氷の英雄
『マルダ鉱脈戦争』から500年後。
長く保っていた和平はリキュア国の一方的な侵攻により反故にされ、両国は再び戦争の渦中にあった。
リキュアからは、宣戦布告どころか、未だ侵攻の理由すら明かされていない。
不気味な沈黙を守ったまま、圧倒的な強さのリキュア軍が続々とロクナム領へ進攻。ロクナムの要所たる街や砦は瞬く間に陥落し、前線はいよいよ領土中央の王都ティノブールに迫っていた。
そのティノブールにそびえ建つ王城の地下深くに隠された地下室。
石壁に囲われた広い空間は外套をまとってなお身震いするような寒さで、佇む者の肌に水滴が出来るほど湿気を帯びた重い空気で満ちていた。壁に掛けられた数少ない松明のわずかな灯りが、ぽつりぽつりと部屋を囲うように照らしている。薄暗い闇の中央は3mほどの高さの氷塊が置かれており、氷塊の青白い光の中にはぼんやりと人のような影が揺れていた。そしてその向こう側には、十数名ほどの群衆が氷中の人体を無言のまま見上げている。その全員が地味な外套をまとい深くフードまで被っているため、どこか怪しげな密教の集会を彷彿とさせた。
静寂を破ったのは、女の声だった。喉の内で小さく震えながらも凛と通る声は、まだ若い潤いを含んでいる。
「史実を膨らませた逸話と思っている者もいると思うが。 長い銀髪に隻眼。
この氷塊の中に眠る人物こそ、あの銀狼将軍だ。」
「銀狼、将軍? あの500年前の英雄ですと?」
氷塊を前にした群衆の影が揺れ動き、どよめきが広がった。
確かに氷中の男の長い髪は銀色で、左目は黒い眼帯に覆われていた。見た目だけからすると、おそらく20代くらいの年齢だろうか?
しかし英雄を閉じ込めた氷塊の中の時間は、奇妙な状態のまま止まっている。身体はまるで前方から何かに吹き飛ばされたようにくの字に前屈させており、右目は大きく見開かれたまま。英雄の身が氷中に在る理由は、彼が望んだものでは無かったのだろうか。
「そのたった二つの特徴だけで、これが銀狼将軍と?」
黒い群衆の中にいたひとりの男が嘲笑交じりに吐き捨てた。すると、群衆は堰を切ったように否定的な意見を並べ立てていく。
「戦のさなか、しかもこの厳しい戦局で何を思案されていると思ったら・・・。失礼ながら、まったくもって馬鹿げているとしか申し上げられません。」
「救国の英雄なぞ、民の信仰を集めるため祭り上げられた偶像ですぞ。」
「彼は確かに歴史書の一部に記述こそ見られますが、真に存在していたかは疑わしいというのが良識ある大半の大人の認識です。昔話に興じる子どもならまだしも、このロクナムを治めるあなた様がかような戯言を申されるとは・・・。」
侮蔑する者、嘆く者、怒り出す者・・・。女はただただ言われっぱなしである。しかし、口をつぐんだまま目を閉じ耐えている様子を見ると、現時点で言い返す材料を彼女が持っていないのが事実のようであった。誰かが口にしたように、女が「ロクナム国を治める」立場だとすれば、彼女の求心力に疑問符を付けざるを得ないだろう。
吹き荒れる否定の嵐に背中を押されたのか、最初に噛みついた男が女の前に飛び出し、背後の氷塊を指さしながら叫んだ。
「銀狼将軍など、架空の人物です。 目をお醒ましください!」
―次の瞬間。
男が指さした先、つまり氷塊の方を源に強い冷気が群衆の間をビュウと吹き抜けた。ここは地下の密室であり、風など起きようもないのに。振り返った男は確かめるように氷塊の人物を見上げると、そのままゴクリと生唾を飲み込み表情を失った。気のせいか、その眼が自分を睨め付けるが如く光ったように見えたからだ。まるで、獲物を狙う狼の眼のように。眼光に囚われたのは彼だけでは無い。否定を叫んでいた群衆の間に緊張が走り、地下室は再び静寂に支配された。
「思ったより、若いだろう?」
女の声が問いかけると、男は伏し目がちにコクコクと頷き後ろに下がった。
たった二つの特徴が合致するだけ。しかし、伝記の時代の古い軍服を着ている事。そしてなにより、厚い氷越しにしてなおその身体から溢れ出る強者の圧力を浴びれば、
― ただ者ではない ―
誰もが肌でそう感じるに違いなかった。
氷中の強者のたった一べつで弱者たる彼らの本能は畏怖に染まり、否定していた対象が銀郎将軍であると認めざるを得なくなってしまったのだ。
女は特定の誰を見るわけでもなく、黒い群衆に問いかけた。
「で、蘇生は出来るのだろうな?」
「はい。冷凍効果で身体の保存状態は極めて良好と判断します。肉体に再び血を通わす事は、高い確率で成功するでしょう。いわゆる仮死状態なので、通常であれば蘇生と同時になんらかの反射はあるはずです。
一方で・・・、問題は精神の方です。蘇生直後はせん妄状態が続くと考えられますが、一週間ほど経過して回復の兆しが無い場合は、おそらく元通りとなる事は望めません。長い年月を超え、既に魂と肉体の縁が切れてしまったという事でしょう。」
「わかっている。 医術者としては、そこまでやってくれれば良い。
後者の可能性も考え、肉体と魂の縁をつなげる呪儀を同時に行なう手はずだ。」
「呪儀・・・ですか?」
「ああ、『召魂の呪儀』だ。 そなたも知っておろう?」
「え、ええ、聞いたことくらいは。 しかし、その、現実的な方策とはとても・・・。」
「それも承知している。 医術者の眼から見れば、なおのこと遊びのように映るだろう。
だがな、こんな気休めの儀式でも、尽くせる方策は尽くしたいのだ。 科学も、呪術も。」
女は目深く被っていたフードを脱ぎはらい、乱れた髪を首の後ろから両手で梳き上げた。燃えるような赤い髪が、肩の後ろにふわっと流れる。声から読み取れていた通り、端正ながらまだ幼さの残る若い顔立ちだった。氷に照らされたせいか顔は青白く、薄く開いた目から見下ろすように話すしぐさは、彼女の身分が高貴であることを裏付けている。
外套の内から彼女の右腕が上がり、氷塊を指さした。
「腕は、どうする?」
氷に含まれた細かい気泡でボヤけてしまっているが、よく見ると銀狼将軍の体には、肘と手首の中間あたりから先が両の腕とも無かった。刃物で切り落とされたように、いや・・・、どんなに研がれた鋭い刃でもこのようにきれいな断面は作れないだろう。どのように切り落とされたのか? いやそもそも、なぜそうなったのか?
救国の英雄が氷塊に閉じ込められた経緯も含め、理解し難い事に尽きない。
「殉職した衛兵の遺体を何体か保存してあります。そこから程よい腕を選び拝借しましょう。
断面が整っているので、血管、筋、神経・・・、全ての接合に問題は無いと考えます。」
「では、一週間後の夕刻より、氷塊を溶かす作業に入る。場所は城内中央の吹き抜けだ。まずはこの大きな氷塊をそこまで運び出す作業からだ。軍の工作部隊を使ってかまわない。並行して、医術関係者は機材設備の搬入と設置を。」
「い、一週間で・・・。」
ザワつく群衆に向け、女はその顔に似つかない低く力強い声を放った。
「時間が無い事は承知。 銀狼将軍復活のため、各々は最大限の準備をせよ。」
ザザザッという音と共に、その場にいた全ての人影が一斉に姿勢を正した。
女は外套を翻し彼らに背を向け、氷塊を仰いだ。
「・・・“お姫様の夢遊び”と陰で笑われている声は、聞こえている。
だが、もう、その子供じみた夢にすら、すがるしかないのだ。」
女は、そう呟いて唇の端を噛んだ。真白な顎を、鮮やかな朱の血筋が伝い流れた。
その血を拭う事もせず、女は右の腕を前に伸ばし氷塊の中の男の姿を掴むように宙で手を動かした。しかしその手は、ただ空しく空を握る。
女はゆっくり手を開くと、その手のひらを、じっと、ずっと、眺めていた。
女の目には、その手のひらの中に氷塊を見つけた時の記憶が映し出されている。
記憶の中の女の子は、5才くらいだろうか? 女の子は、ひとり遊びの城内探検で迷い入った深い地下の一室で、偶然、人間が閉じ込められた氷塊を見つけた。
「ひと・・・? 凍っているの? でも、なんだか、生きているみたい。」
周りながら氷塊を眺めていると、氷越しに、銀色の髪の青年の姿がゆらゆらと揺れて見えた。
彼は、今にでも動き出しそうなくらいの生気を帯びており、そして美しかった。
女の子は、しばらくうっとりと氷中の人物を眺めていた。
「ううう、寒いっ!」
ぶるぶると体を震わせると、2・3回ほどぱちぱちと瞬きをして彼女ははっと目が覚めたような顔をした。
「戻らなきゃ!」
何度か氷塊を振り返りながら、女の子は足早に部屋を後にした。
その夜。 地下の氷塊の事を両親に話すと、ふたりは笑って否定した。
「あのね、父さま、母さま。 フィレリア、今日ね、凍った男のひとを見つけたの!」
「凍った男の人・・・? いったいどこでそんなものを見たのかい?」
「んっとね、お城の地下のずっと下の方! ねえ、父さま、あのひとを氷の中から出してあげて!」
父さまの左の眉が、少し変な風に動いた。
「ははは、フィレリア。 このお城にそんなものは無いよ。」
「フィレリアったら、おかしな事を言って。 お昼寝で夢でも見たのかしら?」
「ほ、ホントに見たんだもん! お昼寝もしてないし、夢なんかじゃないもん!」
父さまは左から、母さまは右から、覆いかぶさるように幼いフィレリアに近づいてきた。
「いいえ、フィレリア。 あなたは夢を見たのよ。」
「母さまの言うとおりだ、フィレリア。」
「え、・・・え?」
「いいかい、フィレリア。 その夢の事は、父さんと母さん以外の人には絶対に話してはいけないぞ。」
「約束よ、フィレリア。」
話しかけられる度にふたりの方に交互にクルクルと顔を向けるフィレリア。しかし両斜め前から彼女を見下ろす父と母は、いままで見たこともない全く別人のこわい顔に変わっていた。
(わたし、父さまと母さまを怒らせるような悪いことをしちゃったの?)
恐怖と罪悪感でフィレリアは硬直した。 飲み込んだ言葉の代わりに、じわりと温かい涙が滲み出してくる。 父の大きな手が頭をポンポンと叩いたが、フィレリアは父の顔を見るのが怖くて、涙を溜めたまま一生懸命に床だけを見るようにしていた。
その後も、フィレリアは記憶を辿って密かに城内を探索してみた。 しかし何度探しても、あの部屋も、そこにつながる通路すら見つけることは出来なかった。
「わたしがあの人を蘇らせる。これは偶然ではなく、運命なんだ。」
フィレリアは手のひらから視線を上げると、今度はその手を記憶ごとギュッと握りしめた。
「夢遊びなんかでは、無い。」
フィレリアは自分に言い聞かせるように呟き、氷塊を背に地下室を後にした。
執務室に戻ったフィレリアは、数名の軍事参謀から戦況の報告を聞いていた。
「北部のサエードも奪われたか。 ここへの侵攻も時間の問題だな。」
「はい。 続いてロックフォートが落とされれば、前線はいよいよ王都へ迫ります。」
「ロックフォートは商業の街。 急いで軍備を増強したものの、そう長くは耐えられまい。」
「おっしゃられる通りです。 一時の足止めに過ぎないでしょう。」
「ああ。では、ロックフォートは守りに徹しろ。外壁をさらに補強し、兵器は爆雷と投石機のみ補充。
町民へは住居を放棄し早急にこのティノブールへの避難を指示、兵士も遠隔攻撃部隊を除いてティノブールへ撤収させよ。」
「はっ。」
「テスナー。すまないが、ロックフォートに入って町民撤収までの指揮を執ってくれ。」
「承知致しました。」
参謀の列に控えていたテスナー卿が、一歩前に出て頭を垂れ指令を拝受した。
「僅か4年で、ロクナムがここまで追い詰められるとはな。
開戦時には、父上も想像しておられなかっただろう。」
苦笑に口元を歪めたフィレリアに対して、声を掛けられる者は誰もいなかった。