【2】成金お嬢様式対処法
ここ最近のモニカは、ボンヤリしていることが増えた。
〈星詠みの魔女〉主催のパーティを終えて、サザンドールの家に帰宅してからというもの、研究用の書類を見ても、なんだか数字が頭に入ってこない。文字はともかく、数字が頭に入らないなんて初めてだ。
気がつくとペンを動かす手を止めて、〈星詠みの魔女〉の屋敷で行われたパーティの日のことばかり考えてしまう。
ラウルに借りたドレスから自分のドレスに着替えたモニカは、その後、誰にも会わずにコソコソとパーティ会場を後にした。
あの時は頭の中がグチャグチャで、誰とも顔を合わせられなかったのだ。
そうしてサザンドールに戻ってきてしまったモニカは、シリルに「ご婚約おめでとうございます」と、きちんと言えていないことを思い出し、頭を抱えた。
(……完全に、言うタイミング、逃しちゃった……)
次に会った時には、ちゃんと言わなくては……と思うのに、なんだか酷く気が重い。胸がモヤモヤする。
おまけにシリルのことを考えると、ドレスが脱げてしまった瞬間のことを思い出してしまい、恥ずかしさに消えてしまいたくなるのだ。
誰かと話したら気が紛れるだろうか。だけど、アイザックは仕事のために自分の屋敷に戻っていて、ネロは冬眠中。
久しぶりに一人になった家は、なんだか酷く静かで寒い。
(……コーヒー、飲もうかな)
立ち上がってキッチンに向かったモニカは、コーヒー豆を切らしていたことを思い出し、それなら紅茶を飲もうと食器棚のティーカップに手を伸ばした。
しかし、上手くいかない時というのは、何から何まで上手くいかないものである。
悴んだ指先はカップを上手く掴めず、モニカの手からカップがすり抜け、足元に落ちた。
無詠唱魔術を使う間も無く、ガシャン、と陶器の割れる音が響く。
「………………あ」
足元には粉々に砕けたカップ。白地に繊細な花模様を施した美しいカップは、モニカがサザンドールに越してきた時に、ラナが引越し祝いにと贈ってくれた物の一つだった。
それが、砕けてしまった。
モニカは沢山の難しい魔術を使うことができるけれども、割れたティーカップを元通りにはできない。
割れたティーカップは、もう元には戻らないのだ。
「………………ぅ」
大事なティーカップが割れた瞬間、モニカの中で張り詰めていた何かがプツリと切れた。
ずっと溜め込んでいた感情が溢れ出し、涙の雫がティーカップの破片に落ちていく。
「うっ……ふっ……ぅ〜〜〜……っ」
モニカは嗚咽を噛み殺しながら、ティーカップの破片を拾い集めた。
声をあげたら、まるで子どもみたいにワンワンと泣いてしまいそうな気がしたのだ。
その時、ドアノッカーを叩く音が響く。
「モニカー、久しぶりー! 一緒にお昼ご飯食べにいきましょう!」
ラナの声だ。
あぁ、今、自分はどんな顔でラナに会えばいいのだろう。
モニカは服の袖で涙を拭って立ち上がろうとし……スカートの裾を踏んで、その場に転んだ。
カシャンカシャンと音を立てて、拾い集めたカップの破片が散らばっていく。その内の一つが、モニカの左の手のひらをザックリと切りつけた。手のひらにジワジワと赤い血が滲む。
もう、何から何まで踏んだり蹴ったりだ。
「う……うぅ……うぇぇっ……」
グシュグシュと鼻を啜っていると、ラナが扉を開けて中に駆け込んできた。
「ちょっと、今すごい音がしたけど大丈夫っ!?」
ラナは床に倒れているモニカを見ると、ギョッと目を見開いた。
「モニカっ、大丈夫!? やだ、手から血が出てるじゃないっ! 他に怪我は!?」
「うっ、うぇっ、うっ、ラナ、ごめ……わだし……ティーカップ、割っちゃっ……うぇぇえんっ、ごめんなさい……っ」
床に突っ伏したまま、子どもみたいに泣きじゃくるモニカの背中を、ラナは優しく撫でてくれた。
そうしてハンカチを取り出して、モニカの手の傷をハンカチで包む。
「そんなに泣かないの。ほら、落ち着いて」
「でもっ、ふぐっ、うぅぅぅ……」
「ウォーカーさんは、今日はお留守なのね? とりあえず、まずは手を洗いましょう」
「うっ、うん…………」
* * *
ラナはテキパキとティーカップの破片を片付けつつ、手を洗っているモニカを横目で見た。
(……あれは、何かあったわね)
久しぶりに会うモニカは、目に見えて憔悴していたし、髪の編み目がグッチャグチャになっていた。
モニカは心労がそのまま見た目に出るタイプで、特に悩みがある時ほど、身嗜みが雑になる傾向がある。
ここしばらくモニカはサザンドールを留守にしていたし、その前の月はラナが忙しかったので、モニカと会うのは実に二ヶ月ぶりだった。
その間に、きっと何かあったのだ。
「ほら、そこに座って。手、薬塗りましょう。薬箱はある?」
「えっと、そこの棚……」
モニカが指さした棚は綺麗に整理されていた。きっと、彼女の有能な弟子のおかげだろう。おかげで薬箱はすぐに見つかった。
ラナはモニカの手に薬を塗って、包帯で覆う。
「これでよし、と。今日はあんまり動かしちゃダメよ」
「…………うん」
モニカは椅子に座ったまま項垂れ、包帯で覆われた左手をぼんやりと眺めていた。
ラナは薬箱を片付けると、そんなモニカの前にしゃがみ込み、自身の膝に頬杖をつくようにしてモニカを見上げる。
「しばらく会わない間に、何かあった?」
「………………」
モニカは荒れた唇を噛み締めて、言葉を探すように黙りこんでいる。
やがて、モニカはゆっくりと口を開いた。
「最近のわたし、すごく、ダメダメなの」
「何がダメなの?」
ラナが優しい声で訊ねると、モニカは自分のことを振り返るかのように、腫れぼったくなった目を閉じた。
「ラナに貰ったカップ割っちゃうし、お鍋やペン壺もひっくり返すし……」
「うん」
「研究に集中できなくて、簡単な足し算を間違えるし……」
「うん」
「シリル様の婚約をちゃんと祝えないし……」
「…………うん?」
モニカが計算を間違えた、というのも割と衝撃だったのだが、それ以上に聞き捨てならない話題にラナは顔を強張らせる。
「アシュリー様が、婚約?」
「……ハーヴェイ家の方と、ご縁談があるって、この間のパーティで、聞いて……」
初耳である。ラナは噂好きのマダムが集うサロンに顔を出す機会は多いのだが、シリルに縁談の話があったなんて聞いたことがない。
だが、モニカがパーティに参加したのはここ最近の出来事だから、モニカの情報の方が早いと考えるのが妥当だろう。
(ハーヴェイ家って、確かアシュリー家の親戚よね……あそこには御令嬢が三人いるし、確かに縁談の話があってもおかしくはないけど……)
確かな筋の情報でない限り、噂を鵜呑みにすることなかれ。それは商売人の鉄則である。
幸いラナが出入りしているサロンには、この手の話に詳しいマダムが大勢いるから、そちらに確認を取った方が良いだろう。
ラナはその段取りを考えつつ、モニカの様子を観察した。
モニカは目に見えて落ち込んでいる。それは、ティーカップを割ったことだけが原因ではないのだろう。
(アシュリー様の婚約に、なんで自分が落ち込んでるのか、分かってるのかしら?)
ラナはやれやれと溜息をついて、立ち上がる。
今はシリルの婚約の真偽がなんであれ、落ち込んだモニカをどうにかすることの方が優先だ。
「モニカ、何をやってもダメダメな時の対処法を教えてあげるわ」
「対処法……?」
モニカはまるで不治の病の治療方法を聞かされた患者のように、縋る目でラナを見上げる。
そんなモニカの額に、ラナはビシリと指を突きつけた。
「何をやってもダメダメな時はね、とびっきりお洒落をして買い物に行って、好きな物を買うの。そして、美味しい揚げパイをお腹いっぱい食べるのよ」
成金お嬢様ラナ・コレット式対処法に、モニカは目を白黒させながら「……揚げ、パイ?」と不思議そうに呟いた。どうやら食べたことがないらしい。
「揚げ菓子は食べすぎると太るんだけどね……こういう時は特別! 自分を徹底的に甘やかすの!」
モニカはやっぱり、よく分かっていない顔をしていた。生真面目なモニカは、こういう時に自分を甘やかすということがピンとこないのだろう。
全く誇れることではないが、ラナは自分を甘やかすことに関しては大変得意である。
ここは自分がモニカに「甘やかし方」を伝授してやろうではないか。
本当は、今日はバーソロミュー・アレクサンダーについて聞きたかったのだが、今はモニカを元気にするのが最優先だ。
「さぁ、まずは目の腫れが引いたら、着替えてお化粧よ!」
ちなみに今日の午後は事務仕事を片付ける予定だったのだけど、それは秘書のクリフォードに押し付けよう──と、自分を甘やかすのが得意なラナは密かに決意した。




