内定ブルーと、隣の異世界の青い芝生
キリシマ君たちがそれぞれの道へと旅立っていき、オフィスにまた静かな日常が戻ってきた。俺、サイトウは、転生が決まった魂たちの最終手続きの書類を作成していた。この仕事で最も安堵する瞬間の一つだ。魂が希望を見出し、新たな世界へと一歩を踏み出す。その最後の後押しをする。
「…あの、サイトウさん。少し、よろしいでしょうか」
声をかけられ顔を上げると、そこには数日前に面談を終え、転生先も決まっているはずの青年魂、アオキ・シュン君が立っていた。彼の表情は、転生が決まった時の晴れやかなものとは程遠く、暗く、そして深い悩みの色に沈んでいた。
「アオキ君、どうしたんだい? 何か問題でも?」
「いえ、問題というわけでは…ないんですけど…」
彼は、言い淀みながら、俺のデスクの前に座った。
アオキ君は、生前は地方の町工場で働く、実直で真面目な青年だった。彼は面談の時、こう語っていた。「俺が作っていたのは、大きな機械の、ほんの小さな歯車の一つでした。その部品が、最終的に誰の生活をどう支えているのか、全く見えなかった。それが、ずっと虚しかったんです」。だからこそ彼は「大きな世界で名を上げるより、自分の手で作ったものが、誰かの笑顔に直接つながる仕事がしたい」と希望し、俺は彼に『水上都市アクアリアのゴンドラ職人』という仕事を紹介した。美しい水路を巡るゴンドラを、伝統的な技法で作り、修理する。それは、彼の希望にぴったりの、地味だがやりがいのある仕事のはずだった。彼自身も、最初は目を輝かせてその道を選んだのだ。
「俺、本当に…アクアリアに行っていいんでしょうか…」
「どういうことだい? あれほど行きたがっていたじゃないか」
俺が尋ねると、アオキ君は俯きながら、ポツリと語り始めた。
「昨日、待合室で一緒になった魂と話したんです。彼、俺と同じ日に面談を受けた魂で…『灼熱の竜騎士団』に入団が決まったって、すごく嬉しそうに話してて…」
『灼熱の竜騎士団』――それは、炎の竜を駆り、魔獣と戦う、非常に人気の高い花形職業だ。当然、競争率も高い。
「彼は、竜の背に乗って空を飛び、世界を守る英雄になるんだって…。それに比べて俺は、ただの船大工…。彼の話を聞いていたら、なんだか自分の選択が、すごく地味で、つまらないものに思えてきてしまって…。俺も、本当はああいう華やかな世界の方が良かったんじゃないかって…」
彼の声には、焦りと後悔の色が滲んでいた。いわゆる「内定ブルー」だ。そして、他人の成功が自分の選択を不安にさせる、「隣の芝生は青い」という、魂になっても変わらない普遍的な悩み。
(なるほどな…これは、言葉で説得するだけではダメかもしれない)
俺は、少し考えた後、センターの奥にある特別な資料室へとアオキ君を案内した。
「アオキ君、君の不安を解消するために、少しだけ特別なものを見せてあげよう。これは『先輩魂たちの現状報告レポート』だ。プライバシーに関わる部分は伏せられているが、彼らが新しい世界でどうしているか、その一端を知ることができる」
俺は、二つのファイルを取り出した。一つは、アオキ君が羨む『灼熱の竜騎士団』に配属された魂たちのレポート。もう一つは、彼が進む『水上都市アクアリア』のゴンドラ職人になった魂たちのレポートだ。
「まずは、君が羨んでいる方から見てみようか」
俺が竜騎士団のファイルを開くと、そこには華々しい活躍の記録が、まるで英雄譚のように勇ましい言葉で綴られていた。魔獣討伐の武勲、王からの褒章、民衆からの喝采…アオキ君は、「すごい…」と呟きながらも、その派手な文面と、自分には縁のない世界観に、どこか気圧されているようにも見えた。
しかし、数ページめくったところで、彼の手がピタリと止まった。その眉が、わずかにひそめられる。レポートのトーンが、少しずつ変わってきたのだ。
『――訓練は想像を絶する厳しさ。一日中、灼熱の溶岩地帯で竜の世話。一瞬でも気を抜けば大火傷。生前の体力自慢もここでは意味をなさない』
『――同僚は皆、エリート意識の塊。少しでもミスをすれば、容赦なく罵倒される。常に結果を求められ、心が休まる時がない』
アオキ君は、ゴクリと息を呑んだ。そして、最後のページを読み終える頃には、彼の顔から完全に血の気が引いていた。
『――先日、同期の一人が任務中に命を落とした。明日は我が身かと思うと、夜も眠れない。俺は、本当に英雄になれるのだろうか…』
彼は、言葉を失ったようにレポートを見つめていた。そして、小さな声で呟いた。
「…これ、俺には無理だ…。こんなプレッシャーの中で、俺はきっと潰れてしまう…」
彼は、華やかな世界の裏側にある、絶え間ない競争と死の恐怖に、本能的な拒否感を示していた。
「次に、こちらを見てみよう。君が進む、アクアリアのゴンドラ職人たちのレポートだ」
俺がもう一つのファイルを開くと、そこには竜騎士団のような派手な記録は一切なかった。ただ、日々の地道な作業の記録が、飾り気のない、淡々とした言葉で綴られているだけだ。
アオキ君は、最初はその地味さに戸惑っているようだったが、読み進めるうちに、その強張っていた表情が、少しずつ和らいでいくのがわかった。
『――今日、初めて一人でゴンドラの修理を任された。師匠は口下手だが、俺の仕事を見て、少しだけ笑ってくれた気がする。嬉しかった』
『――自分が作ったゴンドラに、恋人たちが楽しそうに乗っているのを見た。俺の仕事が、誰かの幸せな時間を作っている。そう思ったら、疲れも吹き飛んだ』
『――この街の夕暮れは、本当に美しい。水面に映る夕焼けを見ながら、自分で作った船を漕ぐ。これ以上の贅沢はないかもしれない』
その淡々とした文体は、アオキ君の心に、不思議なほどの安心感を与えているようだった。彼は、そのレポートを何度も読み返し、まるで大切な手紙を読むかのように、その文字を指でそっと撫でていた。
やがて、彼は顔を上げた。その瞳から、迷いの色は完全に消え去っていた。
「サイトウさん…ありがとうございます。俺、目が覚めました」
彼の声は、穏やかで、そしてどこか吹っ切れたように聞こえた。
「俺が羨んでいたのは、『竜騎士』という肩書だけだったのかもしれません。彼らの苦労も知らずに…。俺が本当にしたかったのは、英雄になることじゃない。自分の手で、誰かの役に立つものを作って、その人の笑顔を直接見ることだったんだって、思い出しました。生前の工場では、それができなかったから…」
アオキ君は、アクアリアのレポートを、まるで宝物のようにそっと閉じた。
「俺、この人たちみたいになりたいです。いえ、なります。自分の選んだ道に、誇りを持って」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「それでこそ、アオキ君だ」
転送ゲートへと向かう彼にもう一度会った時、その表情は、ここに来た時とは比べ物にならないほど晴れやかだった。肩の力は抜け、その瞳は、まるでアクアリアの澄んだ水面のように、穏やかで澄み切っていた。
隣の芝生は、いつだって青く見えるものだ。だが、大切なのは、その芝生が本当に自分に合っているかどうか。そして、自分が選んだ場所で、どう根を張り、花を咲かせるかだ。
俺は、アオキ君がアクアリアの美しい水面で、最高のゴンドラ職人になる未来を確信しながら、次の魂の履歴書に手を伸ばした。




