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空っぽの履歴書と、道標になった言葉

 クロサキ・ジンの件が一段落し、異世界就活支援センターには、いつもの日常が戻っていた。魂の転送ゲートは今日も規則正しく稼働し、面談室からは、希望と不安が入り混じった声が微かに漏れ聞こえてくる。

 俺、サイトウもまた、自分のデスクで、次の面談者の「魂の履歴書」に目を通していた。しかし、心のどこかは、まだアークトゥルスの赤黒い空と、クロサキの最後の表情に囚われたままだった。


 魂を導くことの責任。一つの言葉が、一つの判断が、世界を救いもすれば、滅ぼしもする。その重圧が、以前よりもずっと生々しく、俺の肩にのしかかっていた。俺は、本当にこの仕事に相応しいのだろうか。時折、そんな自問が胸をよぎる。


「次の方、どうぞ」

 内線からの呼び出しに、俺は軽く息を吐き、プロとしての顔つきに切り替える。扉が開き、一人の若い魂がおずおずと入ってきた。どこにでもいるような、ごく普通の青年だ。


「あの…よろしくお願いします」

「はい、サイトウです。よろしくお願いします。どうぞ、おかけください」


 面談が始まり、俺は彼に異世界への希望を尋ねた。青年はしばらく黙り込んだ後、消え入りそうな声でこう言った。

「すみません…俺、特にやりたいことも、できることも、何もないんです。自分でも、自分が空っぽなのがわかるんです。だから…どこか、誰にも迷惑をかけずに、静かに消えられるような場所があれば…」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。

 まるで、鏡を見ているかのようだった。遠い昔、俺自身がこの場所に初めて来た時、担当官に全く同じことを言ったのだ。

 脳裏に、あの頃のどうしようもない無力感と、将来への絶望が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇ってきた。




 あの頃の俺は、本当に「空っぽ」だった。

 生前は、真面目だが特に目立った才能もなく、大きな夢を抱くこともなく、ただ流されるように日々を過ごしていた。死因は、本当に些細な不慮の事故。誰かを庇ったわけでも、大病を患ったわけでもない、あまりにも呆気ない幕切れだった。


 このセンターの待合室で、周りの魂たちが「勇者になって世界を救う」「大魔法使いになって真理を究める」と目を輝かせるのを見るたび、俺は自分の魂がどんどん萎んでいくのを感じていた。俺の履歴書には、誇れるものなど何一つ書かれていなかったからだ。


 やがて俺の番が来て、面談室へと通された。目の前に座っていたのは、白髪混じりの、厳格そうな顔つきをしたベテランの担当官――ヤマガミさんだった。彼は、俺の魂の履歴書に静かに目を通すと、鋭い瞳で俺を見つめた。


「サイトウ君。君の希望する異世界は?」

 その問いに、俺は俯いたまま、か細い声で答えるしかなかった。

「…特に、ありません。俺には、何もできることがないので…」

「ほう。では、何になりたい?」

「…なりたいものも、ありません」

「では、なぜここに来た?」

 矢継ぎ早の質問に、俺は言葉に窮した。そして、絞り出すように言った。

「…どこか、誰にも迷惑をかけずに、静かに消えられるような場所があれば、と…」


 ヤマガミさんは、ため息をつくでもなく、ただ静かに俺を見つめていた。その沈黙が、俺には何よりも重く感じられた。


「なるほどな。君は、自分には価値がないと思っているわけか」

 その言葉に、俺は何も言い返せなかった。

「確かに、君の魂には、勇者のような強い光も、大魔法使いのような深淵な魔力も感じられん。まさに『空っぽ』だ。だがな、サイトウ君。空っぽだということは、これから何にでもなれるということだ。そして、何色にも染まれるということでもある」


 ヤマガミさんは、いくつかの異世界の求人票を俺の前に並べた。そこには、華やかな王宮の騎士や、神秘的な森のエルフの村など、魅力的な世界が並んでいた。しかし、俺はそれらを見ても、ただ気後れするだけだった。

「俺には…無理です。こんなすごい世界に行っても、きっと足手まといになるだけです」


「またそれか」ヤマガミさんは、初めて少しだけ呆れたような声を出した。「君は、自分には何もないと言い訳をして、挑戦から逃げているだけではないのか? 失敗を恐れて、最初から何もしないことを選んでいる。生前も、そうだったのではないかね?」

 図星だった。俺は、何も言い返せなかった。


 その後の数日間、俺は結論を出せないまま、センターの隅で時間を過ごしていた。そんなある日、ある面談室から漏れ聞こえてくる声に、思わず足を止めた。中では、ヤマガミさんが一人の少女の魂と話していた。その少女は、生前の病気で声を失い、絶望の中でここにやってきたらしかった。


「私には、もう歌うことも、誰かと話すこともできない…こんな私に、何ができるっていうの…」

 泣きじゃくる少女に、ヤマガミさんは静かに語りかけていた。

「君は声を失ったかもしれない。だが、君にはまだ、人の心の声を聞く耳と、優しい心がある。この『精霊の森』では、言葉ではなく、心で対話する精霊たちが、君のような存在を待っている。君のその優しさは、きっと彼らの心を癒すだろう」


 ヤマガミさんの言葉に、少女はハッと顔を上げた。その瞳に、ほんの少しだが、希望の光が宿ったのが、扉の隙間からでも見えた。


 その光景を見た瞬間、俺は、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。

(そうだ…人の役に立つというのは、何も、派手な力で世界を救うことだけじゃないんだ…)

 道に迷い、絶望している魂の隣に座り、その声なき声に耳を傾ける。その魂だけが持つ、本人すら気づいていない輝きを見つけ出し、そっと道を示してやる。それもまた、誰かの心を救う、尊い「仕事」なのではないか。


 俺は、決意を固めた。そして、再びヤマガミさんの前に座った。

「…見つけました。俺の、やりたいこと」

「ほう。どこの世界に行きたいのかね?」

 ヤマガミさんの問いに、俺は真っ直ぐに彼の目を見て答えた。


「俺は、どこかの世界へ行くのではなく、ここで働きたいんです。かつての俺のように、道に迷っている魂の力になりたい。俺が、彼らの道標になりたいんです」


 それは、前代未聞の申し出だっただろう。ヤマガミさんはしばらく驚いたように目を見開いていたが、やがて、その口元に微かな笑みを浮かべた。

「…ようやく、自分の足で立とうという気になったか。いいだろう。だが、言っておくぞ。この仕事は、英雄になるよりずっと地味で、報われないことも多い。他人の人生を左右する重圧に、押し潰されそうになる日もある。それでも、君はやるかね?」


 俺は、迷いなく頷いた。

「はい。それこそが、俺が初めて見つけた、俺自身のやりたいことです」


 ヤマガミさんは、満足そうに頷いた。

「ならば、覚えておけ、サイトウ君。君のその『空っぽ』は、弱さではない。どんな魂の色も受け入れ、寄り添うことができる、最高の才能だ。決して、それを忘れるな」


 あの時のヤマガミさんの言葉が、今でも俺の全てを支えている――。




 目の前で俯いている、かつての俺によく似た青年。俺は、彼に静かに語りかけた。かつてヤマガミさんが俺にかけてくれた言葉を、今度は俺が、この迷える魂に手渡す番だ。


「大丈夫ですよ。空っぽだということは、これから何にでもなれるということです。そして、何色にも染まれる。あなただけの『何か』を、ここで一緒に探していきましょう。時間は、まだたくさんありますから」


 その言葉に、青年はゆっくりと顔を上げた。彼の瞳に、ほんの少しだが、光が宿ったのが見えた。

 俺は、自分がこの場所にいる意味を、そして、あの日の決意が間違っていなかったことを再確認し、静かに微笑んだ。


 面談室の隅で、魂の履歴書の紙がふわりと揺れた。明日もまた、迷える誰かがやってくる。

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