第2話 さあ先生!俺の尻を木剣で叩いて下さい!
リリィへの謝罪を終えた後、俺の心にはある種の清々しさと同時に、新たな焦りが生まれていた。
(このままでは、また破滅の道を歩むことになる……)
俺の先ほどの行動は、ただの自己満足に過ぎない。前世での悪行を償うことだけでは、未来は変わらないだろう。
俺は、根本から自分自身を変えなければならない。
――傲慢で、自分の才能に胡坐をかいていた、あの俺を。
「……そうだ。まずは、アーノルド先生だ」
アーノルド・グレンジャー。
俺の剣の師。前世では俺が馬鹿にし、侮辱し、見下した人物だ。
彼は俺の才能を見抜き、その才能を正しく磨くための教えを説いてくれた。
しかし、当時の俺は、自分が生まれながらにして天才だと信じて疑わず、彼の助言を『凡人の戯言』と一笑に付していた。
その結果、俺は才能の全てを開花させることなく、破滅の道を歩むことになったのだ。
(今生では違う。俺は先生の教えを、一から学び直す……!)
俺は意を決して、アーノルド先生の元へと向かった。
公爵家の敷地内の静かな森の奥にある、簡素な小屋。
前世では一度も足を踏み入れたことのない場所だった。
元々は亡くなった俺の父が与えた小屋らしい。盗賊に襲われた父はその場居合わせた先生に命を救われ、それ以来アーノルド先生は食客として俺の屋敷(正確には敷地内の小屋)に逗留している。
扉を叩くと、中から静かな足音が聞こえてくる。扉が開くと、そこに立っていたのは年季の入った道着を身につけた、がっしりとした体格の初老の男だった。
「スレイン様……お久しぶりでございます」
アーノルド先生は、俺に対して深々と頭を下げた。
その謙虚な態度が、彼の実直な性格を物語っている。
俺はそんな彼に、無遠慮な言葉を浴びせ続けたのだ。
「アーノルド先生……お久しぶりです」
俺は今までの俺とは全く違う、丁寧な言葉遣いで挨拶をした。
先生は俺の態度に戸惑っているようだった。
「スレイン様……本日は、どのようなご用件でしょうか?」
先生の問いに、俺は深く頭を下げた。
「先生……どうか、俺にもう一度、剣を教えていただけませんか」
俺の言葉に、先生の目が大きく見開かれた。
「スレイン様……?」
先生は、信じられないといった表情で俺を見つめる。
無理もない。かつての俺なら、こんなことを言うはずがないのだから。
「俺は、自分の傲慢さを深く反省いたしました。己の才能に溺れ、先生の教えを蔑ろにした俺を……どうか、もう一度、ご指導いただけませんか」
俺はそれだけを伝えた。前世の記憶を語ることはできない。しかし、この言葉だけでも、俺の決意が伝わることを願う。
アーノルド先生は、しばらくの間、何も言わずに俺を見つめていた。
その瞳には、困惑とかすかな期待のような光が宿っているように見えた。
「……分かりました。スレイン様。私の教えを、真摯に受け止めてくださるのなら……喜んで、お引き受けいたしましょう」
先生の言葉に、俺は顔を上げた。
「ありがとうございます!」
俺は、心からの感謝を込めて、そう言った。
しかし、先生は、すぐに真剣な表情に戻ると、俺にこう告げた。
「ただし、スレイン様。私の稽古は、非常に厳しいものです。覚悟はできておられますか?」
「はい。以前の俺とは違います! 必ずやり遂げて見せます!」
◆
アーノルド先生の訓練が始まった。
先生は一切の妥協を許さなかった。
前世の俺なら、小一時間、いや数分で音を上げていたであろう、厳しい基礎訓練。 しかし、今の俺には、それが必要不可欠だと分かっていた。
(前世で、俺は先生の言葉を全く聞いていなかった……)
素振りの一つ一つ、足運びの一つ一つに、先生が込めた意味を俺は今になってようやく理解する。
俺が天才だと驕っていた剣技は、実は基礎が全くできていなかったのだ。
「スレイン様! もっと腰を落としなさい!」
「はい!」
先生の厳しい声が、屋敷の中庭に響き渡る。
俺は、泥まみれになりながら、何度も何度も素振りを繰り返した。
前世ではこんなことは考えられなかった。
俺は常に清潔で優雅な生活を送っていた。
しかし今の俺には、その泥と汗が何よりも尊いものに感じられた。
剣を振る度に、かつての怠惰だった自分から、一歩進める気がする。
何よりも、自分の剣が上達していくのが嬉しい。
アーノルド先生はそんな俺を見て、感慨深く呟く。
「やはり……(この方の才は規格外だ。この方なら私の剣の『先』の景色を見せてくれるのかもしれない)
そんな俺の姿を、公爵家の人々が目撃することなる。
その中には、リリィの姿もあった。
◆
――スレイン様が、最近おかしい。
それが、リリィの偽らざる感想だった。
きっかけは、あの日の朝。
スレインが、血相を変えて使用人部屋にやってきて、「鞭で俺を打て」と叫んだあの奇行だ。
(なぜ、スレイン様はあんなことを……?)
それ以来、スレインの生活は一変した。
朝は早く起き、午前中は勉学に励み、そして午後はアーノルド様の元に行き、剣の修行に明け暮れる。以前なら、昼過ぎまで寝ているのが常だったのに。
しかし、良い変化であることには間違いない。以前に比べると癇癪を起こす回数は激減した。皆無になったと言ってもいい。
執事長などは、
「これで亡き旦那様、奥様に顔向けができます」
とその変わり様に涙を流したほどだ。
しかし、リリィは釈然としない思いを持っていた。
人がそんなに簡単に変われるだろうか。
リリィの背中にはまだ、スレインが折檻で刻んだ鞭の跡が残っている――。
そんなある日の午後。リリィは掃除のために中庭にやってきた。すると中庭の片隅にある訓練場から、木と木が打ち合う激しい音が聞こえてくる。
「……っ!」
リリィは、その音に思わず足を止めた。訓練場には、二つの人影があった。一人は、公爵家の剣の師であるアーノルド。そしてもう一人は……。
「スレイン様……?」
はっきり言って、信じられない光景だった。
あのスレインが、道着を身につけ、汗だくになって木刀を振っている。
その一振り一振りが、力強く、そして真剣だった。
アーノルドも、彼に容赦なく打ちかかっている。
以前のスレインなら、剣の稽古など、せいぜい一時間もすれば飽きて放り出していた。それなのに、今はアーノルドの厳しい指導に食らいつくようにして、応えている。
「まだだ、スレイン様! 腕が降りている! 視線が胡乱だぞ!」
アーノルドの檄が飛ぶ。
スレインは、返事もせずに、ただひたすらに木刀を振っていた。
その顔は苦痛に歪んでいたが、その瞳には強い意志の光が宿っている。
リリィは、掃除の手を止め、ただただその光景に見入っていた。
(スレイン様が……こんなに一生懸命に……)
彼の姿は、以前の彼女が知る傲慢で非道な姿とは、あまりにもかけ離れていた。
やがて、稽古が終わった。
スレインは、その場に大の字になって倒れ込む。
全身から、湯気のように汗が立ち上っていた。
リリィは、彼に近づこうか迷った。しかし、声をかける勇気が出ない。
リリィは、ただただその場に立ち尽くしていた。
スレイン様の奇行は、一体何だったのか?
なぜ、彼はあんなにも必死になって、修行に打ち込んでいるのか?
その答えは、リリィには分からない。分からないが、確かなことが一つだけある。
――スレイン様は変わろうとしている。
それだけは確かだった。
◆
訓練を始めてから、数か月が経った。
俺は先生と互角に打ち合えるようになっていた。
しかしそれは身体能力や生まれもった魔力に頼った結果だ。剣の技量では俺はまだまだ先生の足元にも及ばない。
(剣……おもしれぇ!)
学べば学ぶほど剣の奥深さ、そしてその面白さにのめり込んでいく。フェイント一つ、剣先の僅かな揺らぎにも意味がある。
(俺は……本当に、馬鹿だったな)
汗を拭いながら、俺は前世の自分を深く反省していた。
前世では、俺は自分の才能に溺れ、先生を完膚なきまでに打ち破った。
そして、地面に這いつくばる先生の尻を、木剣で思い切り叩いた。
屈辱に耐える先生の顔を見て、俺は満足げに笑った。
……その時の忌むべき光景は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
「スレイン様、今日はもう終わりにしましょう」
アーノルド先生の声に俺は我に返った。
先生は静かに木刀を納め、俺に背を向ける。
「少し休んでから戻るように」
「スレイン様。タオルをどうぞ」
「ありがとう、リリィ
傍らで訓練を見守っていたリリィがタオルを差し出す。俺はタオルを受け取ると、先生の背に声をかけた。
「先生!」
「スレイン様……何か、まだ用件が?」
「はい……」
俺は、意を決して、先生に頭を下げた。
「先生……どうか、俺の尻を、木剣で、思い切り叩いてくれませんか」
「―――――は?」
先生の顔が、困惑に染まる。
「スレイン様……何を、おっしゃって……?(やっぱり変だ、この方!)」
リリィの顔が何故か青くなっている。
(これも……前世でしたことの、謝罪だ……!)
俺は、必死に言葉を重ねた。
「これは、俺の……俺の罰です。俺が、先生の尊厳を傷つけたことへの……謝罪です!」
先生は、ただただ困惑した表情で俺を見つめていた。
「スレイン様……以前のことはもう気にしておりません。それに……そのような、馬鹿げたことは……」
「いいえ! これは俺の贖罪です! 先生が俺を許すかどうかは……俺を、罰してから決めてください!」
俺はそう言って、その場で地面に這いつくばる。
「なっ……!? スレイン様! やめてください! そのような真似は……!」
先生は俺の肩に手を置き、立ち上がらせようとする。
だが、俺は頑として動かなかった。
「先生……! 俺を……俺のこの罪を、どうか、罰してください……!」
先生には珍しくその顔は青く汗だくだった。そして先生はややあって言う。
「スレイン様。こうしましょう。あなたの罰は一旦保留です」
「しかし――」
「もし……あなたが私を破ることができたなら、その時はあなたの尻を叩きましょう」
「わかりました。約束ですよ!」
「はい……(これで私はスレイン様に負けられなくなったな……)」
◆
これを機に、アーノルド・グレンジャーはスレインに負けぬように、必死に授業を積み、若い頃以上の実力を身につけるようになる。
齢50を超え全盛期を迎えた彼が『剣聖』と呼ばれるようになる話は、また今度にしよう――。




