「うるせえ。お手」
午前七時。目が覚めて、見慣れない景色が視界に広がる。
とはいえ、すぐに順応した。ベッドから降りてカーテンを開け、射し込む光に目を細める。今日は快晴だ。
着替えて洗面所へ行き、顔を洗う。
リビングを覗いたけれど、気配はなかった。彼はまだ寝ているんだろうか。
以前なら、五時には起きて諸々の支度をしていた。学校が始まればもう少し起床時間が早くなるのかもしれない。
しばらくはテレビをつけて天気予報やニュースに耳を傾けていたけれど、一向に彼の姿が見えない。
私はひとまず、朝食の準備を始めることにした。
「今日は和食にしようかな」
味噌汁は家庭によってかなり趣向が異なるけれど、これからは作り手の私が法律だ。
具材は無難に豆腐とわかめ。温まったら、白味噌を溶かして完成。
白米は醤油、みりん、だしのもと、ごま油を加えてしっかり混ぜてから三角に握った。それを熱したフライパンで焼いていく。
キッチンに香ばしい匂いが充満して、肺いっぱいに吸い込めば自然と腹の虫が鳴った。
ほうれん草と卵を炒めていたところで、不意にドアの開く音が耳に入る。
「あ、おはようございます」
私の挨拶に、彼は一瞬驚いたようにも見えた。
その顔は寝起きといえど、流石イケメン。少し人相が悪い程度で済んでいる。
「……おはよう。早いな」
「そうですか? もう八時ですよ」
「こんなに早く起きたのは久しぶりだ」
「ええ……」
八時は大半の人が活動を始める時間帯だと思うけれど。
しかしよく見てみると、彼の目の下には隈ができていた。
「……昨日、ちゃんと眠れなかったんですか?」
「いや、寝た」
「でも隈が……」
「ああ……まあ、五時に寝たからな」
「五時!?」
驚きすぎて手元が狂った。慌てて視線をフライパンに戻し、立て直す。
「何でそんな時間まで起きてたんですか?」
「いつも大体それくらいだ」
生活リズムが狂ってらっしゃる……。昼夜逆転そのものだ。
とりあえずそれはおいておくとして、もしかすると私の物音で起こしてしまったのだろうか。だとしたら申し訳ない。
「すみません、騒がしくして。起こしちゃいましたね」
「いや、目が覚めた。……いい匂いがして」
すん、と空気を吸い込むようにして鼻を鳴らした彼が、興味深そうにこちらを注視していた。
「ああ、焼きおにぎりの匂いですかね。もうできるので、顔洗ってきて下さい」
起きてすぐはテンションが低いのか、彼は私の言葉に大人しく頷いて洗面所へ消える。
それを見届けて、私は食卓の準備を再開した。
「朝方まで毎日何してるんですか?」
眠そうに目を瞬かせながらおにぎりを頬張る鈴木さんに、そう問いかけてみる。
刹那、彼は唐突に声を上げた。
「これうまいな」
「良かったです。おにぎりが味濃いぶん他は薄めに作ってあるので、ちゃんと全部食べて下さいね」
コンビニの濃い味付けに慣れ切った彼の舌は、焼きおにぎりをお気に召したらしい。
黙々と口に詰め込む様子がリスのように思えて、少し微笑ましかった。
何だかまた話が噛み合っていない。というより、話をそらされている気がする。
「……鈴木さんが何やってるかはどうでもいいんですけど、」
「地球の調査報告を火星に送信していてな。これが結構時間がかかるんだ」
「でもそれ、絶対にその時間にやらなきゃいけないんですか?」
動じない、突っ込まない。真面目に取り合っていたら日が暮れる。
私の質問に、彼は若干不服そうに黙り込んだ。
「早い時間に始めて、夜はしっかり寝ませんか。早起きは気持ちいいですよ」
「俺は昼の穏やかな空気が好きだ」
「じゃあ私は朝一人で食事をとることになるんですね。分かりました」
わざとらしく「一人」を強調して、ジト目で彼を見つめる。
するとどういうわけか、彼は箸を置いて、両手で自身の頬を思い切り引っ張った。べ、と舌を出してきたので、流石に面食らう。
「……何ですかその顔」
「にらめっこじゃないのか?」
「違います。勝手に拡大解釈しないで下さい」
「悪い、華が変顔していたからてっきり」
「誰が! どこが! 変顔ですか!」
仮にも花の女子高生にもなろう私に、失礼すぎやしないだろうか。
いちいち怒っていたら本当にきりがない。朝から余計なことにエネルギーを使ってしまった。
それはともかく、彼の生活習慣を正すのは優先して行うべきだ。
同居において何がストレスになるか。人間関係、味の好み、役割分担等々。様々あるけれど、生活リズムの違いが少なからず影響を及ぼしてくると思う。
彼の体のことを考えても、やはり食から睡眠から、直していった方がいいだろう。
「鈴木さん、明日から朝は私とジョギングしませんか」
朝の新鮮な空気を吸えば、彼だって少しは考えを改めてくれるかもしれない。それに、体を動かせば夜は自然な疲労感で眠りやすいはず。
「運動は苦手だ」
「ジョギングなんて運動に入りませんよ。ウォーキングでもいいですから」
渋い顔で視線を逸らす彼に、拳を握って説得する。
納得したとは言い難いけれど、私のしつこさに折れたのか、「分かった」と彼は眉根を寄せた。
***
「鈴木さん! 朝です! あーさー!」
「……分かったから、ちょっとボリューム落としてくれ」
「嫌です。今にも寝そうじゃないですか」
翌日、午前七時。彼の部屋のドアを開けて声を張る。
既に身支度を終えた私は、先程からベッドをなかなか出ない同居人と格闘していた。
「十秒以内に部屋から出てこないと、今日の夕飯はにんじんのグラッセだけにします」
「待たせた。行こうか」
なんという態度の変わりよう。にんじんは偉大だ、と感謝しつつ、いつか食べられるようになって欲しいと思った。
気候は徐々に温かくなってきたものの、朝の空気はひんやりと涼しく、彼も私もウィンドブレーカーを羽織って出発する。
「どうですか。朝の空気、おいしいですよね」
「ああ」
「最初はしんどいかもしれないですけど、慣れたらきっと楽しいですよ。ちょっと走ってみます?」
「ああ」
「……鈴木さん、寝ないで下さい」
単調な相槌を訝しんで隣を見れば、案の定、焦点の定まっていない瞳が閉じかかっていた。
ゆさゆさと肩を揺らして目を覚まさせたところで、半ば強引に彼の腕を引く。
「ほら、行きますよ! 足動かして!」
ジョギングというより、最早これでは大型犬の散歩だ。
そんなことを思いながら緩く走っていた時、向かいから一人の女性が歩いてくるのが見えた。こちらは本当に犬の散歩をしている。
「あら? 鈴木さんとこの息子さん?」
すれ違う間際、女性が立ち止まって振り向いた。
反応が遅れた私とは対照的に、鈴木さんが突如足を止めたものだから、彼の腕を掴んでいた私は後ろに転びそうになった。
「伊集院さん、おはようございます」
姿勢を正して丁寧に会釈をした鈴木さんに、思わず目を見開く。
今の今まで重たそうな瞼が支配していた瞳はぱっちり二重が健在で、人当たりの良い笑顔を浮かべた好青年がそこにはいた。
「おはよう。こんなに早くに珍しいわね」
「ああ……ちょっと、ジョギングを始めたんです」
「へえ、それはいいわね」
女性の方は、私の母よりも少し年齢が上といったところだろうか。
会話を続ける二人はなんてことない光景のはずなのに、私には非常に珍しいものとして映った。
鈴木さんが私以外の人と話しているのを見るのは初めてで、何だか変な感じがする。
というかこの人、外面良すぎじゃない? 私と話してる時とは大違いだし、最早人格が変わっている。
「最近お父さん見かけないけど……元気?」
え、と自分の口から声が出そうになって、慌てて息を呑んだ。
つと鈴木さんの様子を窺う。彼の表情が明らかに強張ったのが分かった。
「……ええ、元気です。お気遣いありがとうございます。それじゃあ、失礼しますね」
やや早口で言い放った彼が走り出す。
混乱のさなかにいた私はそれを咄嗟に追いかけることができず、数秒立ち尽くした。
彼の背中をぼんやりと見つめる女性に軽く会釈をして去ろうとした瞬間、横から声が掛かる。
「ごめんなさいね、お邪魔してしまって」
「あ、いえ……えっと、」
言葉に詰まった私を見かねてか、彼女は簡素に述べた。
「私は鈴木さんと同じマンションに住んでいて……というより、お隣さんなのよ」
「そうなんですね……」
全く知らなかった。それもそのはず、彼が私としか話していないのと同様、私だって彼としか関わっていなかったのだ。
引っ越しだったらご近所さんに挨拶回りを、という発想になるけれど、私の場合は引っ越しとも何とも言えないし、お隣さんという概念が頭から抜け落ちていた。
「実は私、母の仕事の都合でこないだから鈴木さんのお世話になっていて……」
私からもそう切り出すと、彼女は「まあ、そうだったの」と口元を手で押さえる。
「はい。半年間なので、秋にはまた戻るんですけど……お隣、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくね。今度煮物でも良かったら作って持って行くわ」
「ほ、本当ですか……! 助かります、ありがとうございます!」
色白の彼女は、私の返答に品の良い笑みをたたえて頷いた。
そして細めていた目をゆっくり開くと、こちらを見据えて問いかけてくる。
「ということは、今は二人で住んでいるってことになるのかしら?」
「え? ああ、はい……」
「そう……」
何か意味ありげに目を伏せた彼女に、気持ちがざわついた。
『最近お父さん見かけないけど……元気?』
きっとそこに起因している。それは分かっていた。
だけれど私は聞くわけにいかなくて、なぜかというと、彼が頑なに自身のことを話したがらないからだ。
「あの子ね、前まではお父さんと住んでたんだけど……」
彼女がぽつりと呟く。
その瞳には僅かに、好奇心が宿っていた。人の噂をするときの、悪気のない色だ。
でも――
「ハナコ!」
突然、空気を裂くような呼び声が耳朶を打った。
反応するより先に、頭にずしっと重みを感じて、視線は下に向く。
「伊集院さん、すいません。うちの犬、そろそろ連れて帰りますね」
「え、犬……?」
「じゃ、失礼します」
頭上で勝手に進められていく会話。
頭に置かれた手はそのまま乱暴に私の腕を掴んで、まるでリードを引っ張るかのように私を先行した。
見上げた彼の表情は硬く、耐え切れずに顔を背ける。
「……誰が犬ですか」
手始めに軽口を叩いた。通常運転への戻り方が分からずに、そうするしかなかったのだ。
「うるせえ。お手」
「教えられてないですよ、そんな芸」
意外と普通にやり取りが再開できそうだと思ったけれど、やはりどこか憂う部分があるのだろうか。彼は私の言葉に、更に乗っかってくることはなかった。
私は彼のことを何も知らない。最初はそれが不安だった。
でも今はちょっと違う。むしろ、知らない方が――彼が真面目な顔で考え込んでいない方が、安心できるような気がするのだ。
「伊集院さん、おかずのお裾分けしてくれるそうです」
「は?」
「さっきは、ずっとそのことを話してました」
私は何も聞いてない。聞かない。彼が望むのなら、無干渉な同居人を半年間やってのける。
密かに忍ばせた意図は、果たして届いただろうか。それは断言できないけれど、彼が僅かに目尻を和らげたから、きっと伝わったんだと思う。
***
確かに、まあ、もしかしたらそうなのかもしれないなとは思っていた。
四月の一週目。いよいよ学校が始まる。
鈴木さんは当たり前と言えば当たり前だけれど、高校生だ。それでも学ランを着て部屋から出てきた彼を見て、衝撃を受けてしまった。
説得と習慣づけの成果が出たのか、彼はほぼ私と同時刻に起床するようになり、加えてジョギングにハマったらしい。毎朝家の近くを軽く走るのが彼のモーニングルーティンになった。
彼が学校へ行くと言ったその日一日、私は一人で買い物へ行ったり、家の周辺を歩いて駅までの道を確認したりして過ごした。
その翌日が入学式で、セーラー服を着た私とは対照的に、今度は彼が休みだった。登校してから知ったけれど、私の高校でも在校生はその日休みだったから、公立高校はどこもそうなのかもしれない。
そう、だから、まさか。
「何でついてくるんですか」
お弁当を作って朝食をとり、彼と揃って家を出たその日。
隣で肩を並べる彼に、私は嫌な予感がしつつもそう投げかけた。
「何がだ」
「いや、鈴木さんの高校もこの電車使っていくんですか?」
「そうだな」
もしかしたらそうかもしれない。
いやでも、学ランなんて、ありふれてるし。入学式の日程とか、公立は大して変わらないだろうし。
「一応確認なんですけど、鈴木さんどこで降りるんですか?」
「なんだ? 昨日は一人でちゃんと行ってただろ。この次の駅だぞ」
「あああ……」
確定。彼と私は同じ高校だ。
膝から崩れ落ちそうになった私に、彼は呑気な声で「どうした」と問うてくる。
「どうもこうもないです、学校同じならそう言って下さいよ!」
「言っただろ」
「言ってないです、一言も!」
電車内、控えめな声量で精一杯抗議した。
彼は私を一瞥すると、険しい顔で口を開く。
「……言ったぞ」
「何ですかその間は」
「いま火星人の権限を持ってお前の記憶を改ざんしておいた」
「急に実力行使してこないで下さい」
参った。家はおろか、学校も一緒だなんて。
学年が違うのがせめてもの救いだ。こんな頭のネジがぶっ飛んだ人と四六時中いるようでは、とてもじゃないが身がもたない。
「まあそんなに照れなくてもいいぞ。嬉しいのは十分伝わった」
「どこをどう見たら照れてるように見えるんですか」
花の高校生活は、早くも先行きが不安だ。