「ハナコ、待て!」
料理は全くしていなかったのか、リビングが荒れきっている割にキッチンは綺麗だった。
戸棚や収納を覗いて調理器具を拝借し、お湯を沸かす。
「鈴木さん、だしのもと的なのあります? 顆粒でも液体でもいいんですけど」
リビングのど真ん中で倒れていた彼をひとまずソファに寝かせ、コップに汲んだ水を差し出した。
「だし? いや……」
「ですよねえ、分かりました」
ざっと見た限り、基本的な調味料は揃っているものの、ほとんど使った痕跡がない。鍋や食器も然り。
彼がキッチンに立たない人間であることは、容易に想像できた。
「冷蔵庫開けても大丈夫ですか?」
「いいけど……何も、入ってないぞ」
彼の言う通り、中には何も入っていなかった。本当に、何も。
補足するのなら、恐らく賞味期限切れであろうエナジードリンクが数本。これは酷い。
余計な荷物だなと思ったけれど、買い物帰りにそのまま来て良かった。
温まってきたお湯に塩、醤油、みりんを加えて、味を調整する。買ってきた白菜、椎茸を切ってから投入し、沸騰させずに火を通してから木綿豆腐も突っ込んだ。
「……いい匂い、だな」
少し大きめの底の深い器に盛りつけて持って行くと、彼が鼻を動かす。
「全然大したものじゃないですけど……とりあえず、どうぞ」
倒れるくらいだ。随分と長い間空腹状態だったんだろう。急に食べても差し支えないように、なるべく胃に優しいものを作った。
「いただきます」
やっぱり、そこはちゃんとしている。
彼は両手を合わせてからスプーンを持って、ゆっくりと口に運んだ。
その目が微かに見開かれる。
「……お口に合わなかったです?」
一応料理は得意な方だと自負しているけれど、母以外に振舞ったことはほとんどない。今更ながら不安になった。
しかし彼は静かに首を振ると、気の抜けたような笑みを浮かべる。
「いや、……うまい。けど、」
「けど?」
何だろう。思わず身を乗り出して続きを待ってしまう。
「かなり薄くないか?」
「……は、」
「醤油持ってきてもらえるか。ちょっと味気ない」
「はあ――――――!?」
この期に及んで駄目出し!? 人がせっかく親切にしてあげたのに!?
そりゃあ味の好みは人それぞれかもしれないけど、わざわざ言わなくてもいいじゃない。それに、今は特別薄く作ったんですけど!
「あーはいはいすいませんでした、もう食べなくていいです!」
「ちょ、待て、まだ食ってる」
「うるさい! 人が作ったモンに文句言うなぁ――――!」
やんややんやと散々言い合って、それでも結局彼は出汁まで全て飲み干した。
「ごちそうさま」
「……お粗末様でした」
彼が再び手を合わせたのを横目で確認し、私は立ち上がる。
「じゃあ私、帰ります」
元々覚悟を決めて来たはずなのに、彼の態度に腹が立って白けてしまった。やっぱりこんな人と暮らすのは御免だ。
金銭面の問題もあるからそう長くは好き勝手できないけれど、あと数日は距離を置きたい。今は非常に苛々している。
「食材は全部冷蔵庫の中に入れておいたので、腐らせないうちにちゃんと使い切って下さい。では」
「華」
「……何ですか」
まだ何か文句をつけたいことがあるのだろうか。
露骨に嫌な顔を作って振り返ると、彼はソファから降り、床に膝をついているところだった。
「頼む。俺と暮らしてくれないか」
私はこの人の真剣な表情が苦手だ。
ふざけて言ってくれればこっちだって気楽に返事ができるのに、そんな真面目に話されると、ちゃんと耳を傾けなければいけない気がして。
「嫌です」
「頼む。この通りだ」
と、彼が両手をついて頭を下げ始めたものだから、流石にその様子を凝視して固まってしまった。
土下座。土下座だ。
最近までやっていたドラマで上司に土下座をさせるシーンがあったけれど、まさか現実に自分がされるとは思わなかった。
「ちょっと……やめて下さい、顔上げて下さいよ」
「上げたら俺と暮らしてくれるのか?」
「それは嫌ですけど」
何でそこまでして私と住みたいんだ。本当に意味が分からない。
ため息一つ。肩を竦め、私は彼の頭上から語り掛ける。
「鈴木さんは、どうしてそんなに私と暮らしたいんですか。母に頼まれたからですか?」
少年というにまだ相応しい年齢の男の子に、土下座をさせるほど使命感のある母の頼み。一体二人がどういった類の「知り合い」なのか、ますます謎が深まるばかりだ。
彼は僅かに顔を浮かせると、口を開く。
「冷蔵庫の中のもの、俺じゃ使い切れないんだ」
「……は?」
唐突に切り出された話題に、遠慮会釈なく声を上げた。
そんな私の様子を気に留めることなく、彼は続ける。
「見ての通り、俺は家事ができない。料理も、掃除も、全くできない」
「はあ……」
「だから、お前が使ってくれないと、食材が無駄になる」
何の話をし出したのかと思えば。彼は私が買ってきた食材のことを気にかけていたのか。
自分から「一緒に暮らしてくれ」と頼んでおいて、話のすり替えもいいところだ。
「それは……まあ、分かりました。じゃあ私が持って帰ればいいですか?」
そういうことだろう。別に土下座したまま話すことでもないと思うけれど。
しかし私の提案に、彼は頷かなかった。
「ここで、使って欲しい」
「はい?」
「ここで、俺に料理を作ってくれないか」
なるほどそう来たか、と唇を噛んだ。
正直、さっきあれほど文句を言われて素直に了承するのは癪に障る。
逸らした視線の先に、散らかったリビングの光景が映った。
家事ができない。それは事実なのだろう。流石にこのレベルの汚部屋は、なかなか生成できるものではないと思うけれど。
「逆に聞きますけど、今まで食事はどうしてたんですか。まさか、三食全部コンビニじゃないですよね」
いくら苦手だ、できない、といったって、人間絶対に食事はとらなければならない。
それに彼は一人暮らしだと言っていたし、ある程度どうにかしてきたということだろう。
「そうだな。まあ確かに三食とることはほとんどないから、三食全部コンビニっていうのは言い当て妙か」
「え?」
「栄養ドリンクにも大分助けられてな。ほら、冷蔵庫に入ってたろ、エナジードリンク」
違う。そこは威張るところじゃない。俺しか知らない処世術、みたいな感じで披露するのをやめて欲しい。
「えーと……つまりは、コンビニのお世話になっていたというわけですね」
「ああ。めちゃくちゃ感謝している」
「脱線に脱線を重ねないで下さい」
はあ、と本日何度目かのため息をついて、頭を垂れた。
彼と会話をする度に「何なんだこの人」という感想がグレードアップしていく。
話をまとめると、彼は一人暮らしを始めてからまともな食事をとっていないということになる。
三食コンビニ飯は間違いなく体に悪いと思っていたが、それの格上がいたとは。三食とっていない? 栄養ドリンク? 一周回って何かの健康法だろうか。
「そういうわけで、お前が諸々使ってくれないと、俺は絶対に腐らせる」
ようやく本題の一歩手前に戻ってきたらしい。
食材を無駄にするのは私としても避けたいところだ。持って帰ると言っても聞かないだろうし、ここで使う、というのが建設的な答えなんだろう。
「華が来てくれて助かった。あのまま死んでいたかもしれない」
「縁起でもないこと言わないで下さい。……大体、倒れるまで食べないって馬鹿なんですか」
死、という単語を聞いて少し動揺した。
横たわる彼の体を見つけた時、本当に肝が冷えたのだ。
「どうも昔から癖が抜けなくてな。何かやり始めると、終わるまでそれ以外のことを放り出してしまう」
そう零した彼の声色が、ほんの少し弱々しい。
つくづく不思議で掴みどころのない人だ。ある意味で、誰か一人にここまで気を取られるのは初めてだった。
目を伏せた彼に掛ける適切な言葉が見つからず、私は背を向けて緩慢に歩き出した。
「華。頼む、待っ――」
「荷物取ってくるだけです」
後ろで彼が逡巡しているような気配を感じる。
「全部あっちに置いてきちゃったので。取りに戻って、また帰ってきます」
どっちみち、遅かれ早かれ。彼と暮らすことになるのは決定事項だ。それが母の望んだこと。
「流石に、死なれるのはまずいので」
今はただ、それだけの理由で割り切ろうと思う。
「改めまして、今日からお世話になります」
二時間後。宣言通りマンションへ戻ってきた私は、ボストンバッグを抱えたまま頭を下げた。
そんな私をソファに座り込んだまま見上げる彼の表情は、すっかり呆けている。
「何ですか。そんな阿保面して」
「いや、本当に戻ってくると……思わなくて」
確かに彼も頑なだったけれど、私も負けず劣らず頑固だった。
とはいえあんなに強気な態度だったくせに、突然大人しくされると調子が狂う。
「言っときますけど、死なれたら困るだけですからね。家事はきちんとやります。私のことは家政婦とでも思って下さい」
どんな事情であれ、私がこの家に住まわせてもらうということには変わりない。
ただ居座るだけだったら頭が上がらないけれど、家事を担うという交換条件のようなもので、私は彼に強気でいられるのだ。
「何言ってんだ。一緒に暮らす以上、俺とお前は家族で――」
「とりあえず部屋片付けますね」
彼の言葉をぶった切って、私は言い放った。
こんな状態の部屋にいつまでもいるだなんて耐えられない。早急に手をつけなければ。
「掃除機は流石にありますよね? 掃除用具とかってどこにしまってますか?」
しゃ、とカーテンを開いて、窓を開ける。優しい風が室内に入り込んできて、新鮮な空気に深呼吸をした。
「ああ……掃除機は確かあっちで、」
「いいです、動かないで下さい。まだ全快じゃないでしょう」
廊下の方を指さして立ち上がろうとした彼に、手で制してから踵を返す。
「こっちですか?」
「ああ、その奥の方に……」
「あ、ここです?」
廊下を進んで左側。ドアノブに手をかけ、僅かに回した時だった。
「待て!!」
物凄い剣幕で声が飛んできたかと思えば、廊下を全力疾走してきた彼が私の腕を勢い任せに掴んだ。
びっくり、なんてもんじゃない。心臓が止まるかと思った。恐る恐る彼に顔を向けると、
「ハナコ、待て!」
「犬扱いやめて下さいって」
「良い子だ。伏せ」
「……殴っていいです?」
私の手を潔く離した彼が、ドアの目の前に立ち塞がる。険しい表情そのままに、両腕を広げて首を振った。
「ここは、駄目だ」
「といいますと?」
「立ち入り禁止だ。絶対に開けるな」
「どうしてですか?」
「何でもだ」
どうやら禁忌の扉らしい。
見られて困るものがあるのか、はたまたリビング同様、異常に荒れているのか。理由は分からないけれど、そこまで言われてしまうと気になる。
「散らかってるなら片付けますよ?」
「いい。散らかってない。死ぬほど片付いてる」
それもそれで胡散臭い。まあでも、家主が駄目というなら素直に従うのが吉だ。
分かりました、と大人しく頷いた私に、彼は話を変える。
「ああ、そうだ。お前の部屋はこっち」
「えっ」
たった今、開かずの間と認定された部屋の向かい。廊下を挟んだそこが、私の部屋、らしい。
まさか自分の空間を与えてもらえるとは思っていなかった。そもそも半年間だし、生活の端っこにお邪魔するくらいで十分なのに。
先程とは打って変わってあっさりドアを開けた彼に促されて、私はその部屋に足を踏み入れた。
「え、あの……こんなちゃんとしたお部屋、いいんですか?」
「どうせ空いてたしな。好きに使ってくれ」
彼の言う通り、そこは「空いていた」のだろう。
クローゼット、ベッド、デスク。必要最小限の家具は置かれていたものの、殺風景で簡素な空間だった。
「あれ? そういえば……」
玄関から入ってきてまず見えるのが、開かずの間と私の部屋。
廊下を真っ直ぐ突っ切れば、開けたリビングがお目見えする。その左手、リビングのすぐそばにあるもう一つの部屋が、彼のものだろうか。
「鈴木さんって、一人暮らしなんですよね?」
「ああ」
何を当たり前のことを、といった顔で見下ろしてくる彼に、ますます私の首の角度は曲がる。
「一人暮らしなのに……どうして、」
どうして、3LDKなのか。
疑問が脳内に浮かび上がった。それを口に出すのは何となく憚られて、中途半端に黙り込む。
普通に考えて、一人暮らしなら1Rや1K、せいぜい1LDKが妥当だろう。それなのに、彼が住んでいるのは3LDK。私が母と住んでいたアパートよりも新しいであろう、綺麗なマンション。
「いえ、何でもないです。お部屋ありがとうございます」
詮索は良くない、やめよう。色々事情があるのかもしれないし、仮にも赤の他人から「同居人」に成り上がったからといって、余計に首を突っ込むのは無粋だ。
「……実は、」
珍しく曇った表情。彼は私の呑み込んだ疑問に答えようとしてくれているのだろうか。
「や、いいですよ。無理して言わなくても」
何だか重苦しい空気にしてしまった。少し申し訳なくなってくる。
よくよく考えればちょっと失礼だったかな、と私は手を振って彼の言葉を押しとどめた。
「違う、聞いてくれ」
「え?」
物々しい声で私の注意を引いた彼が、再び腕を掴んでくる。
一体どんな内容を切り出すのか、言いにくいことを言わせようとしてしまったのか。焦燥と心配が胸の奥を掠めた。
「実は――俺は、火星人で」
「…………はあ?」
「地球人の火星移住計画を知ってるか。俺はその計画を手助けしている一人でな」
正気か、こいつは。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。呆れ返って声も出ない私の肩を揺らし、彼はつらつらと意味の分からないプランを語っている。
「この部屋には、その計画の関係書類が保管されている。機密事項だ。一部の関係者にしか閲覧が許されていない」
「あー、はい。そうでしたか」
彼のくだらないジョークに、まともに付き合う義理はない。適当に頷いていると、一層激しく肩を揺さぶられた。
「だから華、すまん。いくら家族とはいえ、お前にも見せるわけにはいかないんだ!」
「誰がですか。火星人と家族だなんて勘弁して下さい」
早まったかなあ、色々。
異星人の世迷い言を聞き流しながら、私は胸中で愚痴を零す他なかった。