炎上案件! 魂ネットワークの噂と異世界の評判
特殊適性検査のあの日以来、俺、サイトウの心には、センターという組織に対する漠然とした疑念が、小さな棘のように刺さったままだった。だが、日々の業務は待ってくれない。俺は、目の前の魂たちと向き合うことに、再び集中しようとしていた。
そんなある日、俺は一つの奇妙な事態に直面していた。
「…おかしいな。今週に入ってから、『風凪の丘陵』への転生希望者が、一人もいない…」
『風凪の丘陵』――それは、穏やかな気候と、美しい風景が広がる、人気のスローライフ系異世界だ。特に、都会の喧騒に疲れた魂や、静かな暮らしを求める魂からの人気は絶大で、これまでは常に一定数の希望者がいたはずだった。それが、ピタリと止まったのだ。
俺は、同僚たちにも聞き込みをしてみたが、皆、首を傾げるばかり。
「そういえば、最近希望を聞きませんね」
「何か問題でもあったんでしょうか?」
俺は、直接『風凪の丘陵』を管理している担当神――温厚で少し気弱なことで知られる、豊穣の神ポポロ様に通信を入れてみた。
「ポポロ様、サイトウです。最近、そちらの世界で何か変わったことはありませんでしたか?」
「おや、サイトウ殿。いいえ、こちらはずっと平和そのものですよ。風はそよぎ、作物は実り、人々は穏やかに暮らしております。…ただ、どういうわけか、最近新しい魂の方が全く来られなくて、少々寂しい思いをしておりましたが…」
ポポロ様の困惑した声を聞き、俺は、問題が異世界側にあるのではないと確信した。
(となると、原因は…こちら側か)
俺は、タカハシ部長に許可を取り、センターのシステム内にある、ある特殊な領域へのアクセスを試みた。
それは、『魂ネットワーク』。死後の魂たちが、自由に情報を交換し、交流するための、巨大な仮想コミュニティだ。生前のインターネットによく似ているが、その情報の伝達速度と影響力は、比較にならないほど大きい。
俺は、その中にある「異世界評判掲示板」というスレッドを開き、「風凪の丘陵」で検索をかけた。すると、そこには、信じられないような書き込みが溢れかえっていた。
『【超絶悲報】風凪の丘陵、ヤバすぎる。先日転生した友人の魂、消息不明になったらしい』
『マジレスすると、あの丘陵、夜になると謎の霧に包まれて、魂が"消失"する事件が多発してるとか。センターは隠蔽してるけどな』
『神様(笑)も見て見ぬふり。のどかなのは見せかけだけで、夜は阿鼻叫喚の地獄絵図だってさ』
『え、失踪ってマジ? 俺、第一希望だったのに…怖すぎる』
『やめとけやめとけ。あそこに行ったら、スローライフじゃなくてロストソウルだわw』
根も葉もない、悪意に満ちたデマ。それが、ただの風評被害のレベルを超え、「魂の失踪」という、センターの管理責任問題にまで発展しかねない、極めて悪質な形で拡散されていたのだ。
「…なんだこれは」
俺は、あまりの酷さに絶句した。これでは、希望者がいなくなるのも当然だ。
(一体、誰が、何のために…?)
俺は、情報セキュリティ部門の同僚の助けを借り、この噂の発信源を追跡し始めた。魂ネットワークは匿名性が高いが、担当官の権限であれば、ある程度のログを辿ることができる。
数時間の調査の末、ついに発信源の魂を特定した。
その名前を見て、俺は深いため息をついた。
――キタガワ・マサル。一ヶ月ほど前、俺が面談した魂だった。彼は『風凪の丘陵』を第一希望としていたが、適性検査の結果、彼の魂はスローライフよりも、むしろ刺激的な冒険を求める性質が強いと判断され、不採用となっていたのだ。
「…腹いせ、か」
あまりにも身勝手で、そして子供じみた動機。だが、そのたった一つの悪意が、一つの世界の評判を地に落とし、ポポロ様のような善良な神を苦しめている。情報の力とは、これほどまでに恐ろしいものか。
俺は、すぐにセンター内の待機エリアにいたキタガワ君を呼び出した。
「キタガワ君。君が『魂ネットワーク』に書き込んだこと、全て把握している」
俺がそう切り出すと、彼は一瞬だけ顔を青くしたが、すぐに開き直ったような態度を取った。
「…それが、何か? 俺が本当のことを書いて、何の罪になるんですか?」
「本当のこと? 君は、あの世界に行ってすらいないだろう。ましてや『魂の失踪』など、どこから出てきた話だ?」
「…そ、それは、他の魂から聞いた噂を、ちょっと大袈裟にしただけで…」
「噂を、さも真実であるかのように拡散し、一つの世界全体の評判を貶める。それがどれだけ無責任で、卑劣な行為か、君にはわからないのか?」
俺の言葉に、キタガワ君はぐっと黙り込んだ。
「君のしたことは、ポポロ様と、そこに暮らす魂たちの心を深く傷つけた。それだけじゃない。君と同じように、あの世界を心から望んでいた他の魂たちの、貴重な選択肢を奪ったんだ」
俺は、静かに、しかし厳しく続けた。
「君の処遇については、センターの規定に従って、厳正な処分が下されることになるだろう。だが、その前に、君自身が自分のしたことと向き合うべきだ」
俺は、ポポロ様との通信回線を繋ぎ、キタガワ君と直接話すように促した。
画面の向こうで、悲しそうな顔をしたポポロ様が、静かに語りかけた。
「キタガワ殿…なぜ、あのようなことを…。もし、何か我々の至らぬ点があったのでしたら、教えてはいただけませんか…? 我々神々には、魂の皆様が作り出す情報の奔流を正す力はありません。ただ、真実が伝わるのを祈ることしかできないのです…」
それはあまりにも純粋で、無力さを滲ませた問いかけだった。キタガワ君は狼狽え、ついには顔を覆って泣き崩れた。
「…ごめんなさい…ごめんなさい…俺、ただ、行けなかったのが悔しくて…羨ましくて…」
その後、キタガワ君は、自らの手で、魂ネットワークに謝罪と訂正の文章を書き込んだ。そして、彼の処分が決定した。センターの規定に基づき、彼は一定期間、魂の自由な活動を制限され、奉仕活動に従事することになった。その内容は、「魂ネットワークの健全化を目指すパトロール及び、デマ情報のファクトチェック作業」だった。
数ヶ月後、奉仕活動を終えたキタガワ君が、再び俺の面談室にやってきた。以前の彼とは見違えるように、その表情は落ち着き、そして深く反省している様子だった。
「サイトウさん、お久しぶりです。…あの、俺、自分のしたことの重大さが、やっと本当にわかりました。そして、自分が本当に進みたい道も…」
彼は、まっすぐな目で俺に言った。
「俺、情報というものの恐ろしさと、そして正しく使った時の力を知りました。だから、もし許されるなら…情報が錯綜し、真実が見えにくくなっているような世界へ行って、自分の目で見たこと、聞いたことを正しく伝えるような仕事がしてみたいんです」
それは、ジャーナリストや、あるいは吟遊詩人のような役割だろうか。彼は、自分の過ちの中から、新たな「適性」を見つけ出したのだ。
俺は、彼の成長を嬉しく思い、いくつかの候補となる世界を提案した。
この一件を通して、俺は、センターが管理する「魂」や「異世界」という情報だけでなく、魂たちが自ら作り出す「情報」の奔流にも、大きな力と、そして危険が潜んでいることを痛感した。神ですら、その流れの前では無力なのだ。
そして、この魂ネットワークを、もし悪意を持って利用しようとする者が現れたら…?
俺の胸に、また一つ、新たな疑念の種が蒔かれた。
この巨大な情報の海を、本当にセンターは管理しきれているのだろうか。それとも、これもまた、俺たちの知らない、何か大きなシステムの一部なのだろうか。
俺は、キタガワ君の新しい履歴書を作成しながら、魂ネットワークの片隅で、不穏な噂を流し続けている、いくつかの匿名の魂たちの存在に、まだ気づいてはいなかった。