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「お前、エナジードリンク飲める?」

 


 三階なら別に階段でもいっか。

 エレベーターを待つ時間が惜しくてそう判断した数分前の自分に、早くも文句を垂れたくなる。


 失敗だ、大失敗。衣類やら何やらぱんぱんに詰め込んだボストンバッグを抱え直しながら、ため息をついた。


 クリーム色の綺麗なマンション。三階の三〇五号室。

 今日からそこが私の住み家になるらしい。らしい、というか、決定事項なんだけども。


 大荷物を抱えながら階段を上ってくるのは、なかなかに堪えた。いくら春先といえども、じんわり汗をかいてしまう。

 その額の汗を拭って、今一度盛大なため息をつく。なぜって、目的の場所に着いてしまったから。


 305、と金字で書かれてあるのを確認して、私はインターホンを押した。



「……あれ?」



 反応がない。

 不安になって部屋番号を見ても間違えていないし、私が来るのは今日だ、と母がきちんと伝えてくれていたはずなんだけれど。


 もう一度呼び鈴を鳴らして、尚も無反応なドアに戸惑っていた時だった。


 中からどたどたと足音が聞こえる。かちゃ、と内側の施錠が外れる音がして、ドアが開いた。



「あ、」



 顔を出したのは、私と同い年ぐらいだろうか。焦げ茶色の柔らかそうな髪が印象的な、男の子だった。


 息子さんがいるとは聞いていなかったな、と驚きつつも、私はとにかく挨拶をしようと頭を下げる。



「初めまして。今日からお世話になりま――」


「やあ、俺の可愛い小鳥ちゃん。待ってたよ」



 斜め四十五度、腰を折ったまま固まる。

 少し上から降ってきた声で再生されたのは、四十五度どころか、百八十度見当違いなセリフだった。



「すみません部屋間違えました」


「待て待て待て、待てって」



 反射的に踵を返した私の背中に追い縋る、低めなトーン。

 ぐん、とパーカーの裾を引っ張られて、危うく転びそうになった。



「何するんですか! 警察呼びますよ!」


「出会って数秒で人を不審者扱いするな!」



 誰のせいだ、誰の。

 不機嫌をあえて隠さず、態度と表情に押し出す。


 目の前の彼は気まずそうに眉根を寄せると、ドアを広く開けて壁際に身を寄せた。



「とりあえず上がれよ。ほら、荷物」


「…………お邪魔します」


「片手にスマホ構えんな。いつでも通報できる態勢作んな」



 だから、あなたのせいでしょって。

 胸中で悪態をつきながら、臨戦態勢で玄関に足を踏み入れる。


 ここが三〇五号室じゃなければ救われたのだけども、彼の反応を見る限り、そんなことはなさそうだ。


 靴を脱いで揃えてから、再度「お邪魔します」と軽く頭を下げる。

 そんな私の声を背中で聞いていた彼が、振り返って首を傾げた。



「お邪魔しますって……今日からここで暮らすんだぞ、お前」


「そう、ですね」



 いやだからって、いきなり我が物顔でなんて入っていけない。礼儀正しく、きちんとするべきところはきちんとしたいのだ。



「荷物それだけか? 少ねぇな」



 フローリングの廊下。

 彼に黙ってついていっていると、キッチンを通り過ぎて、少し広めのリビングが現れた。大きい窓からたっぷりと光が射し込んでいる。



「はい、一応……最小限に抑えてきたので」



 頷いた私に、「そこら辺に置いとけ」と彼は端的に言い放った。そろそろ腕が限界だったので、有難くそうさせてもらう。



「まあとりあえず座れよ。疲れただろ」


「……ありがとうございます」



 シンプルな木目調のダイニングテーブルを勧められ、素直に従った。

 キッチンへ向かった彼はといえば、「うわ、何もねえわ」と声を上げる。



「お前、エナジードリンク飲める?」



 奥の方からそんな質問が飛んできた。

 何もないって、まさか飲み物のことだったのか。それにしたってもうちょっとマシな提案があるだろう。



「本当に何もないんですね」


「うるせえ、客人が文句言うな」


「今日から私ここに住むんです」


「あー、そうだったな」



 不毛なやり取りを終え、結局彼は缶を二つ持ってこちらへやって来た。そのうちの一つを私に差し向けると、自らは既に開けてあった缶を勢いよく煽る。



「何か不味くね? ……あ、賞味期限過ぎてるわ」



 缶の底面を覗き込んでそう呟いた彼に、私はプルタブを開けるのをやめた。

 代わりに両手を膝の上で揃え、背筋を伸ばす。



「あの」


「どうした? 飲まねえの?」


「逆にどうして飲めるんですかこの状況で」



 さっきのは独り言のつもりだったのかもしれないけれど、私にはちゃんと聞こえていた。流石に初日からお腹を下すのは御免だ。


 そうじゃなくて、と前置いて、私は問いかける。



「ご家族の方は今お出かけですか?」



 家の中には彼以外の気配が見当たらない。

 しっかり挨拶はしておきたかったけれど、買い物にでも行っているんだろうか。



「いや、いないけど」


「そうですか。じゃあ帰ってきたら挨拶を……」


「だから、いないって」



 念を押すような口調。

 やや荒々しく缶をテーブルに置いた彼の言葉に、私は首を捻った。



「仰っている意味がよく分からないんですが……」


「There is no one in this house.」


「いや言語の種類の問題ではなくて」



 無駄に発音いいのは何なんだ、一体。

 彼と話していると疲れる。そういった意味でも、早く誰か帰ってきてくれないかと切に願い始めていた。


 困惑しきる私をよそに、彼は手を組んで言う。



「ここには俺以外住んでない」



 じ、と見据えてくる、くっきり二重のアーモンドアイ。

 やけに真剣な表情を見て、ようやく彼の顔立ちが酷く整っていることへ意識が向いた。


 ……それよりも今この人、なんて?



「ええと――私の耳が正常なら、ここにはあなた以外いないと聞こえたんですけど」


「だから、そう言った」


「いやいやいや、ちょっと待って下さい」



 身振り手振り、全力で否定しにかかる。



「私は、母の知り合いのお家にお世話になるということで、ここに来たんです」



 そう。だからてっきり、母と同世代の女の人がいるものだと勝手に思っていた。

 目の前の彼はその人の子供なんだろうな、と自然に考えてしまう程には、先入観に囚われていたのだ。



「おう。だから、」



 彼が自身の顔を指さす。



「その『知り合い』っていうのが、俺」



 ちょっと、本当に、色々待って欲しい。


 そもそもこの人は誰なんだ。どういう繋がり方をすれば、私と同い年の男子と母が「知り合い」になるのだろう。

 まあそこは百歩譲っていいとしても――



「……本当にここ、あなた以外いないんですか?」


「何回言わせんだよ。だからそうだっつってんだろ」



 少々呆れたように息を吐いた彼に、私は椅子から立ち上がる。



「帰ります」


「待て待て待て、待てって」



 傍らに置いてあったボストンバッグを持ち上げ、足早に数歩進んだところで、後ろからパーカーのフードを掴まれた。



「変態! 不審者! 離さないと通報しますよ!」


「分かったから落ち着けって」


「誰のせいですか!」



 彼の手を振り払って距離を取る。

 私としたことが。やっぱり家に上がるんじゃなかった、直感でやばいと思った奴は絶対に危ない。



「そもそも帰るって言うけど、お前の家ここだからな」


「違います、何かの間違いだったんです」


「こんなイケメンと住めるんだったら間違いでも何でもいいだろ」


「寄るな自意識過剰男――――!」



 本当に何なんだ。この人も、この状況も。


 母は本気で、私をこんな変態と住まわせようとしていたんだろうか。

 スマホの連絡先の一番上。ダメ元で電話を掛けたけれど繋がらなかった。きっと移動中なんだろう。


 母と別れたのはほんの数時間前。

 私は新しい住居へ、母は空港へ。不安げな表情で私を見つめる母を安心させたくて、笑ってみせたのが最後。


 私のことは気にしないで。向こうで上手くやってね。

 そんなメッセージのつもりだったのに、いま早くも撤回したい。……お母さん、とにかく電話に出て。せめて説明して。



「私は絶対に、あなたとは暮らしません! さようなら!」



 彼の顔を見ず、一方的に叫び倒す。

 荷物を抱えて玄関へ走った私を、後ろから追いかける足音はなかった。







 元来た道を、こんなに早い段階で辿る羽目になるとは。

 電車を乗り継ぎ、駅から出て見慣れた街並みを眺めながら、憂鬱になる。



『そもそも帰るって言うけど、お前の家ここだからな』



 彼はそう言ったけれど、私の家はここだ。

 少し古いアパート。狭くても母と二人、細々と平穏に暮らしていた。



(はな)、あのね。相談なんだけど』



 いつもの如く仕事から帰宅した母が、キッチンで夕飯の支度をする私にそう切り出したのは、五か月ほど前のことだ。

 その声に覇気がなくて、少し胸がざわついた。



『……私がアメリカへ行くってなったら、どうする?』


『え?』


『実は今日、会社から打診があってね。来年の四月から半年、行かないかって……言われて』



 彼女が優秀な人材なのは知っていた。

 もともと母は以前、アメリカで仕事の経験があったらしい。その影響もあってか、家には洋書や英字新聞が溢れかえっていた。



『どうするって……』



 そんなの、私にはどうにもしようがない。

 突然言われて全く実感がわかないというのも勿論そうだけれど、それより何より。



『お母さんは、行きたいんじゃないの?』



 そのはずなのだ。

 小さい頃から、仕事を頑張る母は私の憧れだった。かっこ良くて快活な、自慢の母。


 アメリカで出来た友人の話。注文すると食べ切れない程の量が出てきたレストランの話。向こうでの出来事を話すときの母はいつも楽しそうで。

 その語り口から私は、普段滅多に見せない力の抜けた母の姿を探したものだ。



『……でも、華は今年受験でしょ? 大事な時期だし、本当は家事だって私がやらなきゃいけないくらいなのに、』


『お母さん』



 自身を責め立てるような色が混じり始めた母に、私はコンロの火を止めて顔を上げた。



『約束したよね。お母さんが仕事頑張る代わりに、家のことは私がちゃんとやるって』



 小学生の頃、母と交わした約束。

 新しく始まった二人の生活の拠点はまさしくこのアパートで、私たちは役割分担をして今日までやってきた。



『せっかくお母さんのことを必要としてくれてるんだから、行かなきゃもったいないよ』


『華……』


『それに、私を理由に断るとか、絶対嫌』



 母のお荷物にはなりたくない。いつまでもおんぶにだっこのままじゃいられない。



『食べよ。食べてから、ちゃんと考えようよ』



 沈んだ空気を振り切るように言うと、母も頷いて僅かに頬を緩めた。


 それから数か月。母のアメリカ行きが正式に決まって、私の受験も終わった頃。



『華。私が向こうに行ってる間のことなんだけど』


『うん』


『私の知り合いがね、華のことみてくれるって』



 正直、家事は一通りできるし、一人で生活するのも不可能ではない。

 でも母は「女の子の一人暮らしなんて危ないから絶対に駄目」と険しい顔で諭してきた。それは一理あるから、素直にその「知り合い」の方にお世話になるつもりだったんだけれど。



「……はあ」



 結局、戻ってきてしまった。いやでも、私は悪くないと思う。


 そもそも、月に一度は部屋の掃除も兼ねて定期的に様子を見に来る予定だった。半年後、母と滞りなくここで再開できるように。


 だから私の家は断じて、あの変態野郎の住むマンションではない。この年季の入った、アパートだ。


 とにかく母には後で改めて事実確認を行うことにして、今日は――いや、あんな風に出てきてしまったのだから、これからはここで。半年間、一人で何とかやっていくしか――。



「おいこら、勝手にふらふらすんじゃねえ」



 背後から投げかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。

 まさか。そうは思っても、少し前に聞いたものと全く同じトーンだ。


 振り返りたくない私は、無視を決め込んで歩を進めた。



「お前だよお前。お前に言ってんの、チビ助」



 またフードを引っ張られる。

 ぐえ、と思わず情けない音が自分の喉から漏れて、後ろを睨めつけた。



「……小鳥ちゃんじゃなかったんですか、私は」


「既に黒歴史になりかけてるから忘れてくれ」



 出会って開口一番、そっちが言ったくせに。

 むくれる私の手から荷物を奪い取ると、彼は踵を返した。



「ほら、帰るぞ」


「帰りません」


「ガキみたいなこと言うな」


「うるさい変態」


「どさくさに紛れて普通に罵ってんじゃねえよ」



 はあ、とこれ見よがしに深々とため息をついた彼が、「行くぞ」と歩き出す。



「行きません」


「お前な、いい加減に――」


「ここが、私の家です」



 拳を握り締める。喉の奥がぎゅっと狭くなって、慌てて俯いた。



「……私の、家なんです」



 心配性だね、なんてお母さんには笑い飛ばしたけれど。そんな不安そうな顔しないで、って手を振ったけれど。

 心配も不安も、本当は私の方がずっとずっと大きかった。


 新しく出会う人と上手く馴染めなかったらどうしよう。アメリカの方が楽しいからって、お母さんがそのまま帰ってこなかったらどうしよう。

 いくつもどうしようどうしようって、そればっかりで。ちっともワクワクなんてしない。


 行かないで、なんて。言えるわけなかった。

 お母さんがどれだけ頑張ってきたのか。一番知っているはずなのに、心の底から「いってらっしゃい」って言えなかった自分が嫌い。


 必死に唇を噛んで地面を見つめていると、突然頭の上に重みを感じた。



「じゃあ今日はこっちで寝るか」



 ぽんぽん、と数回叩かれた頭。

 存外穏やかな声色に顔を上げると、彼と目が合う。



「ふはっ、お前……泣き顔ぶっさいくだなあ」



 何なんだ、この人。人の顔見て笑うって、どういう神経なんだ。



「ほら行くぞって。部屋何号室だよ」


「……何かあったらすぐ通報しますから」


「ガキに興味ないから安心しろ」



 さっきからガキガキ言うけど、自分だって大して変わらないじゃない。

 むっとして眉根を寄せた私に、彼は立ち止まって振り返る。



「早くしろ、華」


「え――」



 どうして、名前。

 そう問うより先に首根っこを掴まれ、私は半ば引き摺られる形でアパートへ向かうこととなった。



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