コーヒーハウスの仏頂面も柑橘の香りにニマニマすることもあるだろう
――18世紀中頃、ロンドン、パル・マル街
当時、ロンドン市内に店を構えるコーヒーハウスは2000を超えていたが、コーヒーハウスの人気は不動のものであり、2000店を超えてもなお混雑していた。
コーヒーハウスとはその名の通りコーヒーを楽しむ店だが、現在の喫茶店と同じというわけではない。
例えば、店内の客だ。
コーヒーハウスの客は男性に限られ女人禁制となっていた。
客だけでなく従業員も男ばかりだが、唯一木戸番を務めるポートレスだけはどの店も女性が担っていた。
コーヒーハウスでは入店料として1ペンスを徴収するが、店の入口で徴収するのがポートレスである。
ポートレスは店の前を通りかかる男に微笑みかけて店へと誘い入れるものだが、ブルー・ローズツリー・コーヒーハウスの入口に座るアンナはいつも仏頂面だった。
ポートレスはコーヒーハウスの看板娘だが、アンナも他の店のポートレス同様にその容姿は恵まれていた。
大きな青い瞳、筋の通った鼻、庶民ではあるが肌の血色もいい。
ただ、いつも仏頂面で客に微笑みかけることはなかった。それでもブルー・ローズツリー・コーヒーハウスの客は絶えなかった。
「アンナ、相変わらずだな」
店に入るなりそう声をかけたのは、この街区でコンスタブルを務めるジョナサン・ブラックウッドだ。
コンスタブルとは日本の時代劇で言えば与力に相当すると考えていい。与力と言われてもわかりにくいが、自治組織の上級職である。
既にアンナの仏頂面をよく知っているブラックウッドは「1ペンスです」の声を待たず革袋から硬貨を出すと「アンナ、どうだ?」とぶっきらぼうに質問を繰り出した。
「シチリアですね」
アンナもまたぶっきらぼうに答えた。
「オレンジどころか産地までお見通しか。相変わらずの鼻だ」
ブラックウッドは上着の内ポケットからオレンジを取り出し、匂いを確かめさせようと一度アンナの鼻の前に差し出してから、そのままテーブルに置いた。
「セビリアのオレンジとは違うのか?」
コンスタブルの質問にアンナは答えなかった。別の男がコーヒーハウスに入ってきたからだ。
コンスタブルのブラックウッドと比べるとずいぶん着古した上着だが、貴族から庶民まで集まるコーヒーハウスには珍しくない。
「1ペンスです」
アンナの抑揚のない声に男は無言でポケットから取り出した1ペンスを投げると、店の奥にある大テーブルの空いている席へ座り、すぐに新聞を取った。
男は新聞をどんどんとめくり、勢いよくタバコ(パイプ)を吸った。
「何かあの男が気になるみたいだが、特別な匂いでもしたか?」
いつも仏頂面のアンナだが匂いには鋭く、匂いにだけはその仏頂面をほころばせることもある。
ブラックウッドがシチリア産オレンジを持ってきたのも、その香りでアンナの気を引こうとしてのことだ。
オレンジの産地を嗅ぎ分けた時、アンナの顔は緩んではいなかったが、後から入ってきた男の匂いを嗅ごうと鼻を動かし、わずかに口角が上がったのをコンスタブルは見逃さなかった。
コーヒーハウスには様々な匂いが漂う。
現在では考えられないほど強く焙煎したスモーキーなコーヒーの香り、コーヒーハウスではつきもののタバコの煙、これもまたコーヒーハウスには欠かせない新聞や雑誌に残るインクの匂い。季節によっては石炭が焼けた煤の匂い。もちろん男たちの体臭もある。
ロンドン大火以後は木造が禁止され石造りとなり、隙間風は少なくなったが空気は淀む。つまり、店内はどんどん匂いで満ちていく。
加えてアンナの目の前にはオレンジが爽やかに香っている。それでもアンナの鼻は男に反応した。
コンスタブルのブラックウッドはその匂いには全く気が付かなかったが、アンナは男が通り過ぎるだけでもその匂いがなんであるか理解していた。
わずかでも口角を上げたのは、アンナにとって好ましい匂いで間違いない。
しかし、アンナが次に言ったのは意外なものだった。
「今日はあの治安判事は来られないのですか?」
(あのアンナが、もしかして恋をしているのか!)
思いもしなかったアンナの言葉に、ブラックウッドは思わずそんなふうに考えた。
香りにしか関心を示さないアンナだ。それが治安判事のことを気にするなど、恋以外にあろうか。ブラックウッドの考えはこうだ。
しかしながら、アンナの目に恋する乙女に特有の恥じらうような色はない。目だけではない。口をキリリと固く結び、いつもの冷静さを感じさせる。いつもの仏頂面とまるでかわらない。
ただ、いつも仏頂面のアンナだからブラックウッドもアンナが恋をした時の顔つきは想像がつかない。
もしかしたら、仏頂面でもアンナは治安判事殿のことを思い、慕っているのかもしれない。ブラックウッドはそう考えた。
「聞いていますか? あの治安判事は来ないのですか?」
「ああ、治安判事殿だな。もちろん判事殿もみえる予定だ。盗難が増えていてその対策について話し合おうと思ってな、新聞にも盗難品を探している広告が増えているだろ」
「いつ来ますか?」
急かすような言い草は、アンナにとって盗難など治安判事がコーヒーハウスに来るかどうかに比べたらどうでもいいと言わんばかりだ。
「そろそろ来られるとは思うが、もう少し時間がかかるかもしれないな」
「そうですか」
アンナのその声には明らかに感情がこもっていた。
治安判事がすぐに現れないことを残念に思う、そんな感情をブラックウッドは感じ取った。
「すぐ来る、少し待てば来るだろう。そんなに落ち込むな」
「いえ、待ってはいられません」
「アンナ、そんなに治安判事殿が恋しかったのか!?」
「恋しい?」
「だから、その、一刻も早く治安判事殿にお会いしたいのだろ」
「何を言っているんですか。あの男です」
「男?」
アンナは先ほどコーヒーハウスに入ってきた男を見た。
ブラックウッドもアンナの鋭い目力に促されるように男を見る。その男はブラックウッドの次にコーヒーハウスへ入ってきた男だ。
男はパイプを吸いながら次々に新聞を手にとり紙面をめくっている。記事を読んでいるというよりは眺めているのだろうか。
ロンドンに2000以上あるコーヒーハウスはどの店にも新聞と雑誌をテーブルの上に置いてあり、客はそれを自由に読むことができた。
現在もそのような喫茶店はあるが、コーヒーハウスに置かれる新聞と雑誌は数が違う。さらに個人で買うことが難しい時代でもあるから、それらに目を通すことは客の目的でもある。
「確かに妙ではあるな」
コーヒーハウスに男たちが通う理由は、新聞と雑誌を読み、さらに他の客と意見を交わし、議論をすることだ。
あまりにも議論に熱くなるものだから、コーヒーハウスは自然とホイッグ(革新政党支持者)とトーリー(保守政党支持者)とで住み分けるくらいだから、当時のコーヒーハウスでどれだけ議論が行われていたか想像することができるだろう。
「慌ててページをめくるようなあの手つきは新聞を読んでいるわけではないな。じゃあ、何をしている」
しかし、アンナが気にした男は新聞をめくってはいるが、その手つきは素早く、紙面を読んでいるようには見えない。まして、他の客に議論を吹っ掛けるわけでもない。
一人でパイプをくゆらせながら、新聞を勢いよくめくっている。
「あの客、盗品を持っています」
「盗品? どうしてそう思うんだ、見た限り、コーヒーハウスにはよくいる男じゃないか。身なりも、パイプを吸いながら新聞を読むのもそうだ。確かに記事を読むスピードではないが、なにか目当ての記事を探しているのだろう。あの男が盗人だというのなら、この店の客全員を盗人扱いしなければいけない」
「あの男、吸っているパイプとは別のタバコの香りがしました」
「パイプじゃないタバコの匂い?」
ブラックウッドはアンナの鼻のことはよく知っている。しかも、男が店に入って来た時にアンナがわずかに鼻を動かしたことを見逃さなかった。
アンナが匂いを嗅いだことに気がついたのは、ブラックウッドの鋭い観察力によるものだが、それでも男の匂いにはまるで気が付かなかった。
まして、それをもって盗人扱いする理由もまだわからなかった。
「パイプの他に嗅ぎタバコを持っているはずです。それも1つではありません。2種類は持っています。嗅ぎタバコを使っていないようなので、スナッフボックスを二つ持っているのでしょう」
パイプで使うタバコと違い、スナッフ、嗅ぎタバコに使われるタバコの葉に柑橘類やスパイスなどの香りが付けられていて、値段はパイプ用と比べ数倍となる。
当然庶民には手がでない。
スナッフは上流階級や貴族の嗜好品である。
それを入れておくスナッフボックスもまた贅を尽くした工芸品が用いられ、彫金、カメオ、東洋の螺鈿細工、などが使われる。
アンナが目をつけた男は、そのような工芸品を持ち歩く身分ではないことは、衣類を見れば明らかだ。
「早くしないと、あの男は店を出ていきますよ」
「つまり治安判事殿を待てない、ということか」
街の治安維持もコンスタブルの仕事ではあるが、犯罪者と直接対峙するのはウォッチマンなどが受け持つ。コンスタブルは事務方であるからブラックウッドは腕に覚えがない。
つまり、取り押さえる自信がない。
「逃げられますよ」
アンナもそれはわかっているのだろう。いつもと変わらない仏頂面で声に抑揚はないが、ブラックウッドには不思議と責め立てられているように聞こえた。
「早く」
「わかったから、そうせかすな」
ブラックウッドは一度深く息を吐いて、気持ちを整えた。
「君、ちょっといいかね」
意を決し、ブラックウッドが肩を叩き声をかけると、男は用心していたのだろうか、素早く声に反応し肩にかけた手を振り払う。
男は勢いよく立ち上がり、その勢いで出口へ向かおうとするが、既に破れかぶれのブラックウッドは「ええい」と男の腰に抱きついた。
「待て、どうして抵抗する! 大人しくしろ!」
コーヒーハウスで見知らぬ客同士が話をすることなど全く珍しくないというのに、その男は声をかけられただけでこのように逃げようとする。
明らかに不自然である。
疑っていたわけではないが、アンナの見立てだけでは不十分に思えたブラックウッドも確信した。男には後ろめたい何かがあることを。
「胸ポケットに隠しているスナッフボックスを見せろ」
その言葉に男はさらに抵抗を強くした。この反応なら間違いないだろう。そう思うとブラックウッドの腕にも力が入る。
しかし実戦に乏しいブラックウッドを振り払うのは、盗みで生計を立てる男にとって難しくなかった。
腰にしがみつくブラックウッドの左腕を取り、簡単に肘関節を決めると、あまりの痛さにブラックウッドは悶え、腕から力が抜け、情けなくもその場に倒れてしまう。
ブラックウッドをあしらうと男は身を翻し入口に走る。そばにいたアンナを突き飛ばした時だった。
店から逃げようと入口へ走った男は別の男にぶつかり、その勢いで床に倒れてしまった。
「サー・アーチボルド!」
床に転がるブラックウッドの声は安堵に満ちていた。
走ってきた男にぶつかったにも関わらず、よろけることもなく逆に男を突き返したのは、シティ・オブ・ロンドンに28人いる治安判事の一人、サー・アーチボルド・フェアファクス。
アンナが待っていた男だ。
「その男、盗品を持っています」
突き飛ばされた勢いでテーブルに身を預けるアンナを一瞥する。
「そこをどけ!」
叫びながら男は再び入口へ向かったが、サー・アーチボルドはのかない。それどころか、走る男の胸元に向かって右手を突き出し、左手で袖口を掴む。次の瞬間に男は倒れ、上になった治安判事によって押さえこまれていた。
アンナはもちろんブラックウッドも見たことがない体術だ。
「恐らく胸の内ポケットにスナッフボックスを隠し持っているはずです」
アンナの言葉に従い、治安判事が男の胸へ手を差し入れると、確かに内ポケットには2つのスナッフボックスが隠されていた。
店の者が持ってきた縄で、男の手を後ろでに縛ると椅子に座らせ、店の一角はあたかも取り調べ室のようになった。
スナッフボックスから漏れる香りに、いつもの仏頂面をほころばせ目をとろんとさせるアンナを横目に、治安判事が調べるとスナッフボックスには伯爵と子爵の名が刻まれているのが確認できた。
そして、伯爵は新聞に盗難品の情報を求める広告を出稿していたことも確認できた。
盗難品で間違いない。
当時、盗難品を取り戻した場合には謝礼金が支払われることは珍しくなく、情報を求める広告は新聞に出稿されたり、直接コーヒーハウスの壁に貼られていた。
その謝礼金を目当てに盗品と知りながら買い上げる者もいた。故買屋である。
当時のロンドンでは謝礼金を目当てとする故買屋が増え、社会問題となっていた。
「つまり、アンナは嗅ぎタバコの匂いを嗅ぎ取り、新聞をめくるスピードが早すぎるから、この男が謝礼金目当てだと見抜いたというのか」
ウォッチマンを呼びに向かったコンスタブルのブラックウッドに代わり、アンナがそれまでの状況を説明すると、治安判事のサー・アーチボルド・フェアファクスは説明すべてを信用した。
内ポケットに忍ばせたスナッフボックスの存在を嗅ぎ取る人間離れした嗅覚もアンナなら可能だと既に知っているからだ。
「コーヒーハウスには色々な客がいますから、毎日そこに座って客を見ていれば嫌でもわかります。何を目的にこんなコーヒーハウスに来たのかが。詐欺師なのか盗人なのか、それくらい」
無愛想なアンナの仏頂面も、こんな時は誠実に思えた。
「だったら私が来るまで待てばよかったじゃないか。そうすれば私もアンナの推理を最初から聞くことができたというのに」
そう言うと、サー・アーチボルドはふぅっと息を吐いた。
一人の故買屋を捕まえた喜びよりも、アンナの推理を聞けなかったことが治安判事にとっては損失らしい。
「待っていたら、男を取り逃がす恐れがありましたから」
「そんなことを言って、本当はスナッフをすぐに嗅ぎたかったんだろ」
治安判事の前でアンナが事件を解き明かすのはこれが2回目だが、治安判事は既にアンナの扱い方を心得ていた。
スナッフボックスを持つと、アンナに示すように顔の前に差し出してからハンカチに包んでしまった。
「あ、待ってください!」
「どうした?」
「少しだけでも嗅がせてもらえませんか。その嗅ぎタバコ、少し珍しいい匂いがして。一つは東洋のスパイスとウェールズのバラを組み合わせています。もう一つは柑橘類の香りですが、どうも産地がわからないんです。だからひと嗅ぎだけでもいいんです」
いつも仏頂面で「1ペンスです」としか発話しないアンナも、匂いのこととなるとこれほどまでに饒舌となる。
「産地か。このオレンジはどうだ?」
治安判事が上着のポケットから持参したオレンジを出すには及ばなかった。
「セビリアです。それよりも嗅ぎタバコを、少しでいいんです。目の前に嗅ぎタバコがあることなんて、私にはそうそうあることじゃないんです」
「だが、この嗅ぎタバコは私のものではない」
「何も使わせて欲しいと言っているわけじゃありません! そのスナッフボックスを開けるだけでいいんです。」
「じゃあ、これはどうだ?」
サー・アーチボルドがアンナの前に出したのは白のレース、その端切れだった。アンナは受け取ると、それを鼻の下に寄せた。
「オリーブ油から作った石鹸の匂いが残っています。アレッポではなくマルセイのものに近いようですが、どこで作られたものかはわかりません。それと、知らない匂いがあります。恐らく油脂を使って抽出した香り」
香気成分を抽出するためにアルコールを使うことが多い。アルコールで抽出することで香水や嗅ぎタバコなどの香り付けに使いやすいからだ。
しかし、香気成分によってはアルコールには溶けにくいものもあり、それらは油脂を使って抽出する。
現代の知識で表現するならば、長鎖アルキル基を持つものや分子量が大きい香気成分であるが、揮発しにくいことから香りが持続する。
アンナほどの鼻でなくとも、嗅ぎ分けることも可能だろう。
「この匂いに興味はないか?」
未知の香りにアンナの目は輝いていた。
「このレースは密輸されたものだが、私たちは密輸ルートを解き明かしたい。それができれば、この匂いの由来を知ることができるだろう」
つまり、アンナの力を借りたいというわけだ。そのためにアンナが興味を持つように、匂いをかがせたのだ。
しかし仏頂面のアンナだ、軽々と面倒事に関わる性格ではない。
アンナと知り合ってまだ日が浅い治安判事はレースの端切れだけでアンナが乗り気になると考えていたから、二の矢を用意していなかった。
しかし、偶然とはいえサー・アーチボルドは二の矢を手にいれた。
「そうだな。スナッフボックスをお返しする前に、供述通りか中身を改めておく必要があるな。協力すると言うのなら、私ももう少しコーヒーハウスにいよう。確認をここで行ってもいい。ここで回収したのだ、現場でするのがいいだろう。しかし、アンナが協力しないと言うのであればしょうがない。早急に別の協力者を探しに行かねばなるまいな」
「します! させてください!」
まんまと餌に飛びついたアンナを見て、サー・アーチボルドもまた口元をほころばせた。