毒母に支配されてきましたが洗脳が解けたので自分のために生きようと思います
母曰く、女性とは常に男性より一歩引いていること。謙虚で何があったとしても常ににこにこして、どんなことを言われても逆らわず相手の言うことを聞くこと。そして恥をかかせては絶対にダメだと……私は幼少期より、そう教えられてきた。
――そうすれば男性から愛されるから、と。
「トリア、この雑務を夕方までに片付けておけ。それと、明日の昼食は街で話題になってる店のランチを食したいので二人分を予約して昼までに持って来い。あと、今夜八時に別宅まで来るんだ。分かったな?」
「わかりました、リヴェルト様」
で、母の言いつけを守った結果、私は婚約者の奴隷のような生活を送っている。
最初はこんなふうではなかった。多少、横暴なところはあったが、今よりもずっと優しかったし気遣ってくれることもあった。
それが母の言いつけを守り続けていたら、この有様である。
私は彼に言われた雑務をこなすと、ランチの予約のためにお店に連絡する。持ち帰ることは出来ないと言われたが必死に頼み込み、必要な食器類はこちらで用意することで何とかお願いすることが出来た。
ほっと息を吐くと、別宅へと行く時間が迫っていたので急いで用意する。
何とか時間までに着くと渡されていた合鍵で中へと入る。リヴェルト様を探していると寝室から彼が見知らぬ女性と共に出て来た。
リヴェルト様は私に気付くと顎で出て来た部屋を差す。
「部屋の中を片付けておけ」
「……はい」
女性は私を見るとくすりと笑い、リヴェルト様に腕を絡ませる。
部屋の中へ入ると、あからさまな情事のあとに溜め息が出る。
乱れたシーツを直しながら、なぜ私がこんなことをしているのかと考える。
私は彼の婚約者で使用人ではない。いや、そんな話ではない……婚約者に浮気相手との情事の後始末をさせるなんて頭のおかしいことをリヴェルト様はしているのだ。
何度も無理だと思った。嫌だ苦しい辛い、と。けれど、母親は言う……我慢しなさいと。
苦しくても笑っていなさい、いつかきっと報われるからと……まるで自分に言い聞かせるように私に言う。
実際、母は父に愛されてなどいない。外に愛人を作ってほとんど帰ってなど来ない。
私の知らぬ間に腹違いの姉妹がいるらしいと風の噂で聞いたこともある。
それでも母は自分は幸せだと言い張る。哀れで可哀想な人。
けれど、その母の言いつけを破ることができずに婚約者の言いなりになっている私も同じ穴の狢でしかない。
綺麗に片付け終わると静かに屋敷を出て行った。
◇
翌日、昼食を届けにリヴェルト様の元へと訪れる。
買って来たものを取り出すと綺麗に器に盛り付けてゆく。
器は私の用意したもので、気に入った食器を集めるのが数少ない私の趣味でもあった。
盛り付けが終わりテーブルに並べ終わるとリヴェルト様が現れる。
「昼食のご用意ができましたので、私はこれで失礼します」
「何を言っている。もう一つは君の分だ、食べて行け」
「……え? 私の、ですか?」
「そうだ。早く席に着け」
どういう風の吹き回しだろうか。不思議に思いながら席に着く。
こんなふうに向かい合わせになるのは、いつ以来だろうか。
正面に座るリヴェルト様を窺い見る。
青磁色の髪に蜂蜜色の目。端正な顔立ちに高い身長に長い手足……所作にも品があり、女性たちが色めき立つのも理解できる。だからと言って横暴な態度や昨夜のような出来事を許容できるわけではありませんが。
「……なにも言わないのか?」
「え?」
「昨晩のことだ」
「……そんな資格、私にはありませんから」
リヴェルト様は、大きなため息を吐く。
「トリア・グラメル、君は私の婚約者ではないのか?」
「……っ、」
「何を言っても、どんなことをされても大人しく従うだけ。君には意思がないのか?」
無いわけなどない。けれど、それを表に出すわけにはいかない。
だって、私は――。
「誰が君をそのようにしたんだ?」
リヴェルト様の顔が苦しそうに歪められた。
なぜ、こんなにも辛そうなのだろうか……?
「……母、が」
彼の表情を見ているうちに、つい口に出てしまった。
「母?」
「……幼い頃から、ずっと言われてきたんです。決して男性に逆らうなと……常に一歩引いて、謙虚でいるように……そうすれば、愛されるから、と」
「母君が君にそう言ったのか?」
「……はい」
リヴェルト様はゆっくりと息を吐くと真っ直ぐに私と視線を合わせる。
鋭い眼光にいたたまれなくなり、目を逸らそうとした時――。
「だが私は、君が母君の言いなりであり続ける限り、決して愛することはない」
「……っ、」
「――君の本心は? 君自身もそれでいいと本気で思っているのか?」
「……それは」
「君は、私が君に死ねと言えば死ぬのか? 他の男に抱かれてこいと言えば抱かれるのか?」
「……そんなこと!」
そんなの受け入れられる訳がわけがない……はずだ。
「さすがにあんな事をすれば何か言ってくるだろうと思っていたが、本当にただ片付けて帰って行くとは思わなかった。最初は私に興味がないだけなのかと思っていたが、どうにも様子が可笑しいのでな……そういうことか」
「……あの……どういうことですか?」
疑問を口にすると彼が、ああ……と口を開く。
「昨夜の女性は私が依頼して来てもらっていたんだ。彼女とは何もない。事情を話したら、それらしく部屋を荒らしていたな」
「そう、だったのですか……」
その割には相手の女性は、ずいぶんと挑発的な態度であったような気がするが……。
「そういえば、この食器は君が用意したものか?」
「え? は、はい……そうですが、なにか?」
「へぇ、趣味がいいな。盛り付けのセンスもいい」
思わぬ言葉に私は、ぱっと顔を輝かせる。
「ほ、本当ですか!? 私、食器集めが趣味なので……凄く嬉しいです……!」
私の言葉にリヴェルト様は少し驚いた表情を見せると次の瞬間、穏やかに微笑む。
「なんだ、君にもちゃんと大事なものがあるんじゃないか」
「……っ!」
初めて見る笑顔に、とくりと胸が跳ねる。
「君はもっと自我を出した方がいい。君は他でもない君を生きているのだから」
「……っ」
何と言葉を返せばいいのか分からなくて黙り込んでしまった。
そうしているうちに食事が終わり、リヴェルト様は仕事へ戻られる。私は後片付けをしてから自分の屋敷へと歩いて帰ることにした。
道中でリヴェルト様の言葉が何度も脳内を駆け巡る。
「……自我を出す……私の人生……考えたこともなかった……」
屋敷に着くと談話室で母が待っていると聞いて、食器を置いてから直ぐにそちらへと向かう。部屋に入ると中にいた母の正面に座るよう促されたので、言われた通りにする。
「おかえりなさい、トリア。リヴェルト様とは上手くいっているの?」
「……ぁ、……その……」
母の言葉に詰まってしまう。リヴェルト様は私が母の言いなりである限り愛することはない、と言い切られた。母に何て言えばいいのか言葉に迷っていると……
「まさか上手くいっていないの!?」
突然、母がヒステリーな声を上げる。
「ちゃんと言うことを聞いているのでしょうね!? まさか逆らったり言い付けを守らなかったりなんかしていないわよね? あなたは大人しく従順にしていればいいのよ、決して自分の意見なんか言ってはダメ! にこにこ笑って常に『はい』とだけ答えていればいいのよ! わかった!?」
「……で、ですが、それでは……」
「あなたのために言ってあげているのに、口答えする気!? いつから、そんな恥ずかしい子になったのよ!」
母はソファから立ち上がると身を乗り出し私の髪の毛を強く引っ張った。
「痛っ! 痛いです、お母様!」
「私の言うことを聞くの! 分かった!?」
「…………っ、」
私が小さく頷くと母が髪の毛を離してくれる。
「そう、それでいいのよ……ああ、お茶がこぼれてしまったわね。早く取り替えてちょうだい」
「…………はい」
母はこういう時、いつも使用人ではなく私に片付けをさせる。
テーブルを拭き新しいお茶を淹れると私は自室へ戻り、母に引っ張られた髪を整えるとベッドに横たわる。
「……このままではダメですよね……でも、どうすればいいのでしょうか……」
母に言われるまま流されるまま生きて来て、婚約者であるリヴェルト様にそれを否定されている。おかしいということは私自身わかっているけれど……出来れば母に変わってもらいたい。
父に囚われず、母の人生を生きてほしい……そう、伝えてみようか。きっと、また怒鳴られるだろうし今度は髪を引っ張られるだけでは済まないかもしれない。
それでも私は、一度でいいから母に自分の気持ちをぶつけてみようと決めて静かに目を閉じた。
◇
翌朝、昨日リヴェルト様といただいた昼食の食器を袋に入れた状態で厨房の調理台の上に置いたままだったことを思い出し、すぐにそちらへと向かう。
厨房には端の小さな棚に、私の集めたお気に入りの食器を飾ってある。
毎日それを眺めるのが私の唯一の楽しみなのだが、その食器たちが全て無くなっていた。
「………………あ、れ? 私の食器、は……?」
「私が捨てました」
後ろから聞こえてきた声に勢いよく振り返る。
「お、母……さま……?」
「必要ないでしょう、あんな物。つまらない趣味など持つから私に逆らうようになったのではなくて?」
「……そん、な……こんなのって……」
「私は必要のないものを処分しただけです。むしろ、あんなガラクタを片付けてあげたのだから感謝して欲しいくらいだわ。いいから早くお茶の用意をなさい」
酷い……こんなこと……ここまでするなんて……。
感情が怒りに染まってゆく。
「…………で、」
「なんですって?」
「ふざけないでください!!」
私は生まれて初めて大声で人を怒鳴りつけた。
「……最低です。それでも親ですか? いえ、貴女はいつだって私に貴女という人間を私に押し付けるだけで、親らしいことなんて一度もしてくれなかった。 ――女は常に一歩引いてにこにこしていろ? 奴隷かなにかですか? 幸せになれる? まったく幸せではない、貴女がそれを言うのですか?」
口が止まらない。こんなことも初めてだ。
「やりたければ、お一人でどうぞ。私はごめんです! そもそも、そんなことしてもお父様は帰って来ないし貴女は虚しくて可哀想な人間でしかない! 貴女に支配され続ける人生なんて、もうやめます!」
「――っ、誰に口を聞いているの出来損ないが!!」
――バチン、と大きな音を立てて頬を叩かれる。
「――最っ低!!」
負けじと睨み返すと、思いきり叩き返した。
すると、母がよろけて倒れてしまった。
驚いた母は頬を押さえながら私を見あげる。その身体は震えていた。
――ああ、私はこの人の何がそんなにも恐ろしかったのだろうか。
暫く母を見下ろしてから、私は昨日から置いたままにしてあった食器を胸に抱えて厨房を出ていった。
唯一残った食器……リヴェルト様も褒めてくださった物だ、大切にしないと。
ぐっと涙をこらえると、私はこの先の自分のやるべきことを考えた。
◇
――一週間後。
私はリヴェルト様のお屋敷に来ていた。
「君が自らやって来るとは珍しいな。どうかしたのか?」
「はい、お話があって来ました」
一呼吸置いてから口を開く。
「――リヴェルト様、婚約を破棄いたしましょう」
私の言葉にリヴェルト様が目を丸くされる。
「……なにかあったのか?」
「母と決別してきました」
リヴェルト様は私の頬に貼られているガーゼに触れると眉を下げて微笑む。
「それで、これは勝利の勲章か?」
「あっ、これは……もうほとんど治ってはいるのですが、母の爪が鋭かったみたいで……でも私も叩き返せたんですよ!」
「……そうか。頑張ったんだな」
その言葉に涙が出そうになる。
「……はい。私なりに精一杯、言いたいことを言えたと思います」
「うん」
「いろいろ考えて、やっと出せた答えなんですが……私、食器のデザインをしてみたいんです。誰かの楽しい時間に寄り添えるように……私がそうしてもらったように、見ているだけで幸せな気持ちになれるような、そんな食器を作ってみたいんです」
息を吐き口角を上げてから、彼に伝える。
「――私は私の人生を生きてみます。誰にも支配されない本来の自分として」
リヴェルト様が穏やかな表情で聞いてくれている。
「それで、思い切って父に連絡してみたんです。そうしたら、これまでの謝罪とお詫びとして隣国への渡航の費用を出してくれるそうです。そこからは、私一人で何とかしてみせます。どんなに厳しくてもやってみせます。だって、ようやく私は私として生きられるのですから!」
「そうか。もう決めたんだな……それで婚約破棄か」
リヴェルト様が少し目を伏せる。
「はい。どちらにしろ、今の私では貴方に不釣り合いですから…………あの、ですが、もし……」
言いかけたところでリヴェルト様がご自身の口元に人差し指を当てられる。
「その先は、いつか私に言わせてほしい」
「……っ、はい!」
「それと、何かあれば連絡してくるといい。……いや、君さえよければ気軽に連絡してくれると嬉しい」
そう言って連絡先の書かれた紙を渡してくださる。それを受け取ると大切に仕舞った。
◇
――その後、私は陶器デザイナーを目指して日々勉強の毎日を過ごしている。
母は私がいなくなった後、一気に老け込んでしまい日常生活もままならない状態だと知らされたが、父から母のことは何とかするから気にするなと連絡をいただいた。これまで放っておいた、けじめだそうだ。
リヴェルト様とは頻繁に手紙でやり取りをしており、先日のお手紙では今度こちらに来てくださる際に、デートをしようと書いてくれていて。
デート……生まれて初めてのことで緊張してしまうが、目いっぱい、おめかしして行こうと思う。
私は今、借りたお部屋でリヴェルト様へのお返事を書いているところだ。
部屋の棚の一番目立つ場所に飾ってある、あの日唯一残った食器たちを見て私は微笑む。
部屋の窓から心地良い風が入ってくる。
目に入る全てのものが優しく愛おしい。
世界が美しく色付いている。
この世界に生きれて、リヴェルト様に出会えて良かった。
今度会える時には少しでも貴方に相応しい私であるように願いながら、ゆっくりとペンを滑らせた。
◇おわり◇