「食べながら喋らないで下さい」
「食べたら帰って下さいよ」
冷蔵庫が空っぽだったため、近くのコンビニで夕飯を調達してきた。私はミートソーススパゲティで、彼はカツ丼。
昨日まで母と囲んでいたダイニングテーブルに、今日会ったばかりの人と二人。
彼は意外にも「いただきます」としっかり手を合わせてから、米粒をかき込み始めた。
「はへへんへえほ」
「食べながら喋らないで下さい」
行儀がいいのやら悪いのやら。
私の指摘に、彼は口に詰め込んだものをしっかり飲み込んでから、再度断言した。
「帰んねえよ」
「ええ……」
「ドン引きすんな」
いや、だって。このまま朝まで居座るつもりなんだろうか。それはすごく困る。
「言ったろ、今日はこっちで寝るって。そんで、明日は俺の家に帰るぞ」
さも当然の如く宣う彼に、私は遠慮なく顔をしかめた。
ここで彼と夜を越すのも嫌だし、彼の家に行くのも嫌だ。どっちにしたって二人きりになるのは避けられないらしい。
「あのですね。ちょっといいですか」
言うだけ言ってカツ丼に夢中になっていた彼に、私は挙手まで行って意見発表を始める。
「そもそも、男女が二人で暮らすっておかしいと思いませんか。夫婦や恋人ならともかく、私たち赤の他人なんですよ」
一体何をそこまで躍起になっているのかは知らないけれど、彼は執拗に私を連れ戻そうとする。
いくら母の知り合いとはいえ、私と彼は初対面だ。女の子同士なら頷ける。でも彼は男の子で、私たちは他人。
個人的に、第一印象最悪な男の人と二人で生活するなんて、絶対に嫌だ。
ガキに興味はない、なんて抜かしていたものの、何をされるか分かったもんじゃない。
「赤の他人?」
顔を上げ、彼が片眉をつり上げた。
「そうですよ。あなただってよく知らない人と二人で暮らすなんて、不安じゃないんですか」
そこまで言ってから、彼の名前を今の今まで知らずに過ごしていたことに気が付く。
神妙な顔で黙り込む彼に、私は訝しみながらも問いかけた。
「あの、名前教えてもらってもいいです?」
彼は私の質問には答えず、静かに箸を置いた。
また、真剣な顔。真っ直ぐ私を射抜く瞳が、少しだけ揺れている。
「……覚えてないか?」
「え?」
「俺のこと、覚えてないんだな」
そう紡いだ薄い唇が、自嘲気味に弧を描く。
どういう、こと。
途端に心臓の奥がひやりと冷たくなった。
『早くしろ、華』
そうだ、名前。彼は私の名前を知っていた。
以前、私たちはどこかで会ったことがあるんだろうか。私が忘れてしまっているだけで、何か大切な――
「……というのは冗談で、」
「はっ?」
「俺は鈴木一太だ。よろしく、ハナコ」
「え、待っ……『ハナコ』?」
というか冗談って。あり得ない、こんなに不安になったのに。
「何ですかそれ! 私ほんとに大事なこと忘れちゃったのかと思って……!」
「んな興奮するなって。ほらハナコ、お座り」
「犬扱いやめて下さい!」
腹立たしいことこの上ない。一瞬でも騙されたのが馬鹿らしいではないか。
怒った。もう怒った。絶っ対に、何が何でも帰ってもらう。
「今から十秒以内に帰って下さい。十、九、」
「随分唐突だな。はー、うまかった」
「五、四、三、二、一。……通報します」
こっちは冗談ではない。本気だ。
スマホを取り出して、画面が彼に見えるように掲げる。一を二回タップしたところで、ようやく彼は腰を浮かせた。
「――馬鹿! 何やってんだ!」
が、と力強く腕を掴まれる。
その拍子に画面に指が当たって、三桁の電話番号が入力された。
――ピ、ピ、ピ、ポーン。
『午後六時二十三分、四十秒をお知らせします』
「時報かよ――――――!」
彼が八つ当たりのように叫ぶ。
ピ、ピ、と規則的に音を刻む通話を終了し履歴を確認すると、どうやら「117」にかけてしまったようだ。
「あー、ビビった。……お前なぁ、」
「帰って下さい」
ため息交じりに私を詰ろうとした彼の言葉を遮り、毅然と言い放つ。
「断る。お前は今日から俺と暮らすんだよ。お前の母さんに頼まれてんだからな」
どうして。やっぱりお母さんは、この人と私が二人で住むことに何も疑問を持たないんだ。しかも頼まれたって。
「お前も意地張ってないで、早く飯食えよ。やること山ほどあんだから」
「……帰って」
「あ?」
「帰って下さい! 帰って!」
お願いだから一人にしてよ。もう今日は疲れたんだよ。
お母さんはアメリカに行っちゃうし、荷物が重くて大変だったし、目の前の人とはまともな会話できないし。
ちゃんと「良い子」になるから。それまでまだ待って。今は放っておいて。
「……華」
宥めるような声色。
これじゃあ私が駄々をこねて、我儘を言っているみたいだ。何で。違うのに。
だって、何にも知らない人と二人、これから半年もやっていかなきゃいけないと思うとしんどすぎる。
「分かった」
ぽつりと、彼が零した。
「俺は帰る。戸締りはちゃんとしろよ。……それと、」
金属の擦れる音がする。
テーブルの上に置かれたのは、ピンクの花のストラップが付いた鍵だった。
「俺の家の合鍵。気持ちの整理ついたら、戻って来い」
じゃあな、と彼が背を向ける。
そちらにはあえて視線を寄越さず、私はテーブル上の鍵をただひたすらに眺めた。
「……華、おやすみ」
最後にそんな挨拶を添えて、彼は去って行った。
***
母と連絡が取れたのは翌日の昼のことだった。
軽く部屋の掃除をしていると電話がかかってきて、私は慌ててスマホの画面をタップした。
「もしもし、お母さん?」
「華、ごめんね。昨日電話くれてたみたいだけど、出られなくて」
ううん、と短く返してから、一日ぶりに聞いた母の声に少し安心する。
昨日の夜、なかなか寝付けなくてアメリカについて色々調べていた。
飛行機で十二時間、時差は十四時間。大きなビルと、夜でもまばゆく街を照らすネオン。まさに別世界だ。
「無事に着いたんだね、良かった」
「そうね。久しぶりの飛行機だったからちょっと疲れちゃった」
向こうはもう夜らしい。さっきまで寝てたから眠くない、と母が笑った。
「そっちはどう? 大丈夫?」
「あ、」
母の問いかけに、私はようやく本題を思い出す。
電話越しだから姿は見えないのに、思わず拳を握って声を張った。
「そうだよ、それで昨日電話かけたの! ねえお母さん、あの人と知り合いって本当?」
「一太くんのこと? そうね、知り合いよ」
「何で男の人と二人で暮らさなきゃいけないの? おかしくない? おかしいよね?」
ここで主張しなければ負ける。
年頃の男女を一緒に住まわせて、どうしてそんなに抵抗がないんだろう。アメリカでは普通だったりするんだろうか。いや、ここは日本なんだからグローバルな基準を持ち込まれても困る。
「まあそんなこと言わないで。仲良くしてくれたら嬉しいわ」
「いやいやいや、お母さん、私たった一人の娘だよ? 大事な一人娘だよ? 危機感って知ってる?」
「華が一人で暮らすより、一太くんといた方が安心だと思うけどねえ」
駄目だ、全く私の意見が通りそうにない。
確かに自分一人で暮らすのはなかなか危険だとは思う。思うけれど、彼と二人で暮らすのも危険だ。
「まさかとは思うけど、華」
「な、何?」
「いまアパートに帰ってきてたりしないわよね?」
ぎく、と分かりやすく体が強張った。
途端に黙り込んだ私に、母が「あのねえ」とため息交じりに叱る。
「今すぐ一太くんのところに戻りなさい。女の子が一人で暮らすなんて、本当に危ないのよ。何かあった後じゃ遅いんだから」
「わ――分かってるよ。でも、」
「でももだっても聞きません。いい? お母さんは華が心配なの。お願いだから、一太くんと一緒にいて」
本当に心配なら、娘の貞操も気にかけて欲しい。と、流石にそれは口に出せなかった。
自分が強情な自覚はある。
うんともすんとも言わずにいると、通話口から柔らかい声色が聞こえた。
「……大丈夫。あの子はきっと、華に大事なことを教えてくれるから」
「え?」
「じゃあそろそろ切るわね。おやすみ……じゃなかった、またね」
母の言葉を消化しきれずに戸惑う。ぼんやりしているうちに通話は途切れて、不通音が虚しく響いた。
ゆっくりと腕を下ろしながら、通話が終了した画面を見つめる。
「大事なことって……」
そんな曖昧な言い方をされても。むしろ大事なものを奪われそうな気しかしないんだけど。
その日は結局戻る気になんてなれなかったし、次の日も、そのまた次の日も。
テーブルの上、まるで置き忘れたかのように鎮座している合鍵に見て見ぬふりをして、私は質素に過ごした。
***
どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。
数日ぶりにスーパーへやって来て、買い物を終えた後だった。買った食材を袋に詰めながら思案するのは、自分の財布の中身について。
母と別れた日に渡されたのは、一万円札一枚。
本来彼の家に行くまでの交通費があれば事足りたはずで、何かあったら困るから、とかなり多めに持たせてくれたのだ。
つまりこのままでは、半年はおろか一か月ももたない。
非常に現実的かつ生々しい理由だけれど、そろそろ潮時だ。
きっとこのままアパートへ帰れば、またしばらく外出しないだろう。そう思った私は、意を決して駅へ向かった。
「はあ~……」
そしてやっぱり、後悔している。
電車から降りてマンションまで来たはいいものの、近付くにつれて憂鬱は増すばかりだ。
勢いで来てしまったせいで、買い物袋は持っているのに荷物はないという不可思議な状況。
前回と同様、階段を選択するなどというヘマはせず、エレベーターに乗って三階までやって来た。
手前から五番目のドア。三〇五号室。
ポケットに手を突っ込んで、目当てのものを探す。それを固く握り締めながら、恐々とインターホンを押した。
返事は、ない。
またか、と思わず息を吐く。仕方なく二回目を鳴らしても、最初の日のように足音が聞こえてくることもなかった。
出掛けているんだろうか。だとしたらタイミングが悪い。
「……いいや、」
もういいや。むしろ、顔合わせる方が気まずいし。
ポケットから合鍵を出して、勝手に解錠する。ドアを細く開けて中を覗き込んだけれど、薄暗くてよく見えなかった。
「す、鈴木さーん……」
少々呼び方に迷って、近所の人みたいな声掛けになってしまう。
相変わらず中から物音はしない。
「鈴木さん、入りますよ」
ぱたん、とドアが閉まったのを確認して、私は家の中に立ち入った。
カーテンを閉め切っているのか、中は本当に暗かった。それなのに電気もついていない。
真っ直ぐ廊下を進んでいくとリビングに着く。瞬間、目の前に広がる光景に目を見開いた。
床一面を覆う物、物、物。
衣類だったり本だったり、とにかくそこら中に散らばっている。初めて入った日に見た簡素ながらも綺麗なリビングはなくて、荒れ果てた部屋へと成り下がっていた。
「何、これ……」
空気もどこか淀んでいる気がする。
とりあえずカーテンと窓を開けて換気をしよう、と視線を横に投げた時だった。
「――鈴木さん?」
物が溢れる床の上に横たわっている、細長い胴体。
ざ、と全身から血の気が引いて、そこに駆け寄った。
「鈴木さん、大丈夫ですか!? 鈴木さん!」
「……う、」
大声で呼びながら肩を叩くと、彼が苦しそうに呻く。
最悪の事態が頭によぎっていたため、呼吸をしていることに少しだけ安堵した。
「どうしたんですか? 何があったんですか? あ、とりあえず救急車……」
今度こそ、冗談でも何でもなく通報案件だ。それも被害者は彼。
僅かに震える手を叱咤し、スマホを操作する。そんな私の動きを止めるように、彼の手が伸びてきた。
「は、……った」
「え? 何ですか?」
断片的に聞こえたか細い声に、耳を傾ける。
「……腹、減った……」
「……………………はい?」
「腹減って、死、ぬ……」
うっ、と再び呻いた彼が、腹部を押さえて縮こまる。
その様子を見下ろしながら自分の中で何かがわき上がり、耐え切れなかった私は。
「紛らわしいわ馬鹿たれ――――――!」