私の足を引っ張らないようにせいぜい頑張ってね」
嫌味ったらしい女だ!
確かに宇津木さんは可愛いくてスタイルも良いけど、人を見下す才能にも恵まれている。そしてその周りの子たちもその才能を受け継ぎ、見事にその4人が余ってあたしたちとチームを組むはめになった。
「何よ。いいわ、せいぜい頑張るから、あなたも足を引っ張らないでよね!」
あたしの心が再び燃え始めた。
「言ったわね」
顧問がため息をつき、クラスメイトが黙り込む。体育館が寒く感じるのは気のせいではなかった。
試合が始まり、あたしは必死にボールを追いかけた。夕方に控えている陸上部の練習の事など頭の隅にも置かず、動いて、動いて、また、動いた。
「凄いよ千夏!」
駆けつけた沙耶の人差し指は、二十四対六と書かれたスコアボードを指していた。あと1点で私たちの勝ちだ。周りを見渡すと、皆があたしを見ていた。顧問も、生徒も、宇津木さんたちまでも。自意識過剰化もしれないが、皆の視線が暖かかった。ただ、一人を除いては……。
優越感に浸っている間もなく、相手チームのスパイクがあたしに飛んできた。反応が遅れ、百メートル走のスタートを切るかのようにボールを追いかけたが、何かがあたしの足に引っ掛かった。細長く綺麗な物体。あたしはそれだけしか認識できず、目の前が真っ暗になった。
あたしの目が半分開いた。半分の世界には、真っ白な景色が広がっていた。
「あら、気が付いたみたいね」
母親が愛娘に問いかけるような、優しい声だった。
「律子先生?……ってここ保健室!?あたし、なんで保健室にいるの!?バレーはどうなったの!?もう意味分かんない!」
「落ち着きなさい」
今にも泣きそうなあたしに、先生が優しくなだめる。
「沙耶ちゃんから聞いたわ。あなた、宇津木さんに足をかけられて転ばされたんですって?」
「えっ?」
あの綺麗な物体は宇津木さんの足だったのだと実感した。
「それに、千夏。よっぽど疲れてたみたいね。転んだまま意識を失って、沙耶ちゃんがここまで運んできてくれたのよ」
先生がそう言うと、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。外はオレンジに光っていた。そういえばあたしは昨日、まともに寝ていない。昨日から、嫌な事ばかりで気持ちが溢れた。
「うわぁぁぁぁん!」
赤ん坊のようにあたしは大泣きした。
「なんで、なんでこんな事になるの……!」
「あたしは誰からも好かれないの?!もう嫌だよ……!」
頭がこんがらがって、泣くことしかできないあたしに、先生が近寄ってきた。
「人に好かれるにはね、人を好きになりなさい。愛されたければ、愛しなさい!……なんてね。」
先生はちょっぴり臭い台詞を言ってしまったと思ったのか、最後に『なんてね』を付けた。でも、先生の言葉はあたしの心に突き刺さった。
「さぁさぁ、もう下校時間よ。あんた寝過ぎ!いつまでも泣かない」
「あぅぅ……」
先生に引っ張られるようにして保健室から出たあたしの前に、丁度授業を終えた沙耶が駆け付けてきた。
「千夏!大丈夫だった?一緒に帰ろっ」
あたしは思わず沙耶に抱きついた。沙耶の愛情を抱き締めたかった。
「ごめんね、沙耶」
「?」
誰からも好かれないなんて言ってごめんね。と、あたしは心の中でさらに付け足した。
「大好きだよ沙耶っ」
そう言ってあたしは沙耶に頬ずりをした。
「あたまでも打った?よしよし」
沙耶は笑顔であたしの頭を撫でてくれた。
「さっ、あんたたち。気を付けて帰りなさい」
律子先生は安心した表情であたしたちを見送った。
──その日の夜、あたしは律子先生の言葉を思い出していた。
宇津木さんに嫌われているのはきっと、あたしが宇津木さんの事を嫌っているから、お互いどんどん険悪な仲になってしまう。隆次先輩の場合は……。考えても仕方ない。まずは明日、身近な宇津木さんの事を好きになってみよう。連絡先すら知らないしっ。
あたしなりに精いっぱい決意し、それ以上は何も考えず、布団を被った。