【13】ある少年の好きなもの
クリフォード・アンダーソンは、昔から自発性に欠けている少年だった。
感情の起伏に乏しく、好きなものも嫌いなものもない。特にやりたいことも、やりたくないこともない。
だから、勉強をしろと言われれば黙々と勉強したし、母にサロンへ付き添えと言われたら、それに従った。
クリフォードの母は砂漠の王国シェザリアの民で、黒檀のような黒髪と神秘的な目を持つ美しい女だ。着飾るのが大好きで、毎日のように全身を飾り立てては、サロンに顔を出していた。
母は外出する際に、いつもクリフォードを同行させた。
そういう時、母は自身の服に合わせた衣装を幼いクリフォードに着せて、こう言い聞かせるのだ。
『良いこと、クリフォード。決して他の子ども達のように騒いだりしないでちょうだい。お人形のように上品に、静かに、お行儀良く、母様のそばに控えているのよ』
母がクリフォードを連れて行くのは、自分によく似た容姿の息子を見せびらかすため。
母にとって、クリフォードは己を引き立てるためのアクセサリーだ。
アクセサリーは、余計なことを言ったり、動き回ったりしない。
だからクリフォードは余計なことは一切せず、いつも母のそばに控えて、人形のようにじっとしていた。
──まぁ、なんて美しい目なのかしら。虹彩が虹色なのね!
──お母様そっくり。なんて可愛らしい子かしら。まるでお人形のよう!
──そのドレスシャツはお母様とお揃いなのね。素敵!
サロンを訪れた貴婦人達が口々に褒めちぎる度に、母は自尊心を満たされた顔で美しく微笑み、クリフォードの髪を撫でた。
『えぇ、自慢の息子ですの』
クリフォードは、サロン以外の場所で母に褒められたことがない。
ある日、クリフォードは母に連れられて、懇意にしているコレット家の茶会に参加した。
茶会には参加者が複数人いて、誰もが服飾関係者だった。つまりは目利きばかりなので、母の気合の入りようは凄まじく、クリフォードはスカーフの皺一つまでうるさく口出しをされ、言われるがままに母の用意した服を身につけた。
そんな自分の在り方に、クリフォードは疑問を持ったことがない。だって、物心ついた頃から「そういうもの」だったのだ。
自発性に欠けるクリフォードには、好きも嫌いもない。
自我を持たない人形は、与えられた物をただ受け取るだけだ。
その日のクリフォードはフリルたっぷりのドレスシャツを着せられていた。ふんわりと大きなリボンタイは、まるで女の子の衣装のようだった。どれも、母の服に生地や意匠を合わせた物だ。
そうして母を引き立てる人形として、お行儀良く座っていると、誰かがクリフォードの肩を叩く。
クリフォードは振り向かなかった。特に反応する理由がなかったからだ。
「ねぇ……ねぇってば! なんで無視するのよ!」
「…………」
クリフォードの背後から肩を叩いた人物は、クリフォードの正面に回り込んで顔を覗き込んできた。
亜麻色の髪の女の子だ。年齢は自分よりいくらか年下に見える。七、八歳ぐらいだろうか。
クリフォードは少女の名前を覚えていた。この屋敷の主人の娘、ラナ・コレットだ。
「そのお洋服、あなたが選んだの?」
「違う。ボクの服はいつも母が選ぶ」
無視をしても良かったが、この家の主人の娘を無下にすると母の機嫌が悪くなる気がした。
だからクリフォードは訊かれたことにだけ、淡々と答える。
すると、ラナは大きな目をパチパチと瞬かせて、クリフォードを見上げた。
「呆れた! あなたは自分でお洋服を選んだことがないの? 自分で選ぶのって、とっても楽しいのに!」
「必要性を感じない」
母が言う服を着て人形役に徹していれば、母の機嫌は良くなるのだ。だったら、それ以外の服を着る理由なんてないではないか。
ラナはクリフォードを頭のてっぺんから爪先までマジマジと眺めると、やがて何かを思いついたような顔で、クリフォードの手を引いた。
「ねぇ、こっちに来て!」
「勝手に動くなと言われている」
「じゃあ、勝手に動いたんじゃなければいいのね? アンダーソン夫人、ちょっとクリフォード様をお借りいたしますわ!」
ラナがクリフォードの母に声をかけると、母は笑顔で了承した。
母も周囲の大人達も、無邪気な幼い子どもを見守るような、微笑ましい目をしている。
(あぁ、母は、ラナ・コレットの機嫌を取れと言いたいんだな)
母の思惑を察したクリフォードは、ラナに手を引かれ、茶会の部屋を後にした。
「この部屋よ!」
ラナがクリフォードの手を引いて案内したのは、広々とした衣装部屋だった。
その広さと、衣装の量は母の衣装部屋に勝るとも劣らない。
室内には老若男女様々な年齢層の物が揃っていた。どうやらラナの私物ではなく、コレット商会の商品の一部らしい。
「ねぇねぇ、こっちのシャツを着てみて! あと、ベストはこれで、タイは……う〜ん、こっちの緑も捨てがたいけど、最近流行りのは銀のラインの物なのよね。うん、こっちの青いのがいいわ!」
「異性を個室に連れ込んで、服を脱がせるなんて淑女のすることとは思えない」
「だって、あなたの服が、あんまり似合ってないんですもの!」
初対面の人間に対して、なんとも失礼な台詞である。
大抵の人間は気を悪くするところだが、クリフォードは感情の起伏に乏しかったので(この子は馬鹿なんだな)と思っただけだった。
この少女のお着替え遊びに興味は無いが、この少女の機嫌を損ねたら、後々面倒なことになりそうだ。
選択肢に悩んだ時は、より合理的な方を選ぶに限る。
この場では、少女のお遊びに付き合うのが一番合理的だろう──そう、判断したクリフォードは、ラナが差し出した服を手に取った。
「今、ボクが着ている服と同じ黄色じゃないか」
「黄色は黄色でも、色味が全然別物でしょ! あなたの肌色に合う黄色は、断然こっち!」
ラナが用意したシャツに袖を通すと、なるほど確かに、自分の顔色が少し良くなったように見えた。
クリフォードは母とよく似た容姿だが、肌の色は違う。砂漠の民のような濃い肌色ではなく、父親似の薄い肌色だ。
「タイの結び方はね、こうして、こう! ちょっと細めに仕上げるのが、最近の流行りなのよ! あっ、カフスも選ばなきゃ! カフスは目の色に合わせたいわよね……」
そう言ってラナは、クリフォードの目をじぃっと見つめる。
ラナの大きな目に映る自分は、なんだかいつもと違って見えた。
(ボクの母も、この子も、やっていることは同じだ)
クリフォードの意向を聞かず、勝手に服を押し付けて、着替えを要求する。
なのに、いつもと違う。と思うのは何故だろう。
クリフォードが考え込んでいると、ラナはパッと顔を輝かせた。
「あなたの目って、薄い灰色の中に虹があるのね! キラキラして、とても綺麗! オパールを合わせてみましょうか。うーん、でも、上品にパールで仕上げるのも素敵……ねぇ、あなたはどっちが好き?」
「……なんでもいい」
「じゃあ、わたしが、あなたが一番カッコよく見える物を選んであげる!」
(あぁ、そうか)
母がクリフォードに服を選ぶのは、母を引き立てるため。
そして今、ラナが選んでいるのは、クリフォードのための服。
ラナが選んだ服に着替えると、ラナは得意げに胸を張った。
「ほら、素敵でしょ!」
ラナが選んだ服が、どう素敵なのかはクリフォードには分からない。
それでも、目をキラキラと輝かせて得意げに笑うラナを見ていたら、なんだか胸がムズムズして……
……生まれて初めて「素敵」と言われたような気持ちになったのだ。
クリフォード・アンダーソンは自発性に欠け、感情の起伏の乏しい人間だ。
好きも嫌いも無いし、やりたいこともやりたくないことも無い。
それでも、ラナが「素敵でしょ!」と目を輝かせて何かを自慢する度に、世界がちょっとだけ素敵に見えてくる。無彩色の世界を、ラナが少しずつ彩っていく。
だからクリフォードにとって、ラナは初めてできた「好きなもの」なのだ。