【12】ラナの失念
商会のキッチンスペースで待機していたアイザックは、ポケットから懐中時計を取り出して時間を確かめる。既に夜はふけ、日付が変わろうかという時間だ。
(話が長引いているのかな?)
少し様子を見に行こうかと椅子から腰を浮かしかけると、廊下から足音が聞こえた。ドスドスという重い足音はモニカじゃない。おそらく、あの黒髪兄弟の兄の方だ。
予想通り、キッチンに顔を出したのは厳つい顔の大男──アントニーである。
「話し合いは終わりましたか?」
アイザックが丁寧な物腰で訊ねると、アントニーは太い首を横に振った。
「否、どうやらご婦人方は協力して刺繍の模様決めをすることにしたらしい」
「そうですか」
そうなると、きっと長丁場になるだろう。
このキッチンにはそれなりに食材があるようだし、少し分けてもらって、モニカ達に簡単な夜食でも作ろうか。仮眠を取るための毛布もあった方が良いかもしれない。それと他には……と、モニカの弟子としてすべきことを考えていると、アントニーがキリッとした顔で言った。
「そういうことなので、ご婦人方の作業が終わるまでの間、俺達は酒盛りをする!」
そういうことなので、の一言に色々と集約しすぎではないだろうか。
返す言葉に悩むアイザックに、アントニーはキッチンを見回しながら、至極当然のような口調で言う。
「君は使用人なのだろう? すまないが酒のつまみになる物を作ってもらえぬか?」
この国の第二王子は、美しい笑顔のまま数秒ほどフリーズし、そして優雅に一礼した。
「えぇ、かしこまりました」
色々と思うところはあるが、正体がこれっぽっちもバレていないのは何よりだ。そう自分に言い聞かせ、アイザックは夜食の準備にとりかかった。
無論、優先すべきは彼の敬愛するお師匠様の夜食である。酒飲みどものつまみは、そのついででいい。
* * *
カーテンの隙間から冬の朝日が差し込み始めた頃、室内にラナの「できたぁ!」という声が響き渡った。
一晩中ペンを握りしめていたモニカは、すっかりペンを握る形に硬直した指から羽ペンを抜いてペン立てに戻す。どちらの手も、インクで汚れて真っ黒だ。
ラナは完成した図面を胸に抱いて、踊るようにクルクルとその場を回っている。
「モニカ! クリフ! 手! 手をあげて!」
モニカとクリフが言われた通りに両手を上げると、ラナは順番に自身の手のひらを打ち合わせた。澄んだ朝の空気に、パァン、パァンと気持ちの良い音が響く。
「町の子がね、友達同士でこういうのやってたの!」
一度やってみたかったのよね、と言ってクフクフ笑うラナは、徹夜の疲労を感じさせない朗らかさだった。
はしゃぐラナの声に、ソファにひっくり返ってイビキをかいていたポロックが「ふがっ」と声をあげて目を覚ます。ポロックが起きた拍子に、ポロックにもたれて寝ていたアントニーとテオドール兄弟も欠伸混じりに起き上がる。
この三人は、アイザックの作ったつまみを食べながら、一晩中酒を飲んでいたのだ。だが、ラナはそんな彼らに気を悪くするでもなく、スキップでもしそうなほど浮かれた足取りで完成した図案を突きつける。
「できたわよ、ポロックさん! さぁ、これで刺繍をしてちょうだい!」
ポロックはボリボリと頭をかきながら、図案に目を通した。
明け方近くまで酒を飲んでいたのに大丈夫だろうか、とモニカは密かに心配したが、図案を睨みつけるポロックの目は鋭い職人の目だ。
ポロックはニヤリと口の端を持ち上げて笑い、ラナを見る。
「やりゃあできるじゃねぇか。お嬢様」
その一言に、ラナは気を良くしたように鼻を鳴らして胸を張る。
そんなラナを見て、クリフォードがボソリと呟いた。
「……嫌な予感がする」
「へっ?」
モニカがクリフォードを見上げると、クリフォードは浮かれるラナを指さす。
「ラナが調子に乗ってる時は、大抵何かを見落としてるんだ」
「え、えっと……でも、付与魔力量も計算したし、刺繍糸を入手する目処も立ってるはず……」
モニカとクリフォードが小声でそんなやりとりをしている間も、ラナは浮かれてクルクル回っている。大はしゃぎだ。
「それじゃあ早速刺繍に取りかかるが……その前に、ローブをモデルに着せて、着丈は確認したんだろうな? 裾にも刺繍を入れるから、刺繍したらもうサイズの直しはきかねぇぞ」
「………………あ」
クルクルと回っていたラナの動きがピタリと止まる。
その顔がみるみると青ざめていくのを眺めながら、クリフォードが「ほら、やらかした」と無表情に言った。容赦のない秘書である。
モニカが返す言葉に困っていると、ラナが血相を変えてモニカに詰め寄った。
「モニカっ! モニカっ、あの人! バーソロミューさんは、今、サザンドールにいらっしゃるのッ!?」
「ふぇっ?」
「わたし、あの人にモデルをお願いしたいの! ほら、このローブ! バーソロミューさんが着たら、すっごくすっごく素敵だと思わない? わたし、あの人を見た時にビビッときたの! この人なら、このローブを着こなせるって!!」
徹夜明けの顔で目を爛々とさせるラナは、ちょっと恋する乙女のそれとは違う気がした。
(そっかぁ……ラナが、ネロに会いたかったのは、そのためだったんだ……)
その事実に少しホッとしたけれど、安心ばかりもしていられない。
なにせ、ネロはあと一ヶ月は冬眠中なのだ。モデルなどできるはずがない。
「あ、あのね、ラナ。ネ……バーソロミューさん、は……えっと……ちょっと、留守で……」
「いつ戻ってくるの!?」
モニカは冷や汗だらけの顔で視線を泳がせ、いつもの倍速で指をこねる。
「い、一ヶ月後ぐらい、かなぁ……」
「そ、そんなぁぁぁぁ……」
モニカの態度は不審そのものだったが、今のラナはそんなことに気づく余裕すらないらしい。
ラナはヘナヘナとその場に膝をつき、頭を抱える。
どうやら、ラナの中ではもうネロをモデルに抜擢することが決まっていたようだ。
(ど、どうしよう……っ)
沈痛な空気が室内を支配する中、すっくと立ち上がった男がいた。
──割と空気を読まない男、アントニーである。
「話は聞かせてもらった! そういうことなら、ご婦人よ。俺がそのモデルの代役を引き受けよう!」
ラナはゆっくりと顔を上げると、アントニーを頭の天辺からつま先まで眺め、また頭を抱えて項垂れた。
「だめぇぇぇ……全っ然、イメージに合わない……このローブのモデルは、黒髪で、背が高くて……」
「つまり、俺だな!」
自信満々に胸を張り、二の腕を持ち上げて力こぶアピールをするアントニーに、ラナは勢いよく首を横に振る。
「ある程度整った目鼻立ちで、目力のあるモデルがいいのよぉぉぉ」
「任せろ、ご婦人っ! 俺は眼力には自信があるっ! 我が祖国では、俺がひと睨みすれば犯罪者どもは震えあがると言われていて……」
「兄さん、兄さん、モデルが観客を怯えさせたら駄目なんじゃない?」
テオドールの意見は実に正しい。
アントニーは「そうか、駄目か」と残念そうに呟くと、すぐに何かを思いついた顔で弟の肩を叩いた。
「ならば、テオドールよ! お前がモデルを務めるのだ! ここは男を見せてこいっ!」
「……ボクはそんなに背が高くないから、駄目なんじゃないかなぁ?」
テオドールがそう言ってラナを見れば、ラナは力無く頷く。
アントニーは筋肉がつきすぎているし、眼光が鋭すぎる。
テオドールは背が足りないし、ついでに眼力も無い。
いよいよ絶望的な空気が室内を支配すると、クリフォードが口を開いた。
「ラナは馬鹿だな」
絶望しているラナに追い討ちをかけるような一言に、ラナはゆっくりと顔を上げて、クリフォードを睨む。
「なによぉぉぉ、そんなに馬鹿馬鹿言わなくていいじゃないっ! わたしだって、もうちょっと早く動くべきだったって、反省して……」
「やっぱり、ラナは馬鹿だ」
「二回も言うっ!?」
ラナが眉を釣り上げると、クリフォードはじっとラナを見据え──眼鏡を、外した。
顔の半分を覆い隠していた分厚いレンズが取り払われ、その顔が露わになると、ポロックが「ほぅ」と感心したように片眉を持ち上げ、アントニーとテオドール兄弟が目を丸くする。
クリフォードはそんな周囲の反応には目もくれず、真っ直ぐにラナだけを見て、言った。
「最初から、ボクを頼れば良かったんだ」




