「すみません、この茶番いつまで続きます?」
「山田華です。半年間お世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」
リビングの片付けや掃除が終わり、私たちはダイニングテーブルで向き合っていた。
食事をとって休んだおかげか、鈴木さんは僅かながらに頬の赤みを取り戻している。
思えば、彼があまりにも自然に私の名前を呼ぶものだから、名乗るのをすっかり忘れていたのだ。
そうでなくともやはりきちんと自己紹介はしておくべきだろう、と思い至って、こうして姿勢を正している。
「俺は鈴木一太、火星人だ。よろしく」
「まだそのネタ引き摺るんですか」
さっきまで散々語っていたというのに、よくやるなあと半ば呆れた。
「ええと、私は四月から木原丘高校に通うことになっていて……」
だからこそ春休み中に体制を整えようとしていたのだけれど、まさか初っ端からこんな波乱があるとは。
とはいえ入学まであと一週間ちょっと。ようやく新しい生活を始められそうだ。
「ああ、それは聞いてる。ここから電車で一本だから、十五分もかからずに着くぞ」
「そうですか。良かった」
私のことについては、やはり母から情報を得ていたそうだ。
名前を知っていたのも、私と彼が古くからの縁があったわけでも何でもなく、純粋に母から聞いたらしい。
「……あの、鈴木さんっておいくつなんですか」
次はこっちが聞き出す番だ。
結局のところ、彼について分かっている情報は今のところ名前だけ。これから一緒に暮らしていくには、謎が多すぎる。
彼は緩慢に腕を組むと、小首を傾げた。
「いくつに見える?」
「めんどくさ……」
「何だ、何か聞こえたな」
「十七とかですか?」
出会って間もないけれど、この人とまともにやり合ってはいけないことは既に体感済みだ。
しれっと予想をぶつけた私に、彼は口角を上げる。
「惜しいな。正解は十六」
「えっ、私の一個上ですか?」
「いかにも。先輩は敬えよ」
どうしよう、この世で一番敬いたくないかもしれない。
しかし年齢を知ったことで彼への興味は俄然沸いた。自分と一つしか年が変わらないのに、こうも色々と違うものなのか。
私は身を乗り出して質問を重ねる。
「いつから一人暮らししてるんですか?」
「そうだな。あれは確か百六十四年前、俺が地球へやって来た時――」
「鈴木さん十六歳なんですよね?」
食いついた私に、彼は視線だけで咎めてくる。
いや、だったらもうちょっと矛盾点のない設定にして欲しい。
咳払い一つして、彼は「ともかく」と話の流れを変えた。都合が悪くなったんだろう。
「これから暮らしていくにあたって、決めておきたいことがある」
同居におけるルール、だろうか。明確に定めるのは私としても賛成だ。
鈴木さんは人差し指を立てると、私の顔をじっと見つめて言い放った。
「家計については華に一任する」
「は、」
「食材は勿論、必要なものがあれば何でも好きに買って構わない。遠慮はするな」
遠慮、とかいう問題ではなくて。
この人はちゃんと理解しているんだろうか。自分の財布を赤の他人に握らせる、そんなことを提案しているのだ。
「いや――流石に無理ですよ。住まわせてもらっている分際で」
「分際も何もないだろ。ここがお前の家なんだから」
「それは……でも……」
彼の言葉の真意が分からないわけではなかったけれど、いきなり「我が家だ」とふんぞり返ることなんてできない。それとも、そんなに図々しい人間だと思われたんだろうか。
「華。いいか、考えてみろ。これから暮らしていく中で、料理をするのは誰だ」
「え? まあ、私、ですかね……」
彼は家事がてんでだめ。となれば、必然的に私が担うことになるのは想像に易い。
「そうだ。となると、毎日冷蔵庫の中身を確認して献立を考えるのは? 誰だ?」
「私、ですね」
「そうだろ。だったら買い物に行って、使うものを使うだけ買うのも華の方がいいよな?」
「まあ、そうですけど……」
あれ? もしかしなくてもこの人、めんどくさいだけでは?
だって、食事をとるのも忘れたり、栄養ドリンクで済ませちゃうような人だ。食に関して無頓着すぎる。
「……分かりました。それに関しては私が責任持って行います。その代わり、」
人様の財布を任されるんだ。鈴木さんがどれだけお金持ちなのか何なのかは知らないけれど、とりあえず節約に努めよう。
今までも家事はやってきたから、世の中の主婦並みに金銭感覚は身についている。
「私が出したご飯は絶対にきちんと食べて下さい。朝昼晩、三食しっかりとって……それから、栄養ドリンクは禁止です」
そんな堕落した食生活とはおさらばだ。今はまだ大丈夫かもしれないけれど、後でガタが来る。
「分かった。……提案なんだが」
「何でしょう?」
「野菜は少なめだと助かる」
「却下です」
ぴしゃりと跳ねのけた私に、彼が口を尖らせる。……ガキか。いや、ガキだった。
ここまでとんとん拍子で進んでいた話に、ふと疑問が浮かんだ。
ただそれを聞いていいのか、悪いのか。聞かない方がいいとは思いながらも、やはり今後のためには聞かざるを得ない。
「鈴木さん。あの、……答えられる範囲で構わないんですけど」
「何だ?」
「……お金は、その、どうやって……」
一人暮らしというからには、親の仕送りに助けられている場合がほとんどだ。それにプラスしてアルバイトで生活費を稼いだり――ともかく、財源についての不透明さが私の不安を掻き立てていた。
彼が数秒口を噤む。やがてその唇が動いた。
「まあそんなに気にすることないぞ。その都度必要な金額さえ言ってもらえれば、俺が下ろしてくる」
……聞くなって、ことか。
少しの後悔が胸の奥を蝕む。やはり彼は、自分自身のことについて私に詳しく説明する気はないようだ。
私としても、これ以上は踏み込めないなと肌で感じた。
「りょーかいです。私からも提案いいですか?」
金銭面での懸念はひとまずなくなったということにしておいて。
「ルールを決めたいです。これから暮らす上で、絶対に守るルール」
さほど重要性を感じていないのか、彼は曖昧に頷く。
私は先程の彼のように人差し指をピッと立て、強気に口を開いた。
「一つ。お互いの部屋には立ち入らないこと」
「華、まさか……」
「何ですか」
はっとした表情で息を呑んだ彼に、思わず眉根を寄せる。
そして次の瞬間、彼は勢い良く立ち上がって大声を上げた。
「お前も火星人だったのか!?」
「鈴木さん、うるさいです」
「そうか……いや、隠さなくてもいいんだ。俺は分かってるから。向こうから持ってきた思い出の品を荷物に忍ばせてあるんだろう? 長い旅路だったな」
「すみません、この茶番いつまで続きます?」
生憎、ボストンバッグの中には怪しげな隕石や食料は何一つ入っていない。
適度に無視するのが吉だ、と学習しつつある私は、構わず続けた。
「二つ、食事は一緒にとること」
彼のことだ。放っておいたら平気で食事を抜いてしまうだろう。仮にご飯を用意して置いておいても、子供のように野菜を避けて食べるかもしれない。
見張るという意味も兼ねて、食事は一緒にとるべきだ。
「それから、あとは……思いついたらその都度、付け加えましょう」
「待った」
話を結ぼうとしたところで、彼が口を挟む。
その長い指を三本立て、穏やかな表情で提言した。
「三つ。帰ってきたら、『ただいま』と言うこと」
一瞬、訳が分からなかった。
目を見張る私に、彼はこう付け足す。
「今日からここは、俺と華の家だ」
多分、人の機微が分からない人では、ないのだと思う。
どこか窮屈だった私の心を開け放つように、彼は快活に述べた。
「ソファで寝っ転がってもいいし、料理しながら歌ってもいい。風呂上がりにパンツ一丁でうろついてもいいんだ」
「いや、最後のはどうかと思うんですが」
「気を遣って風呂場のドアに鍵かけなくても大丈夫だからな!」
「出てけ変態――――――!」
前言撤回だ、全く。
かくして私たちの不安要素満載の同居生活は、幕を開けた。
***
「鈴木さん、いいですって。それより私、調理器具の方を見たいんですけど」
「いや、あのままじゃ駄目だろ。遠慮すんなって」
「いいですよ、どうせ半年なんですから」
やかましく言い合う午後二時、ホームセンターにて。
買い物へ行こう、と言い出したのは意外にも彼の方だった。
私の部屋が殺風景なのを見かねて、カーペットを替えるだの、カーテンを新調するだの、出費を厭わない様子だ。
私といえば、そんなことより今日からでも使えるキッチン用品の方が重要である。
「昨日掃除はしましたし、替えなくても十分綺麗ですよ」
「じゃあ、そうだ。服とかはいいのか? それ以外に欲しいものとか――」
「服は持ってきたもので事足ります。そうですね、後は……あ、お弁当箱買ってもいいですか?」
制服や鞄、小物。その他必要になりそうなものは、母が発つ前に一通り準備済みだ。
彼の家には二人分どころか三人分の食器類があって、それについても購入の必要はなさそうだった。
唯一思いついたものを述べると、彼は即座に首を縦に振る。
「ええと、すみません、水筒も買いたいです」
「ああ、買おう。これでいいか?」
「私いつからスポーツ選手になったんですっけ?」
指さされた二リットルの大容量水筒を見て、思わずまともに取り合ってしまった。
大人しく五百ミリリットルのものを買い物かごに放り込んだところで、ふと気が付いて声を上げる。
「鈴木さんは、何か買わなくていいんですか?」
「弁当箱か?」
「いや、それに限らずとも」
「そうだな……華が毎朝弁当を作ってくれるというなら俺も弁当箱を買おうと思うんだが……」
会話が噛み合わない。
というか確かに、今頃思い至ったけれど、自分の分だけ作るというのも妙な話だ。どうせこの人は昼もコンビニ頼りだったに違いない。
「一人分も二人分も大して変わりませんし、いいですよ」
頷いて見上げると、虚を突かれたような表情で固まる彼と目が合った。
「何ですか」
「愛妻弁当……?」
「殴りますよ」
油断も隙もない。はあ、とわざとらしくため息をついてみせる。
それから私の要望通りキッチン用品もいくつか購入し、家路についた。
「今日はちょっと疲れたのでカレーにしようと思うんですけど、いいですか?」
「にんじんは入れないでもらえると有難い」
「みじん切りにするので大丈夫ですよ」
本当に、どこまで不摂生な生活をしていたんだろう。
昨日の晩、新しい家で初めてきちんと料理をした。といっても冷凍うどんを茹でて、卵でとじただけだったけれど。
今日の朝はフレンチトーストとウィンナー、それからコールスローサラダ。彼は野菜全般あまり得意ではないらしく、渋い顔でサラダを口に運んでいた。
家に着いて早々、私は夕飯の準備に取り掛かる。
彼はといえば、昨日とは打って変わってすっかり元気を取り戻し、今朝から「何か手伝うか?」と私の周りをうろついていた。
……は、いいものの。
とにかく何をするにしても危なっかしい。そして目が離せない。そんなわけで、私は彼に「家事遂行禁止命令」を出していた。
「わ、いい匂い」
ルーを煮込んでいたところで、炊飯器がご飯の炊きあがりを教えてくれた。あけた途端、ふわりと湯気が舞って頬を掠める。私はこの匂いが好きだ。
ここへ来てから初めて炊いたお米。何だか、いよいよ本格的に暮らすんだなあ、と実感がわく。
「それにしても綺麗だなあ……」
食器棚をまじまじと観察しながら、感嘆してしまう。
余程使われていないのか。なんというか、生活感がまるでない。
縁をエメラルドグリーンでぐるりと囲われたデザインの、大きめの深皿。今日はそれに盛り付けようと決めたところで、私は顔を上げた。
リビングに彼の姿はなく、ただ鍋を火にかけている音が静かに響き渡るばかりだった。
自分の部屋にいるんだろうか。
そう見当をつけて、私は彼の部屋のドアをノックした。
「鈴木さん、もうそろそろご飯できますよ」
返答はない。更にもう一度呼び掛けてみる。
「にんじんちゃんと刻みましたから、大丈夫ですよー」
いつもはいちょう切りで投入していたものを、今日はわざわざ小さく刻んでルーに混ぜ込んだ。物凄く手間というわけでもなかったけれど、ちょっとだけ面倒だったから、次からは普通に入れようと思う。
「鈴木さーん?」
一向に聞こえてこない返事。
私は耳をぴたりとドアにくっつけてみた。中から僅かながら物音はする。どうやらここにいるのは間違いないようだ。
「鈴木さん、開けますねー」
一応断りを入れてからドアを引くと、机に向かっている彼の姿が目に映る。
手元が動いているから、寝てはいないはずだ。だとすると。
『どうも昔から癖が抜けなくてな。何かやり始めると、終わるまでそれ以外のことを放り出してしまう』
彼の言葉には一切の偽りがなかったということか。いや、別に疑っていたわけではなかったけれど。
それにしたってすごい集中力だ。周りの音を遮断してしまうくらいの、のめり込みよう。
なるほど、確かにこれは厄介。自分一人ではなかなか戻って来られないんだ。
仕方ないな、と一歩踏み出そうとした時、昨日の自分の言葉を思い出した。
『一つ。お互いの部屋には立ち入らないこと』
そうだった。自ら設定しておいて、開始一日で破るわけにはいかない。
さてどうしよう、と首を捻った。
リビングをなんとはなしに見回して、一つ方法を思いつく。
電話の横にあるメモ帳を一枚破って、ペンを取った。端的に文章を書き記してから、それを折っていく。
あれ、どうだったっけ。これで合ってるかな。一人でぶつぶつ零しながら、何とかそれらしい形になった。
「えいっ」
彼の方へ向けて、すい、と放り投げる。
軌道は真っ直ぐとはいえなかったけれど、それでもしっかり届いた。
机の上に突如着陸した飛行機を視界に入れたのか、彼は手を止めて頭を上げる。それを手に取ってしばし固まった後で、こちらを振り返った。
「鈴木さん、ご飯ですよ!」
ようやく私の声が耳に届いたらしい。彼は目を見開いて、呆けたように私を見つめる。
「華――」
「にんじん嫌だからって、残したら駄目ですからね! ほら、早くして下さい」
彼が立ち上がったのを目視してから、私はキッチンへと戻った。
炊き立てのご飯。カレールーの隠し味は味噌。ほんのり和の匂いがして、無性に落ち着くのだ。
「いただきます」
二人揃ってテーブルにつき、手を合わせる。
先程から彼がやけに静かで、何だか気味が悪い――といったら怒られるかもしれないけれど。
「どうですか?」
沈黙に耐え切れず、私は自分から切り出した。
彼は小刻みに何度も頷いて、柔和に微笑む。
「……うまい」
「火星で食べたよりも、ですか?」
何となく、元気がないなと思った。彼がしおらしいだけで、こちらが戸惑ってしまう。
だからというべきか。私は彼の代わりに、食卓にユーモアを足そうとそんな質問を投げた。
「いや、」
彼は首を振る。
そして私の顔を見据えると、
「火星にカレーはなかったから――このカレーは宇宙一、だな」
馬鹿真面目にそう言って、嬉しそうに笑った。