英雄育成 12 帰還
『約束を、果たしに来た。』
銀狼の言葉を聞いた魔女の赤く潤んだ唇が、にやりと歪んだ。
銀狼もまた、にやりと歪んだ笑いを浮かべて返した。
暫くの沈黙が続き、ふたりはなお動かない。
まるで、ふたりとも、いや、ふたりが立つ空間そのものが凍り付いたように。
空間?
見上げると、雲の流れも止まっており、目を凝らすと降り注ぐ雨粒さえも止まっていた。
凍り付いたのではない。
時間が、空間が、止まったのだ。
その事実に気付いた時、既に世界はモノクロームに色を失っており、やがて黒い炎に燃やされるように闇へ呑み込まれていった・・・。
ポツリ。
フィレリアが語る500年前の世界に没入していたネイサンの頬を、一粒の冷たい雫が叩いた。
(あ、れ、雨・・・?)
どうやら現実の世界で降り始めた雨が、ネイサンの精神を物語の世界から連れ戻したらしい。
ネイサンは夢から醒めたばかりのような虚ろな目で空を見上げた。
確か、フィレリアの語り部が始まった時点では快晴で、バルコニーには爽やかな陽光が降り注いでいた気がする。 しかし今降り注いでいるのは、温かい陽射しではなく冷たい雨。 見渡す限り暗い灰色の雲ばかりで、太陽も青い空も見当たらなかった。
(やはり、ここはティノブール城か。 だけど、空はスカヴの暗い空と一緒・・・。)
ネイサンが混乱している今も雨はどんどん強くなり、いつの間にか髪と肩がびしょ濡れになってしまった。
雨に打たれて冷えた頭は、ネイサンの思考力の回復に少し貢献したらしい。 ネイサンの頭に、物語に引き込まれる前の記憶が鮮明に蘇ってきた。 記憶が途切れたのは・・・、そうだ、フィレリアの語り部が始まって、間も無くだ。
(そういえば、フィレリア様は?)
慌ててネイサンはフィレリアの姿を探した。が、慌てるまでも無く・・・。
彼女はネイサンのすぐ隣の椅子に行儀良く座っていたのだ。衣服の乱れも外傷も無く、ひとまずの無事にネイサンの口からホッと安堵の息が漏れた。
だが、顔を覗き込むと、どうも様子がおかしい。 大きく開いたままの瞳の焦点が定まっていないのだ。 どうやら彼女は、ついさっきまでの自分と同じく、未だ物語の世界に居るようだった。 近くを確認すると、テーブルを囲んで座っているネイサンとロウも同じ様子で、呆けたまま雨に打たれてずぶ濡れになっている。
(なんてこった・・・。 皆はまだ向こう側か。)
ネイサンは、頭上の雨空を仰いだ。
500年前の戦場の上に広がっていたのと良く似た、暗い灰色の空を。
(あの雨が、こっちに移動してきたみたいだ。)
ネイサンはそんな不可思議な憶測を禁じ得なかった。
「約束、を・・・?」
空を仰ぐネイサンの隣で、前触れも無くフィレリアが呟いた。
人形のように冷たい表情で。
「あ、あの、フィレリアさま、フィレリアさま? お気を確かに。」
声を掛けながら肩を軽く揺すってみても、フィレリアの瞳は虚ろなままである。
心配ではあるものの、この状態で手荒に起こすのは危険な気がするし・・・。
(これは・・・、うん、先に実験台が必要ですな。)
「許せ。」
ネイサンは、先にエーテとロウのふたりを叩き起こす事にした。
リズミカルな往復ビンタを立て続けに見舞うと、ふたりは目をパチクリさせてあっさりと目を覚ました。
女の子には優しく、野郎には容赦しないのがネイサン・レスターの信条である。
「目が醒めました?」
「・・・レスター殿? あ、あれ、雨? いつの間に!?」
当然では有るが、気を戻したばかりのエーテにはさっぱり状況が飲み込めない。
「さあ? 私も分かりませんが、ご覧のとおりです。 この雨じゃ、もう語り部どころじゃないですねえ。」
呑気に話すネイサンの髪から雨水を滴るのを見て、エーテは自分もずぶ濡れである事に気付いた。
「・・・ひとまず、建物の中に入りましょうか。」
そう言って、撤収しようとパラソルに手をかけたエーテを、ネイサンが静かに制した。
「待って。」
「?」
不思議そうに見詰めるエーテに対して、ネイサンは座ったまま動かないフィレリアを視線で指した。
「こ、これって・・・。」
「王が、まだ向こうから戻られていないんだ。」
「戻らないって、え?」
「だから、向こう側ですよ。」
「向こう側?」
エーテは雨に濡れたバルコニーをキョロキョロと見渡した。
「もー・・・。 冷静に思い出してみて。 物語の世界です。 エーテ殿もさっきまで居たでしょう?」
「物語の中に?居た? そんな!? でも、言われてみると、そんな気も・・・。」
エーテの頭に、スカヴ扇状地の戦闘の様子があたかも自分の経験のように再現される。そう、自分は、向こう側に居たらしいのだ。
「少し腑に落ちてきた感じですね。 こんな事、私も経験した事がないし、理解が追いついていませんが、私たちはいつの間にか向こう側・・・フィレリア様が語る物語の中に取り込まれていた。 そう解釈するしか無いでしょう。」
「ちょ、ちょっと待って。 うう~ん・・・。なんだか・・・。」
「悩むのは後です。 ほら、びしょ濡れの我らが王を、なんとかしないと。」
カタッ・・・。
議論をしているふたりの間にロウがすっくと立ち上がった。
ロウは、ブルブルと猫のように体を振って雨を飛ばすと、何事も無かったかのように、スタスタと広間の中に戻ってしまった。
「・・・・・・。」
ロウの後ろ姿が広間に消えるのをふたりは無言で見送るしかなかった。
やがて、思い出したようにエーテが口を開いた。
「っところで・・・。 たぶん、私たちは聞く側だからこうやって早めに戻って来れましたけど、語り部を物語の世界から連れ戻すのは、簡単では無さそうですね。」
「ええ。今でさえチンプンカンプンなのに、さらに厄介な事になりそうな。」
「ですよね・・・。」
「では、覚醒させないまま、広間に運び込むしかないでしょう。慎重にね。」
そこで、エーテが勢い良く手を上げた。
「じゃっ、私がフィレリア様を抱えて行きます。 レスター殿は、テーブルとパラソルのお片付けを。」
「あっ、そっち!? ズルいな、ぁ・・・。」
おどけて見せたネイサンの動きが、ピタリと止まった。
曇天の中を流れる、際立って黒い雲の存在に気付いたのだ。
(妙だ。)
雨の原因となっている空を埋める灰色の雲は、全て西に流れている。
が、その黒い雲だけは違う動きをしている。 目指している方向はどうやら・・・、こちらだ!
黒い雲は、灰色の雲を掻き分けるようにして接近している。 あたかも意思を持っているかのように。しかも厄介な事に、近付くに連れ、目に見えて勢いを増している。
「エーテ殿・・・。」
「ええ、ヤバいやつです。」
「急ごう!」
ふたりは揃って退避行動を開始した。
エーテがそろりとフィレリアを抱き上げ、ネイサンがテーブルのパラソルを抜き取ってフィレリアを雨から護るように翳す。
手際良く準備したふたりは、広間の入り口に向かって一気に走り出した。
判断が早かったためだろう。
黒い雲に追い付かれる事無く、三人は広間に駆け込んだ。 全身ずぶ濡れではあるが、ひとまず雨から逃れることが出来たし、得体の知れないあの雲も屋内に居れば脅威とならないだろう。
「ふうーっ・・・・。」
フィレリアを抱えたエーテが、唇を尖らせて深い安堵の息を吐き出した。
ネイサンはその後ろでパラソルを閉じ、外に向かってパタパタと振って雨水を払っている。
「エーテ殿、さ、部屋の奥へ行きましょう。」
促したが、暫くしても背後のエーテに動く気配は無い。
「ちょっと、エーテど・・・。」
振り返ったネイサンが見たエーテの背中は、明らかに強い緊張を放っている。
「・・・何のマネかな?」
努めて穏やかに、しかし威嚇を帯びたエーテの低い声が、暗い広間の奥に向かって問い掛けた。
エーテの背中越しにネイサンが広間の方を覗き込むと、暗くて良く分からないが、広間のほぼ中央辺りに人が立っているのが分かる。
右手の先に何かを握っている? チラチラと光を反射しているところを見ると、アレはおそらく剣だ!
ネイサンはすぐさまパラソルを雨のバルコニーに投げ捨て、代わりに空いた右手を左腰の剣に添えた。
それと同時に、エーテ越しに対峙する人影も直立姿勢を崩さないまま右腕を水平に上げ、切っ先をこちらに向けた。
フィレリアを狙っているのか?エーテを斬るつもりなのか?・・・分からないが、敵意が有っての行動としか考えられない。
だが護るにも攻撃するにも、フィレリアを抱えたエーテが間に立っている位置関係は、ネイサンにとっては都合が悪い。 相手が何者か分からない状況では、仮に相手の素早さが自分より勝る場合、先に間を詰められてしまう可能性があるからだ。迂回して間に入っても、斬撃を弾けるかどうか? ネイサンは剣に手を添えたまま、次の一手が出せない。
こうなると、相手の動きを瞬時に判断して反応するしかない。
剣を握るネイサンの掌に汗が滲んだ。
(どう来る?)
ネイサンに考える時間を与えず、人影はこちらに向かって一歩を踏み出した。
切っ先はこちらに向けたままである。 ネイサンはエーテの背中にヒソヒソ声で話し掛けた。
「エーテ殿・・・、フィレリア様を抱えたまま、思い切り左横に跳んで。ヤツは私が仕留めます。」
「レスター殿、違うんです。」
「・・・違うって?」
意味不明なエーテの答えにネイサンは困惑した。
が、間も無くエーテの言葉の意味が、固まって動けなくなった意味が、ネイサンも納得するところとなる。
こちらに向かって歩いて来る相手が纏っている影が、一歩一歩近づくにつれ、バルコニーから入り込む外灯りによって少しずつ剥がされてゆく。
足元から現れた姿は、黒いパンツ、白いシャツ、それらは共に濡れていて・・・
水を滴らせる顎から上には鋭い眼光を放つ隻眼、その眼に掛かって垂れる鮮やかな銀髪・・・
「まっ、まさか!?」
切っ先を向けて歩いて来る相手とは、ロウだったのだ!
いや、あの眼光、あの表情・・・。 ロウではなく銀狼将軍と呼ぶべきだろう。
「エーテ殿は気付いていたのですか!?」
「え、ええ・・・。 気付きましたが、信じられなくて・・・。」
「信じようが信じまいが、危険な相手です。 敵と考えるべきでしょう。」
「でもっ! あれはロウなんです。 ロウならば、我々を襲うはずなどありません。 何かの、間違いなんです!」
「・・・あれがロウだとしても、危険がもう目の前にまで差し迫っている事に間違いは有りません。 分かっているでしょう? アレは敵を斬る時の人の眼です。」
「でも・・・。」
「躊躇してる場合じゃありませんって!」
ふたりが言い争いしている間にも、どんどん詰まる距離。
意外な事実が判断と行動の重い足枷となって、彼等は焦燥するばかりで何も出来ない。
ゴロゴロゴロ・・・・。
雷鳴が轟いた。
ビリビリと空間が震えているところをみると、おそらく雷雲はすぐ近くなのだろう。
雷鳴を合図に、ロウ足がピタリと止まった。
両者の間の距離は、およそ10m。
ロウはスッと右足を横にずらして肩幅ほど開いて踏み直すと、水平に握った剣を静かに頭上に振り上げた。
こちらに向いた刃が反射する光が下から上へと流れ、切っ先で止まる。
(マズい!)
ロウの上体が少しだけ後方に反った次の瞬間、掲げていた腕が一気に振り下ろされた。
ビュンッ!!
ロウの振り下ろした右手が、握っていた剣を投げ飛ばした。
おそらく渾身に放たれた矢よりも遥かに速い強烈なスピードで。
両者の間の距離はたった10m。避けられるはずが無い。
ところが!
ネイサンの眼には、投げ飛ばされた剣が描く光の軌跡がスローモーションのように見えていた。
焦燥している脳が、こんなにも鮮明に攻撃を分析しているなんて?
いや、焦燥しているからこそ、見えるのか?
だが今は、そんな事なんて・・・、
「どうでもいい!!」
軌道を読んだネイサンはすぐさまエーテを肩で弾き飛ばした。
同時に、神速の速さで抜いた剣が放つ閃光が弧を描く!
光の弧の頂点で激しく火花が弾け、
チンッ!
軽い金属音を残して散ってゆく。
ロウの放った剣は軌道を変え、ネイサンに弾かれて態勢を崩したエーテの頭髪を翳めてバルコニーの方へ逸れた。
「まっ、間に合った!」
自分でも成功が信じられず、ネイサンは思わず叫んでしまった。
ネイサンの後方で、飛び去る剣が空を裂く音が遠くなっていった。
が、その時!
カッ!!!!!
(!?)
強烈な閃光が視界を潰し、ネイサンの全身の感覚が無くなった。
三半規管もやられたようで、今の自分が立っているのかすら分からない。
バリバリバリッ!!!!
間髪入れず襲った爆裂音のような激しい音を、運良く残っていた聴覚が捉えた。
しかし、その後はもう、何も聞こえない。
聴覚すら、機能しなくなったみたいだ・・・。
フィレリアは?
エーテは?
ロウは?
何が起きたのか分からないまま、真っ白な世界に包み込まれるように、ネイサンは意識を失ってしまった。




