― 4日前 ― 拭えない記憶 1
緑の斜面が開けた場所に何棟か連なる牛舎の一角から姿を現した少年は、小さな見張りの塔によじ登ると麓に見える真っ黒な行軍を眺めた。藍色の髪に緋色の瞳。この時15才のイテルである。
わらわらと列を成してアシェットの街に向かうのは、ロクナム軍の大隊5隊、総勢5千の兵士だ。
「蟻の行進みてぇだな。」
素直に感想を述べたイテルの頭に、ポカリとげんこつが落とされた。
「滅多なことを言うんじゃねえぞ、バカ。」
後ろには牛を引き連れた藍色の髪の体格の良い男が立っていた。なるほど、言われなくともイテルの父だと分かるくらい似ている。
「あの蟻さん達のお陰で、今日から忙しくなるぞ。牛車の荷台にミルクタンクを積んでおいた。早速だが、街の酒場に届けに行ってくれ。」
「うぇ、酒場って?」
「とぼけやがって、ガダルさんとこだよ! 行きたくないのはな何となく察するが・・・、その、頼んだぞ。」
「あ、うん・・・。」
用事を頼み終えると、父は牛を連れて忙しそうに牛舎の方へ引き返してしまった。イテルは冴えない表情で牛車に向かう。(会わない事を祈ろう・・)イテルは軽やかに御者台に飛び乗ると、ゆっくりと牛車を進めた。
麓に下りてみると、アシェットの街はイテルが見たことも無い賑わいを見せていた。行き交う人の数も多く、どこもかしこも喧騒としている。イテルが唖然とするのも無理はない。そもそもアシェットは酪農と農業という一次産業で成り立っている街で、人口は多いがのんびりした田舎町という雰囲気だった。地理的に、北部の町ノスハサック漁港から水揚げされた海産物流通の玄関にもなっており、新鮮な食材が多く集まる事から大陸の台所とも呼ばれている。有名なレストランも多く、食通の憧れの地でもある。そのせいかアシェットの婦女は料理上手との風評が尤もらしく語られており、のどかな風土と相まってロクナムでは『嫁を取るならアシェットの女』などと言われ、独身男性の憧れの地でもあった。
街の郊外には有名な温泉があり、まとめると・・・ちょっとしたリゾートのような場所と言えるだろう。
しかし、その穏やかなアシェットは、唐突に派遣されたのロクナム軍5千人の駐留により、街の歴史で初めてと言えるくらい大量の人とモノが忙しなく動いていた。所謂、戦争特需である。イテルは、行き交う人々にぶつからないよう、器用に牛車を進めた。
イテルの着いた酒場は、昼間という事もあり誰も居なかった。
普段はミルクのオーダーは少なくイテルの牧場で作った燻製肉がメインだったのに、今回は加えて大きなミルクタンクを6缶も運んできている。どこに下ろして良いか分からず、イテルは無人のカウンターの前に佇んでいた。
「クンクン・・・。どうも乳臭いと思ったら、丘の上の牛乳屋の息子じゃないの。」
カウンター奥の扉から声を掛けてきたのは、この時10際のナルである。イテルは生意気で口の悪いこの娘が苦手で仕方ない。会いたくない人には良く会ってしまうものだよな、と口の中で呟きつつ・・・
「こんにちは、ガダルさん。ミルクはどこへ置きましょうか?」
「は? 聞いてないの?」
「は?」
「ここで下ろさないで、軍のキャンプに運んで行くのよ。 裏の酒樽と私も一緒にね。」
「・・・は?」
結局、イテルはミルクタンクの2倍以上の数の酒樽を荷台に積み込みキレイにシートを被せた後、ナルと共に軍のキャンプへと向かった。
牛車はキャンプ地のテント群を縫うようにして進んでいた。イテルは慣れた手綱捌きで牛を操り、上手に兵士を避けている。しかし、兵士を見るのが初めてだったイテルは、すれ違う兵士の甲冑やら武器に目を奪われてしまい、時おりナルの肘に小突かれていた。
「ちゃんと前を見て、牛乳屋の息子さん。」
「わかってる。」
「男って、本当に喧嘩とか戦争が大好きよね。」
「はッ。その戦争のおかげでオマエんとこの酒樽がいっぱい売れたんだろ? 馬鹿にすんな。」
「『今回は戦争じゃない。戦争に憧れる人たちの戦争ごっこだ。』って、ママが言ってたわ。」
「戦争ごっこ?」
「そうよ。本気で戦う気なんて、コレっぽっちも無いって。私もそう思うわ。」
ナルは右手の人差し指と親指で空気を摘まむような形を作り目の前に翳して見せると、偶然出来た指の輪っかの中に、これも偶然、目的地のテントが映って見えた。
「あ、あそこ。」
ナルは輪っかを作った右手を犬の口のようにパクパクさせ、隣のイテルに目的地を指示した。
テント前に牛車を停めると、横で見ていた守衛が駆けつけてきた。
「なんの用だい、お嬢ちゃん?」
ナルはムッとした表情で答える。
「ガダルです。お届け物に伺いました。」
「ガダル・・・? 届け物って荷台のそれか?」
「・・・。」
「決まりだからな、シートの中を検めさせてもらうぞ。」
すると、守衛とナルの会話を聞きつけたテントの中の人が飛び出して来た。胸や襟には所狭しとバッジが飾られている。軍の高官だろうか。
「ああー、待っていたよ。このテントの裏側に四角いテントの倉庫があるから、そこに置いておいてくれ。」
軍の高官と思しき人物は、そう言いながら改めてナルを見る。
「あれ、お嬢ちゃん? 運ぶのを手伝う人が必要かな?」
「大丈夫です。腕力だけが取柄のお供を連れてきましたから。」
ナルがツンとしながら牛車を指さした。イテルはキョトンと首を傾げている。「では。」牛車に向かおうとすると、高官がナルの腕を掴んだ。
「ちょっと、お嬢ちゃん。途中誰かに聞かれても、余計なことはしゃべらないでくれよ。特に、樽の中身がお酒だ、なんてな。」
高官はナルの腕を手荒く放すと、にこにこと手を振り倉庫に向かう二人を見送った。
「ほら。」
「ほら、って?」
「軍のお偉い様方は、此処にお酒を飲みに来ているのよ、昼間っから。」
「いいじゃん、別に。男に、酒と戦は付き物だからな。」
「これだから・・・。」
誇らしげに語るイテルに呆れて、溜め息をつくナル。気にも留めず、御者台のイテルは顔を紅潮させながら行き交う兵士を目で追っている。
「ちょっと待ってて、ナル!」
突然イテルは牛車を停めると御者台から飛び降りて駆け出した。向かう先には、群衆から頭二つ抜き出ているひときわ体の大きい兵士が見える。背中には、これまた大柄な剣を背負っていた。
「す、凄ぇなっ、この剣!」
イテルは兵士の背中に追いつき、剣を仰ぎ見た。振り返った兵士の胸辺りがちょうどイテルの頭くらい。兵士は嫌な顔もせず、目を輝かせるイテルに笑って声を掛けた。
「ははっ! デカいだろ、少年!」
兵士は背中の剣を取り、イテルの足元に突き立てた。持ち手の部分がイテルの頭を超えている。イテルは刀身にユラユラ映る自分の顔に見入っていた。ゴクリ・・・。実物の剣が放つ圧倒的な存在感に、思わず唾を飲む。
「持ってみるか?」
地面から右の片手で剣を抜き取った兵士は、ゆっくりとその剣を地面に寝かせた。イテルは恐るおそる近づき、握りに手を掛けた。軽く引っ張ってみても、大剣はビクともしない。いつの間にかイテルの周りには大柄の兵を含め多くの兵が見物の人だかりを作っていた。そんな事は気にもせず、イテルは続いて両手でしっかり握り、腰を落として思い切り持ち上げてみる。手元は上がったが、切っ先が地面に着いたまま持ち上がらない。
「おまえの体より大きい剣だ、諦めろ!」
「頑張れ、小僧~!」
「中佐殿の剣を持ち上げられたら、ご褒美をくれてやるぞ!」
(クソッ! これ以上、持ち上がらねえ!)
飛び交う野次にイテルは冷静を失っていった。意地と恥ずかしさが、様々な感情と共に頭の中で交錯する。(悔しいけど、オレには無理だ。剣を手放しちまえ。小僧らしく、笑ってごまかせば、全て終わるさ。)半ば諦めかけたイテルは、剣を置いて戻る場所、牛車の方をチラと見た。荷台の上のナルが冷ややかにこちらを見ている。
『戦争に憧れる人たちの 戦争ごっこ』
ナルの冷たい目は、イテルにこそそう告げているようだった。
『どうせ、ごっこ・・、なんでしょ?』
イテルは放しかけた両手に渾身の力を注ぎ込んだ。
「ふにゅおおおおおおおお!」
奇妙な呻きを上げ、イテルの顔はみるみる真っ赤になる。
「おいおい、断末魔か!?」
「もう止めておけ、怪我するぞ!」
イテルは諦めない。体が震えだし、全身から汗が噴き出す。・・・同時に、体を白い湯気のようなものがモノが覆いだした。
「お、おい、煙を噴いてるぞ・・・。」
「やべえな、オーバーヒートってヤツだ。」
揶揄う野次は、さすがに心配の声に変化していった。 見かねたのか、中佐と呼ばれた大男が制止に動いたその時!
「クソアアアアアアアア!」
イテルの咆哮と共に、大剣の切っ先が地面から浮き始めた。中佐を目の前に、首をもたげる蛇のようにじわりと上がり続ける。イテルの目に、驚愕する中佐の顔が映った。「おい、ウソだろ?」ザワつく野次馬たち。だが・・・。
ちょうど刀身が水平になったところで、イテルの握力は限界を迎えてしまった。イテルの手から滑り落ち、鈍い音を立て地面に転がる大剣。そして、剣を失った渾身の力は、そのままイテルを後方に向かって宙に飛ばした。もんどり打って背中から地面に倒れるイテル。体を覆っていたあの白い湯気は消えている。
「おい、生きてるか?」
心配そうな顔をした中佐が歩み寄って来るのが見えた。体中が痛い。でもイテルは地べたに肘を突きなんとか上体を起こした。中佐は、疲れて息を切らすイテルの顔をまじまじと見ている。
「おまえ、凄いな。」
中佐の手がイテルの方に伸び、イテルの手を強く握った。
「オレは、ここに駐留する大隊の一つを預かるキーンだ。オレの剣・・・、おまえが持ち上げたその剣はな、遠い東の国で伝説と呼ばれる鍛冶職人が鍛えた、この世に二つと無い剛剣。そこらで野次っていた兵士達でも、おいそれと振り回せない代物だぞ。」
キーン中佐は、ポカンと口を開けたままのイテルの腕を持ちその場に立たせ、周囲を見渡す。
「そう言えば、持ち上げたら褒美をあげたいと言っていたヤツがいたな。」
そう言って野次馬の中のひとりの兵士に近付くと、腰に下げている剣をサッと取り上げた。「あっ!」兵士は声をあげたが、もちろん上官に抵抗など出来るはずがない。
「『武士に二言は無い』という言葉を知っているか? 自らの言葉に責任を持つのが我々戦士であると心得よ。」
キーン中佐はその剣をイテルに手渡した。
「ほら、ご褒美だ。おまえは、もっと強くなる。その気があるなら、まずはその剣を振って鍛えてみるがいい。」
キーン中佐は地面に転がっている大剣をひょいと背負い軽く手を振ると、イテルの前から去ってしまった。野次馬もいつの間にか解散している。もらった剣を左手に持ち牛車に戻るイテル。荷台にちょこんと座っているナルが、珍しく神妙な顔をしていた。
「怪我は、無かったの?」
「あ、うん。凄く疲れたけど、大丈夫みたいだ。」
「そう、良かった。」
「え? ナル、もしかしてオレのことを心配してるの?」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! あんまりカッコ悪いバク宙でひっくり返ったから。・・・石頭で良かったわね。」
「大きなお世話だよ・・・。」
イテルは腰の後ろに置いた剣を振り返って見た。本物の剣・・、鋼の刀身が鈍い光を放っている。剣を見惚れるイテルをナルは見ていた。イテルの背後の荷台から、ナルがぽつりと言葉を投げかける。
「兵士に、なりたいの?」
「はっ、ま、まさかっ!」
「・・・お父さま、悲しむわよ。」
「だ・か・ら、兵士になんか、ならないって。」
「なれるかもしれないのに?」
「・・・オレは。」
帰路のはるか先、西の空にはオレンジ色の夕焼けが広がっていた。眺めていると、なんだか胸が苦しくなる。イテルは左手を額の上に翳し、眩しい太陽の光を遮った。すると、ナルの家、ガダル酒場のある街並みと、そのずっと奥の丘に建つ牛舎と我が家が姿を現す。イテルは翳した手のひらの向こうに透けて見える強烈な光をそのまま握り潰し、アシェットの街並みに真っ直ぐ視線を戻した。
「オレは、牛乳屋の息子だ。 兵士なんか、望まないさ。」
「そうなんだ。」
その言葉にナルはホッとしたが、一方で、輝きを失ったイテルの寂しそうな目が気掛かりだった。
無言のふたりを乗せ、牛車はアシェットの街並みへと消えていった。