誰がざまぁが正義と言ったのかしら 裏
ーー俺の神様は全知全能ではない。
物心ついた頃にはうちは貧乏だった。
いや、その頃は餓死しそうなほど飢えてたとか、着るものもなかったとか、そういう目に見えるほどの極端な底辺ではなかった。
貴族としてはもとより地主としてもだいぶ侘びしかったが、庶民から見ればそこそこ裕福と言っても良かっただろう。
俺の家は猫の額のような山裾の領地を細々と切り盛りしながら暮らす、年代だけは重ねた子爵家だった。元々は領地を持たず宮廷に出仕する木端役人貴族家だったが、何代か前のご先祖様が公爵家縁のお嬢様と大恋愛の末に結ばれ、さらに奮闘して何やかんやで功績も立てた結果男爵から子爵へ陞爵し、祝いとして嫁の実家から今の領地を下賜されたという経緯がある。
放蕩さえしなければ暮らすに困らない程度の税が取れるだけで、実質は裕福な地主と変わらない程度の規模でしかなかったけれど、俺は実家の領地がそこそこ好きだった。
田舎だけど住んでいる人は気が良いし、空気も水も食べ物も美味しかった。
単純に暮らしていくには難もある場所だったけど、知恵を出して工夫して、皆が出来ることで補い合って生きていた。
けれど俺の祖父は、そういう田舎が嫌いな人間だった。
とにかく賑やかで派手なものが好きで、我慢するという才能にとことん恵まれなかった。
好き嫌いが激しく人を気遣うことが苦手で、周囲と協調する必要があることを理解していても、実行には移せない。
おまけに単純で騙されやすく、承認欲求が強い寂しがりで、人が好きだけど好意を金で表すことしか出来ない人だった。
自分から悪事に進もうとしない程度の思考能力はあったから、人間として最悪かと言えばそこまでではないのかもしれないが、身内からすれば相当に厄介な人間だ。
一年のほとんどを王都で暮らして会うことはほとんど無かったけど、俺はこの祖父が大嫌いだった。
領主の仕事や面倒事は俺の父にほとんど丸投げするくせに、見栄をはることが止められなくて金だけは奪い取っていく。
誰かの下に見られるのが大嫌いだから、何度俺の父が代替わりを願っても、死ぬまで当主の地位は絶対に手放さなかった。
身内を助けるのは当然と嘯くくせに自分は何もしない、何も出来ないこの祖父が不摂生で亡くなった時はひどく清々したものだが、隠されていた当主権限で積み上げられた借金の山が発覚して、幼い妹を除く家族全員の顔から血の気が引いた。
祖父自身の浪費もあったがいくつも知り合いの借金の代理人になっていて、その借金の元になった人達は、祖父が亡くなると知らぬ存ぜぬを通してさっさと俺達の周囲からいなくなった。
特に魅力のない小さな領地を売っても爵位を売っても、到底贖えないほどに膨れ上がった借金は、いくつにも重なっていてどこから手を付けたら良いのかさえわからない有様だった。
「もう私達全員、首を括るしかないかもしれない」
頼めそうな伝手を全て訪ねても、ほとんどにけんもほろろに追い返されて生気のない顔で父さんが呟くと、母さんが耐えかねたように啜り泣き始めた。
母さんが震える腕で抱き締めた妹はまだ小さくて何のことだか分からなかっただろうけど、この異常な雰囲気に不安そうな顔で母さんにしがみついていた。
俺はやりきれない気持ちで家を飛び出して、けれど何をすることも出来なくて、ちっぽけな領地の町をトボトボと宛もなく歩いた。
「ーーすぐ隣の公爵領の小さな町で、新しい絹織物が生み出されたらしい」
ふとどこからか聞こえてきた話に、声を探してぼんやりと視線を周囲に巡らせる。
すると町の一角にやってきていた行商人が、商店の人間と楽しそうに話している姿を見つけた。
「へぇ、隣が絹を作ってるなんて話、聞いたことなかったけどな」
「それが、新しく統治を代行するようになった公爵家のお姫様が、領民の提案を受けて起ち上げたらしい」
「公爵家のお姫様が、領民の意見なんて聞くのか?」
「いや、さすがに姫様が直接聞いたわけじゃなくて、同行させた管理人に広く話を聞いて回らせて、その報告を聞いたらしいけど。ほら、この辺りってちょっと特殊だろ?でも何か産業が出来ないかって考えたらしい。そしたらどうも珍しい蚕の固有種が見つかったって話だ」
この辺りは疎らにいくつかの高くはない山が入り組んでいて、大気の流れや日照条件等で気候が少し複雑だ。
冬は雪が深くなる場所もあるし、夏でも冷える日もある。大規模に作物を育てるのは難しいし、だいたいが低山では取れる鉱物資源等も乏しい。
そのせいというか、代わりというか、この辺りでしか見られない固有の動植物がいくつかある。
かくいう俺はそういう物を見て触って調べるのが好きだった。
「いいね。隣とはいえこの地域が盛り上がるのは嬉しいよ」
「お姫様はまだ色んな新しい可能性を探しているみたいだ。
あんたも何か珍しい物を持ち込めば、もしかしたらこの小さい商店も公爵家で盛り立ててくれるかもしれないぜ」
「小さいは余計だ」
笑い合いながらやりとりする彼らの話に、俺は天啓を受けたような気持ちで目を見開いて立ち尽くす。
彼らの言う珍しい物に俺は心当たりがあった。
この辺りでも特にうちの領地によく生える薬草で、うちの領地では薬草と言っても気休め程度の、ちょっとスースーする草だった。
特に強い効能があるわけでもなく、他に出回るような価値も付けられていないけれど、貴族でも裕福でなかった俺は、国の北側でたまに流行る風土病に妹がかかった時に、自己流でこの薬草を使って煎じ薬を作って飲ませたら、だいぶ症状が緩和された事を覚えていた。
この風土病は拗らせると気管支をひどく傷めて後々まで残ることが多いのに、特効薬がないのでかかると結構な人が喉に不調を抱え続けることになる。
でも拗らせなければ時間がかかっても自己治癒能力で何とかなる。
すぐに治らなくても症状が緩和されるだけでだいぶ助かるのだ。
いつか広められたら良いなとは思っていたが、素人のなんちゃって煎じ薬を大規模に広めるのは危険すぎる。
かと言ってそういう研究を専門で出来る伝手も俺にはなかった。
でも今なら。噂のお姫様なら、この領地の価値を上げてくれるかもしれない。
俺はぎゅっと拳を握り締めると、踵を返して家に戻るべく走り出した。
この国には建国から続く3つの大きな公爵家があって、だいたい王都からそう遠くない西と東と北にそれぞれ大きな領地を持っている。
これは建国当初でまだそう大きくなかった時に領地を分割され、国が大きくなるごとに領地を広げていった名残だ。
ゆえに由緒正しい古い力のある貴族ほど、王都に近い位置に領地がある場合が多い。
ちなみに南の穀倉地帯は王領だ。
領地を持たない宮廷貴族を除く貴族の大体がこの3つの公爵家の所縁で、所属するそれぞれの公爵領の周辺に領地を持っている。
かくいう俺の家は北のクレイル公爵家の派閥に属していた。
つまり何が言いたいかと言うと、弱小の、ぺんぺん草のような、貴族に足を引っ掛けてるだけのうちの領地は、かなり国の端にある。
そこから広大なクレイル公爵領を縦断して、王都寄りにある公爵家のカントリーハウスまで行くのは、子どもの脚では無謀と言えるような事だった。
それでも俺は独りで向かうことを断固として両親に訴えた。
理由としては、うちに男手は父さんと俺しかいない。
父さんと俺の両方がいない時にもし借金取りがやって来て問題を起こしても、曲がりなりにも貴族夫人の母さんや幼い妹に、その人達を相手に交渉したり抑えたりするのは無理な話だった。
そして薬草の詳しい話を伝えられるのは俺しかいない。
「大丈夫だよ。ここ最近は公爵領内の治安も良いって話だし、俺一人でもきちんと何とか話を纏めてくるから」
「ーー済まない。苦労をかける」
「そんな事言うなよ。父さんが頑張って俺達を守ってきたこと、俺はちゃんと分かってる。今は俺の番だけど、まだまだ父さんのスネはかじる気満々だから、丈夫に鍛えといて」
冗談めかしてそう虚勢をはったけど、内心は不安しかなかった。
辿り着けたところでどうやってお姫様に会うのかも算段が付いてない。
行き当たりばったりもいい所だけど、それでも俺達家族にはこれしか残ってなかった。
せめて小さい妹だけでも、まともに生きていけるようにしてやりたかった。
クレイル公爵領領都までの道程は、想像していたけれど大変だった。
何度か変なやつに絡まれそうになったり、子どもだけだからと信用されずに宿に泊まれなかったりもした。
季節が夏の終わりかけで暑すぎず、けれど寒くもないのが幸いだったと言える。
後に知ったけれど、姫様が行き来する可能性があるために街道の取り締まりが強化されたため、盗賊等に会うことはなかった。
俺は出会う前から知らず姫様の恩恵を受けていた。
さて俺はボロボロになりながら辿り着いた領都で、馬鹿でかいクレイル公爵家のカントリーハウスを遠目に見上げながら、どうするか思案していた。
そこに広がるのは邸宅ではなくもはや城だった。
領都自体は少し横に潰れた涙滴型をしていて、そこに少し小高い丘が付いてぐるっと城壁で囲まれており、全体を見ると8の形になっている。
驚くべき事にその上部の丘全体がクレイル公爵家のカントリーハウスで、丘には街の外壁の内側にさらに二重の壁が築かれているのが見えた。
1番手前の門の前でも警備がすごくて、しばらく門近くにポカンとして突っ立っていた俺に、門兵が厳しい視線を向けてくるのに耐えかねて離れた。
これはだめだと瞬時に判断を下す。
いくら俺がかろうじて貴族で派閥の一員だろうと、正面からまともに行って会えるとは思えない。
ましてや何とか辿り着いたは良いけれど、今の俺は野宿の連続でボロボロだ。
とても貴族に見えないだろう。
ーーけれど諦めるわけにはいかない。
思案に暮れる俺の耳に、ふと馬車の車輪の音が聞こえた。
田舎育ちで視力が良い俺の目に、少し離れた所からこちらに向かってくる馬車に付けられたクレイル公爵家の紋章が映る。
え、どうしよう。チャンスだけどどうしたら良い!?
えーと、まずは停まって貰って…え、どうやって!?
あ、もう来る、とにかく停まって貰って……!
どんどん近くなる馬車に思考が空回りしまくって、訳が分からないまま焦って馬車の前に飛び出した。
「うわ、なんだ!?」
「敵襲か!?」
乱暴に減速させられた馬が嘶きを上げて軽く暴れる。
本当にギリギリで馬車の前を護衛していた騎士の馬にはねられずに済んだけど、剣を抜きながらこちらを厳しい視線で睨む騎士の姿に、反射的に地面に平伏した。
「ク、クレイル公爵家のお方に奏上したいことがあります!」
震える身体を必死に抑えて、額を強く地面に押し付けながら叫ぶ。
「麗しくも冷厳な北の精霊に祝福されしクレイル公爵家の連なりに、誇らしくも末席を預からせて頂いておりますセレト子爵家長子、シリウスと申します。
アーシエル姫様が新しい事業案を探していると聞き及び、恥を忍びつつお願いに参りました!」
死んでもこれだけは言わなければならないと声を張った名乗りに、騎士達が困惑にざわめいた。
これが子爵家の長子?と訝しむ声にさもありなんと思う。
我が家は充分な路銀など出せる状況ではなく安宿に泊まるのが精一杯、それさえ泊まらせて貰えない事もあり、全体的に俺は薄汚れていた。
しばらく本当かどうか迷う気配が漂った後に、馬車から何か騒ぐ声がした。
「姫様、お止めください」
「私に用だと言うのでしょう?
子爵家の者と言うなら、彼らには手荒に追い返せないでしょうし」
馬車の扉が開かれて、澄んだ凛とした声が聴こえた。
すっと白く小さい手がエスコートを求めて馬車から伸びると、慌てて側で馬に乗っていた者が馬を降りて馬車に駆け寄る。
地面から少しだけ顔を上げて覗き見ると、差し出された手を取って馬車から降りてきた少女の姿に瞬きも忘れて見入ってしまう。
北部の人に多い薄い髪色の中でも、特等のプラチナを漉いて頭に乗せたように太陽に輝く髪。
アラバスターに微かに薔薇色をのせたような白い肌。
まだ俺より小さいのに、従者に預けた指先から微かに風をはらむスカートの裾まで計算されたように優美な動き。
何よりも、こちらを振り向いて向けられた天上の神々が身に付けるエメラルドと言われても良いような、澄んだ強く輝く翠の瞳。
北部貴族は緑系統の瞳が出やすいと言われるし、現に俺も緑瑪瑙みたいな暗めの緑色をしているが、彼女の瞳と比べると輝石とクズ石くらい違う。
「ーーそれで?」
手にした扇子を軽く開いて口元を隠すようにしながら、向けられた促す声にハッとして、慌ててカバンを漁る。
「薬知らずと言われた北の風土病に、効果があるかもしれない薬草です。
姫様の事業の1つに加えて頂ければと」
出来る限り綺麗な布に包んだ薬草を、両手で捧げるように持ち上げ再び頭を下げる。
断られたらと思うと少しの沈黙が息苦しく感じるほどの不安に苛まれた。
「ーーまぁ、いいわ。可能性としては悪くないでしょうし、詳しくは屋敷で話を聞きましょう。
誰か、セレイルに相手するように伝えなさい」
話すと言うよりは独り言のように呟いて、畳んだ扇子の先でツイ…と屋敷を指す。
その動きに合わせるように、隊列の中から1人が離脱して先に屋敷へと向かっていった。
「覚悟は見せていただきました。けれどこのような事が何度も通用するとは思わないことね」
微かに不快の感情を鼻先に見せてそう言う放つと、姫様はくるりと俺に背を向けるとそのまま馬車に戻った。
何が何だか分からないうちに、護衛によって道端に寄せられ馬車が目の前を通り過ぎていく。
「ほら、何してる。いくぞ」
気付かなかったけれど残っていた護衛の1人が、面倒そうに歩くように促す。
「え、あ、あの…?」
「姫様の気まぐれに引っかかったんだろ。しっかりしろ」
バシンと背中を叩かれてよろめきながら、半信半疑で歩き出す。
そうしてつい先程までは固く閉ざされていた門の内側に俺は足を踏み入れることになった。