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-38- もの忘れ

 悲しいことだが、人は年老いるともの忘れをするようになる。まだド忘れするくらいならいいのだが、完全に忘れてしまう病的な痴呆性のもの忘れは、いささか問題になるだろう。 このように言っている私も、時折り物忘をするようになった。その都度、ア・イ・ウ…と五十音順に思い出そうとするが、昔はこんなじゃなかった…と、なぜか(わびし)しい気分に陥るのである。実に情けない話だ。^^

 定年前の黒川は最近、(とみ)にもの忘れをする回数が増えていた。

「課長、部長がお呼びです。部長室でお待ちだそうです…」

「そうか、有難う…」

 課長補佐の安楽にそう言われ、黒川は課長席から立った。立ったのはいいが、なぜ呼び出されたのかが分からない。思い当たる節もなかったから、黒川は(いぶか)しげに部長室へ向かった。

「ああ、黒川君。どうだった、アノ件は?」

 アノ件? 黒川は一瞬、戸惑った。アノ件と言われても、ドノ件か皆目、分からなかったからである。だが、もの忘れしました…とは言えない。

「ああ、アノ件でしたかっ! アノ件は順調に進んでいます…」

「そうかっ! そりゃ、よかった。うちの家内が気にしとったんだよっ!」

 うちの家内が気にしていた…黒川は何のことだかさっぱり分からなかったが、ははは…と愛想笑いして誤魔化した。

「で、いつ頃、彼から返事をもらえるんだ?」

 返事をもらえる? 黒川は益々、分からなくな混迷した。

「近いうちに…とは申されておりましたが?」

「申されておりましたって、彼は君と同期じゃないか」

「ああ、はいっ! 言っておりました」

「そうか…なにぶん、よろしく頼むよ。うちの娘もかなり乗り気でな、ははは…」

「ああ、はいっ!」

 誰のことです? と訊ねる訳にもいかず、それ以降、黒川は侘しい眠れない日々が続いている。

 黒川さん、こんなときは正直に、「ド忘れしまして…」とお訊ねになった方がいいですよ。訊くは、いっときの恥、訊かぬは一生の恥・・と申しますよ。^^


                   完

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