かつて愛したひと
「・・・こんばんは。シンさん。お久しぶりね。・・・私のこと、覚えてますか?」
今の僕の職場であるスーパーで、品出しをしていた僕に話しかけてきた女性には見覚えがあった。
髪はロング、上品なスーツ姿で、きれいだがどこか陰のある女性。
「・・・ミオさん、だよね」
「そう。良かった、覚えててくれて。・・・急だけど、その、いつでもいいけど話せない?・・・ハツミについて、なんだけど」
胸が痛んだ。
彼女のことを思い出す。
ハツミ。かつて愛したひとのことを。
僕を見つめていたミオさんが、悲しそうに言う。
「・・・ごめんなさい。貴方にとって、良い記憶じゃないことは分かってるの。でも、もしよかったら、連絡して」
メモを僕に手渡して、彼女は逃げるように店を出ていった。
僕はしばらく考えてから、メモを丁寧に畳んで胸ポケットへ入れ、仕事を再開した。
あれから数日後、僕はかつて行きつけだったバーへ来ていた。
ここへ来たのは5年ぶりだ。
「シンさん。連絡してくれてありがとう」
「いえ。それで、お話しというのは?」
正面に座るミオさんは、濃いオレンジの飲み物が入ったグラスに口を付ける。
僕はじっと彼女が話すのを待った。
「言った通り、ハツミの話、なんだけど。興味があるから来たって思ってもいいのかしら?」
「ええ」
「今、彼女がどうしているかは知ってる?」
「いいえ」
「・・・あなた、印象が変わったわね。以前はもっと・・・」
「その話は、今からする話に関係がありますか?」
少し苛立ち、彼女の話を遮る。
彼女が言った通り、どうあっても僕にとって気分のいい話ではないだろう。
早く聞いてしまって、できることなら早く一人になりたい。
僕の顔を見た彼女は目を伏せる。
今、僕はどんな顔をしているんだろう、とふと思った。
「・・・ごめんなさい。あなたに対して、あの子がどんな仕打ちをしたのか、聞いていたのに。・・・結論から先に言うと、あの子は死んだわ」
「そうですか」
ハツミの死は、十分に予想できたことだった。
僕は驚かなかった。
その覚悟はずっとしていたから。
◆◆◆
ハツミと初めて会ったのは、一人でぶらりと立ち寄った居酒屋だった。
その日、僕は発注でミスをし、上司から注意を受けて落ち込んでいた。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めて、砂肝を食べながらひたすらアルコールを流し込む。
「おにーさん、ひとりぃ? うちと飲まなぁい?」
声を掛けてきたのは、僕以上にアルコールの回っていそうな、スーツ姿の茶髪の若い女性だった。
僕の飲む様子を見て声を掛けたと、笑って話した。
「うちより辛気臭い顔で飲んでるから、その顔見ながらおいしく飲めるかなーって?」
「ひどいな」
「まーまー。うちが慰めてやっからさー。よちよち」
若い女、ハツミは僕の話を聞いた後でよく笑い、そしていつの間にかべそべそ泣きながら愚痴りだした。
「うちが何したっていうんだよう。お前が客取られたのは別にうちのせいじゃないだろーがー」
ハツミも営業職らしく、業務の過程で、結果として同僚の客を取ってしまうことになったらしい。
同じ職種であることに共感した僕は、泣く女の愚痴を聞き、酔いつぶれた彼女をタクシーに放り込んで、彼女のマンションまで送った。
彼女が自分の部屋に入ったのを見届けてから、僕も家へ帰った。
もう、上司に注意を受けて塞いだ気分は、軽くなっていた。
ハツミと再会したのは、それから2か月ほど経ったランチでだった。
「あっ」
午前の客先訪問を終えて手近な洋食店へ入り、メニューを眺めていると、女性の声が近くで聞こえた。
顔を上げると、見覚えのある茶髪の女性、ハツミだった。
「ええと、お久しぶり?」
「あ、あの時のひと、シンさん、だよね。あの、あの時はありがとう、ございました」
スーツ姿の彼女は、あの時の彼女とは違って大人しくて、なんだか可笑しかった。
「どういたしまして。君も昼食だよね。せっかくだし、良かったら一緒にどう?」
彼女は一瞬迷ったようだが、店は昼食時で混んでいたからか、
「はい。じゃあお言葉に甘えて」
と、向かいの席に座った。
彼女も僕と同様、営業周り中だったため、その時はあまり長くは話せなかった。
けれど、連絡先を交換して、やり取りを始めるきっかけにはなった。
ハツミとは馬が合い、飲みに行くようになり、仕事の愚痴を言い合った。
飲んで、また彼女が泣いて、酔いつぶれて、家へ送って。
身体を重ねるようになって。
ハツミの部屋で、一緒に住むようになった。
ミオさんとは、このころ出会った。
ハツミの同僚で、ハツミが誘って時々3人で飲みに行くようになった。
ミオさんは聞き上手で、良く笑う人だった。
彼女と2人で、泣くハツミを笑いながら宥める係だったが、ある時ハツミが、
「ミオのことをあんまり見ないで」
と、可愛く嫉妬した。
確かにミオさんは快活な美人だったが、既婚者だった。
僕はそう言って笑ったが、徐々に誘われなくなり、また2人だけの飲みに戻っていった。
そのころから、ハツミと僕は少しずつ、互いに依存するようになっていった。
ハツミは僕に甘え、離れることをひどく嫌がるようになり、僕は求められているのが嬉しくて、できるだけ一緒にいるようにした。
休みの日にはほとんど部屋から出ず、ずっとセックスしていた。
僕は彼女の体に溺れ、彼女も快楽に溺れた。
ベッドの中で彼女が可愛い我が儘を言い、僕がそれを叶えることがたまらなく嬉しかった。
「シン。大好きよ。すごくすごく、大好き」
繋がりながらハツミが耳元で囁く声が、まだ耳に残っている。
僕は仕事を辞めた。
ハツミが望んだからだ。
葛藤はもちろんあったが、ハツミはすごく優秀な営業で僕よりはるかに収入が多かったので、主夫をして帰りを出迎えて欲しいという『お願い』を断れなかった。
ハツミは、「頑張って稼ぐからね」と明るく笑い、残業が増え、家に帰っても資格の勉強を始めた。
僕はできるだけそれをサポートし、昼間は家事をこなし、収支の計算をして家の環境を整えることに力を入れた。
2人で飲みに行くことは無くなったが、夜はたくさんハツミを甘やかした。
そうした日々が全く苦にならなかったのは、主夫業というものが向いてはいたんだろう。
けれど、徐々に、少しずつ気が付き始めた。
恐らく、僕らのこの生活は、長続きしない。
そして、良い終わりを迎えることはないだろう、と。
少しずつ、ハツミの残業が増えていった。
仕事が軌道に乗り始め、充実していることが見て取れる。
一緒に夕食を取りながら、明るく仕事の話をしていたハツミ。
あんなことがあった。
こういう時、どうしたらいいだろう。
楽しそうなハツミを見ているのは幸せだった。
休日にも勉強会に出かけることが増えた。
夕食を外で済まし、共に食卓を囲むことが減った。
仕事の話をしなくなった。
知らない男物の香水の香りがした。
家には無いシャンプーの香りも。
確実に終わりの日は、近づいていた。
僕はその日が訪れるまで、できるだけいつも通り家事をし、ハツミを出迎え続けた。
「シン、どうして何も言わないの」
ハツミが冷たい目で僕に尋ねた。
「気づいてるんでしょう? うちが浮気してること」
「うん。そうだろうと思っていたよ」
「じゃあどうして何も言わないの!?」
ハツミが感情をあらわにするのを見たのは、久しぶりだった。
酷く独善的なセリフを吐くのを見るのも。
もうハツミと夜を共にすることもなくなっていた。
分からないわけがなかった。
「君は僕に、我が儘を言わなくなったね」
「・・・当たり前じゃない。大人なんだから」
「それは君が、もう僕に何も求めていないってことだよ」
「そんなこと・・・!」
ハツミは言いかけて、黙った。
「それが答えだよ。僕が君に関心をなくしたわけじゃない。君が僕を不要と思うようになったんだ。僕じゃない。君が、変わったんだよ」
僕はこの日のために準備していたセリフを伝えた。
ハツミは俯いていたが、振り向いて何も言わずに家を出ていった。
その日、彼女は帰ってこなかった。
「おかえり」
翌日、帰ってきた彼女を、僕はいつも通り出迎えた。
ハツミは無言で、僕に目も合わせずに、自室へ向かった。
旅行鞄を持って自室から出てきたハツミは、決して僕と目を合わそうとしなかった。
「出て行くわ。この部屋は好きに使って。さよなら」
そう早口で言って部屋を出る彼女の背中に、僕は一言だけ声を掛けた。
「できれば、僕のことは忘れて」
ハツミは一瞬だけ立ち止まり、振り向かず、そのまま出て行った。
それが、ハツミとの別れだった。
部屋の賃料や水道、電気、携帯の代金等は、ハツミの口座から引き落としされていて、止められることは無かった。
住むところや連絡先が定まっていないと新しい仕事も見つけられないので、3か月ほどはそれに甘えた。
生活費は、ずいぶん少なくなっていたが、僕の預金が残っていたため、それでしのいだ。
彼女はカードも置いて出て行ったため、恐らく使うことはできたが、手は付けなかった。
僕は仕事を探し、すぐに今のスーパーの仕事を見つけた。
ここでの仕事が少し落ち着いてきたころ、僕は安アパートに引っ越した。
止められるものは止めたが、部屋の解約は家主でないとダメだったため、できなかった。
ハツミに連絡したが、電話に出てもらえず、SNSにも応答は無かったため、止む無く中のものを残らず処分し、掃除をして出て行った。
あれから3年が経った。
◆◆◆
「ハツミが死んだのは、どういった経緯で?」
僕はグラスに口を付けて喉を湿らせ、黙ってしまったミオさんに尋ねる。
バーボンの焦げ臭い香りが鼻から抜け、久しぶりのアルコールに腹の底が熱くなる。
「・・・驚かないのね」
「予感は、ありました。危うい人だったので」
グラスを片手で回して、氷をゆっくりと溶かす。
「ミオさんのご主人と、浮気していたんでしょう? そして捨てられた。それを苦にして自殺。そんなところでしょうか」
ミオさんが目を見開く。
「どうして・・・」
「ハツミが浮気をしているのは丸わかりでした。普通にカードを使っていたので、ネットで利用履歴が簡単に確かめられました。ホテル代もタクシー代もハツミ持ちだったみたいですね。探偵を1週間雇ったら、簡単に会社の上司が相手だと分かりました。その上司、あなたのご主人は女の金で遊ぶクズだった」
ミオさんは目を伏せた。
「ごめんなさい。その通りよ。誘ったのもあの人からだったらしいわ。あなたたちがどういう暮らしをしていて、ハツミがあなたに何をしたのかも、あの人から聞いた。知っていてそんなことをしたあの人は、どう言われたって仕方がないゴミだったわ。・・・本当に、ごめんなさい」
「ミオさんが謝ることじゃありません」
「私に魅力が無かったから・・・」
「それを言ったら僕もでしょう」
ミオさんは目を上げて、また目を伏せ、もう一度小声で、ごめんなさい、と言った。
「ご主人とは、どうされたんですか?」
「別れたわ」
「でしょうね」
僕はもう一口、バーボンを口に含む。
ミオさんは自分を責めているようだ。
今日も、僕に謝罪に来たんだろうと思う。
あんなに明るくお酒を飲んで笑う人だったのに。
申し訳なさを感じた僕は、少しだけ自分のことを話すことにした。
「ご主人は会社を辞めさせられましたか?」
「・・・ええ」
「そうでしょうね。会社の上層部や総務、ご自身の所属部署や自宅に実家、そのご近所まで、不倫の証拠が匿名で送り付けられれば、そうなるでしょうね」
ミオさんがまた目を見開く。
「シンさん、あなた・・・」
僕は薄っすらと笑う。
「・・・どうして、今になってあなたが?」
「自転車って、乗り始めはふらつくから気を付けますけど、ある程度走ったら、転ぶ心配はしなくなるでしょう?」
「・・・初めから、こうするつもりで?」
氷が溶けだしたグラスをテーブルに戻す。
「予感はあったんです。こんな暮らしは続かないだろうって。ハツミは仕事に打ち込んで、変わっていった。だんだん僕は必要とされなくなっていく感触があったんです。でもどうしようも無かった。僕らは互いに歪だったんです。どちらかがまともになろうとしたら、壊れるのが自然だったんですよ」
ミオさんは、黙って僕を見つめて聞いていた。
「漠然とそんな予感を感じていたある日、初めて彼女から夜の営みを断られました。『うち今日は疲れてるの。ごめんね』って。きっとこの日が、ハツミが僕を裏切った日だったんだと思います。あとは、さっき言ったように、気を付けていれば、いくらでも証拠は見つかりました」
「・・・どうして、何も言わなかったの?」
「それ、ハツミにも言われました。でも言ってどうなるっていうんです? もう彼女の気持ちは離れていた。他の男に、何度も体を許した。いくらかは予想していたとは言え、そんな女に僕も触れたくなくなった。自然とセックスが淡白になって、そのうちお互い求めなくなった。それだけのことだったんですよ」
「・・・でも、ハツミはきっと、あなたのことも愛していて、止めて欲しかったと思うわ」
「止めたところで、もうやり直せませんでしたよ。他の男に抱かれた時点で、彼女がそれを放棄したんです」
「他の男に体を許した、彼女の過ちを、許せなかった?」
「・・・その気持ちが無いと言えば、嘘になります」
僕が本当に傷つけられたのはミオさんが言う「それ」ではなかったけれど、分かってもらおうとは思わない。
僕らは愛しあっていたけれど、ゆっくりと終わりかけていた。
話し合えれば、何かは違ったかもしれない。
でも彼女は浮気して、僕は割り切れない思いを抱えて、歩み寄りを躊躇した。
お互いに良くないところがあって、結果として壊れた。
「そろそろ白状しますが、証拠を送り付けたのは僕じゃありません」
「え?」
「ちょっと悪者ぶりたかったんです。ごめんなさい」
「ええ?」
「先日、知らない女性から連絡がありました。当時の浮気の証拠なんかをもし持っていたら貸して欲しい、話だけでも聞いてくれないか、と。会ってみたら女性が3人やってきて、自分たちを弄んだ男に復讐したい、協力してくれないか、と言われました」
ミオさんの表情が変わる。
「まあもうさすがに当時の証拠写真なんて保管してないですし、お断りしました。でも、その男がいかにクズか、何人の女性が騙されたか、切々と語ってくれましたよ。元ご主人、人気者だったみたいですね。
その時に、証拠をどうするか聞いたんです。自分たちが訴えられることも覚悟の上で、社会的に殺してやりたい、って言ってましたよ」
「・・・今、元主人は複数の訴訟を受けているらしいと聞いたわ」
「ざまあみろ」
「本当に、そうね」
初めてミオさんが笑った。
僕も来たときより、少し気持ちが軽くなっていた。
短い時間だったけれど、話すことが、凝り固まった僕の気持ちを少しほぐしたんだろう。
もう、早く一人になりたいとは思っていなかった。
自分のグラスを顔の前に掲げて、
「クズの最期に」
と言ってバーボンを飲み干した。
ミオさんも笑って、
「ゴミはゴミ箱に」
といってグラスを空にした。
◆◆◆
僕は家の冷蔵庫からミネラルウォーターを出して蓋を開けた。
「今日は泊っていきますか?」
僕の部屋のベッドで横になっているミオさんに声をかける。
「迷惑じゃない?」
「明日は休みですので大丈夫ですよ」
「じゃあ甘えます。あと、お水、私ももらっていい?」
僕は冷蔵庫からもう1本取り出してミオさんに渡す。
「私、ハツミは多分、あなたに止めて欲しかったんだって、言ったでしょう?」
「はい」
「ハツミは、あなたたちが住んでいた部屋で、見つかったそうよ」
「・・・そうですか」
水を飲み終えた僕たちは、またベッドで絡み合う。
互いに何かを失って、ひびが入ったところを見ないようにして。
ハツミのことを思い出す。
甘えんぼで、寂しがり屋で、自分に自信のない、弱くて優しい子だった。
ミオさんに嫉妬した。
僕を束縛した。
必死で仕事を頑張っていた。
そんな子だったから、できるだけ支えてあげたいって思っていた。
自信を持たせてあげたいと思った。
でも自信が付いてきたとき、僕では物足りなくなって、別の支えを欲して、彼女は他の男に抱かれた。
確かに彼女は止めて欲しかったんだろう。
元の僕たちに戻りたいと、願っていたんだろう。
だから、浮気の痕跡をわざと残した。
だから、どうして僕がハツミの浮気を怒らないのか、と詰った。
だから、家賃やライフラインを支払い続けた。
でも、僕は彼女を責めなかったし、あの部屋を出た。
留守電でも、SNSでも、連絡が欲しいとだけ伝え、引っ越しのことは触れなかった。
クズが複数の女性と関係を持っては捨てていることも探偵から聞いて知っていて、伝えなかった。
僕を忘れろと、彼女に言った。
ハツミの願いを知っていて、彼女がどうなるか知っていて、僕は彼女から距離を取り続けた。
クズに捨てられたハツミは、何を思って僕たちの部屋に戻ったんだろう。
あの何もなくなった部屋を見て、どう感じただろうか。
彼女の浮気を確信した時の僕と、同じくらい、傷ついてくれただろうか。
捨てられた僕と同じくらい、絶望してくれただろうか。
僕がミオさんとこうしてセックスしていることを知ったら、彼女はなんていうだろう。
「シン。大好きよ。すごくすごく、大好き」
僕も、本当に愛していたよ、ハツミ。
これが僕の、かつて愛したひとへの、ささやかな復讐。
<終>