俗世とは程遠い二人の日常
ソレが私の家に現れてから三日が経つ。
「きみ、ずっと隅っこにいて寒くないの?」
いくら話しかけても返事はない。でも、ソレはずっと大きな瞳で私を見つめている。最初こそ迷子になった子どもではないかと近隣を訪ねたものだが何の情報も得られず、決定打となったのは彼女の姿が私以外に見えていないということだった。
「…やっぱりきみってお化けなの?」
正直幽霊なんて信じていない。でも、これだけ謎だらけな少女を前にしたらそれ以外思い浮かばない。
「…よし。」
こうなったら腹を括るしかない。彼女に触れられるかどうか確かめてみよう。
慎重に彼女の頭に手を伸ばした。
「……ふわふわだ。」
細くてやわらかい髪を無心で撫でていると、ついに少女が口を開いた。
「…ハナリ、」
「…!…なんで、私の名前知ってるの?」
少女は何も答えない。ただじっとこちらを見つめるだけだ。
「…きみの名前は?」
「…」
「文字は書ける?」
「…」
こちらの言葉は理解出来ているのだろうか。やはりどこかの家の幼い子どもなんじゃないか?もしくは…私のように親に捨てられた子…、何故だか妙に放っておけない。
「こっち、おいで。」
少女の手を引いて机の前に座った。私がこの子に文字の読み書きを教えてあげよう。
こうして私とソレの勉強会が開かれるようになった。
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「じゃあ、バイトあるから…そろそろ行くね。」
「…」
「…こういう時ってなんて言うんだっけ?」
「……いってらっしゃい。」
「…!うん、行ってきます。」
ソレと一緒に勉強するようになって分かったことが二つある。一つはソレはとても物覚えが良いこと。すぐに文字の読み書きを習得し、もう小学校低学年で習う漢字は全て覚えてしまった。二つは口数は少ないものの会話出来るということ。自分からソレが話すことはないが私の呼び掛けにも応えてくれるようになった。
朝の日差しが眩しいくらいに輝いて見える。
家に誰かがいるだけでこんなに満ち足りた気持ちになるのだろうか。これが、普通の幸せというものなのかもしれない。
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「お嬢さん、相手してくれるかな?」
「…はい。」
もうあの子は眠っている頃だろうか。
朝は浮かれすぎていたな。結局私はこんなことをしなければ普通の生活を手に入れられない。
…あの子に早く会いたいな。
たとえ幽霊だったとしてもあの子はきっと優しい子だ。いつも私を見つめる瞳に邪気はなく透き通っている。妹がいたらこんな感じなのだろうか。
「…上手だったよ。ありがとう。これお駄賃。」
…!いつもの三倍近い値段だ。
「…ありがとうございます。」
今日の人は妙に優しかったな。こんなことをしてる女に気を使って何を得する訳でもないのに。
…誰かいる。
さっきの男だろうか。やっぱりあの態度と金額、見返りを求めているに違いない。こんな時、自分には頼れる人が誰もいないことを実感する。
撒けただろうか。
「お嬢さん、危ないよ。こんな人通りの少ないアパートの一階だなんて。」
「…!」
ドアを開けた瞬間に腕を掴まれ口を塞がれた。
「…っ!んー!」
「こらこら、大人しくしなさい。」
強引に部屋に押し込まれ壁に押し付けられた。
「可愛いね。君はとても真面目で誠実そうなのにおじさんとこんなことしちゃうんだ。」
首元に顔を擦り付けられ胸をまさぐられる。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!
そうだ、あの子はっ、あの子は何処にいる?
「…っ、」
大きな瞳が驚いたように見開かれてこちらを見てい
る。文字の練習をしていたのだろうか、机にはノートと鉛筆が出されたままだった。
「…ご、めん、ねっ、」
少女に知られてしまった。こんなに汚く醜い自分を。
「誰と話してるのかな?」
「…っ、見ないで…。」
「…ハナリ。」
突然の出来事だった。
ソレは男に覆いかぶさったと思うと溶けて男の体に染み込んでいった。拘束は解け男は虚ろな目で立ち尽くしていた。
「…、ど、どうなってるの…?」
「…」
男はゆらりとこちらを見やった。
その瞳には生気がなく、あの少女の透き通った瞳と似ていた。
「もしかして、きみなの?」
「…」
男は答えることなくふらふらと外に出て行った。
次の日目を覚ますと少女はいつものように部屋の隅っこに佇んでいた。
俗世とは程遠い二人の日常 終