【おまけ】困難に立ち向かう友に、餞別を
外伝after2【終】の、その後の話です。
ゾルデリーヴェは、人に化け、人を喰らう魔物だ。
ゾルデリーヴェはその力で、その身を美しい女の姿に変え、宮中に入り込み、人を喰らい続けた。
だがある日、ゾルデリーヴェが若い男の血肉を喰らっているところを、若い侍女が目撃してしまう。
正体がバレたゾルデリーヴェの、美しく結った髪がほつれて、蛇のようにうねった。
整った白い女のかんばせは、今は見る影もない。
吊り上がった目は、見る者の心臓を氷漬けにするような邪悪さで爛々と輝き、大きく裂けた唇は、哀れな獲物の血で真っ赤に濡れている。
ゾルデリーヴェは血と臓物のにおいをプンプンと撒き散らしながら、侍女に鋭い爪を振り下ろし……。
「……っていう、正体がバレた人喰いゾルデリーヴェみたいだな、シリル!」
「やかましい!!」
ラウルの言葉を一蹴し、シリルはタライの水で顔を洗った。
だが、水で化粧は殆ど落ちず、まだらに汚れた顔は、どんどん人喰い魔物ゾルデリーヴェに近づいていく。
目覚めたら髪も顔もパーティメイク仕様にされていたシリル・アシュリーは、なんとか自力で身支度を整えようと奮闘するも力及ばず、最終的にラウルの助けを借りる羽目になった。
毛先がない、私の毛先はどこだ……と呻きながら、なんとか髪をほどくことはできたものの、きっちり編み込まれ、これでもかと整髪料を塗りたくられた髪は不自然に固まり、うねり放題、跳ね放題。
なるほど確かに、正体を現したゾルデリーヴェである。
「化粧とは、水か石鹸で落ちるものではないのか……?」
表面にはたかれた粉は落ちたようだが、頬に触れるとまだドロドロベタベタしていた。
化粧にも色々種類はあるが、この離れにある化粧品はどれも、メリッサ・ローズバーグの私物である。
シミやそばかすを隠すことに重きを置き、鮮やかな発色の口紅を好むメリッサの化粧品は、どれも落としづらい仕様なのだ。
ラウルが「うーん」と唸りながら、離れからかき集めてきた小瓶を一つ一つ眺める。
「とりあえず、それっぽい瓶をかき集めてきたけど……これは香水だなぁ。こっちは多分、試作の魔法薬、こっちは魔法薬を扱う瓶の洗浄水で……こっちはなんだろ? 肌の保湿用かな?」
テーブルにずらりと並ぶ小瓶を、白と金のイタチが匂いを嗅いで回った。
「これは薔薇の匂いがするね。こっちは、オレンジかな?」
「こっちは魔力が濃い。飲んだら元気になる」
「人間は飲んじゃ駄目なやつだぜ、それ」
イタチ達の助言を聞きながらラウルが瓶を仕分けていくが、はたしてこの中に、化粧を落とせるものはあるのだろうか。
一つ一つ試す気にもなれず、シリルは諦めの目でラウルを見た。
「ラウル。食用油を分けてくれ」
「油? なんで?」
「油性の汚れは、油で落とすしかあるまい」
発想が掃除夫のそれである。
普段から、肌の手入れも髪の手入れも、石鹸で洗って乾かす以上のことをしないシリルは、汚れが落ちれば、それで充分なのだ。
* * *
整髪料にまみれた髪を湯で洗い、食用油と石鹸を駆使して化粧をガシガシと洗い落としたシリルは、椅子にもたれて天井を仰いだ。
「酷い目にあった……」
「あれって、アイザックの仕業かい?」
「おそらく……」
シリルは額に手を当て、昨晩の出来事を振り返った。だが、甘い酒が美味しくて嬉しくて、フワフワしていたことしか思い出せない。
アイザックの仕打ちを考えるに、きっと自分は何かやらかしたのだ。
学生時代も、モフモフ事件の後は、しばらくニールがよそよそしくなったのを覚えている。
「私は一体、何をしてしまったんだ……」
「うーん、オレもすぐに寝ちゃったからなぁ」
げっそりしているシリルの前に、ラウルがカップに注いだスープを置く。
化粧を落とすのに必死で、まだ朝食を食べていなかったシリルは、ありがたくスープに口をつけた。野菜の甘みが、疲弊した心にじんわりしみる。
シリルはほうっと息を吐き、自分にこんな仕打ちをした人物に想いを馳せた。
「次にあの方に……アイクに会ったら、どんな顔をすればいいんだ……」
「えっ、普通に『なにすんだよ、もうー!』でいいじゃん」
言えるか、とシリルは渋面でスープをすする。
「きっと、酒に酔った私が何か粗相をしたのだろう。それに立腹して……」
「本気で怒ってたら、イタズラなんてしないって」
ラウルの言葉に、シリルはスープを飲む手を止めて顔を上げた。
そうして、パチパチと瞬きをして、ラウルが口にした言葉を繰り返す。
「イタズラ?」
「イタズラだろ?」
「そういうものだろうか……」
「そうそう、多分そうだって」
適当なことを言うな! と怒鳴る気にならなかったのは、ラウルの言葉が案外すんなりと腑に落ちたからだ。
そうか、イタズラ。あの方が、あの人が……と、まだ上手に咀嚼しきれていない諸々をスープと一緒に飲み込む。
柔らかなスープは優しい味で、喉に突っかかったり、胃にもたれることはない。スルッと喉を通って、腹がじんわり温まる。
シリルがスープを飲み干すと、白と金のイタチがパンの入ったバスケットを押してきた。
「シリル、シリル、食べる?」
「昨日作ったジャムもある」
「あぁ、いただこう」
野菜スープで一息ついたら、いつもの調子が出てきた。
朝食を食べたら、先日の始末書を書き、ゾーイに読み聞かせする絵本を探さなくては。
やるべきことを一つずつ頭の中に並べたシリルは、ふと思い出し、ラウルを見た。ラウルは適当に摘んだハーブでハーブティーを淹れている。
「ラウル、今のうちに確認しておきたいことがある」
「うん?」
「お前の留学先は……」
リーデングラン魔法技術大学。帝国でも有数の名門校だ。
ラウルはここに、秋から留学するのだと聞いている。
シリルはジッとラウルを見た。ラウルは慣れた手つきで、ティーポットに湯を注いでいる。
ラウルがポットに蓋をしたところで、シリルは口を開いた。
「お前の留学先は、本当にリーデングラン魔法技術大学か?」
赤毛が揺れて、勢いよくシリルを振り向く。
嘘の下手な友人は、困ったように眉を下げて、苦笑していた。
「……オレ、なんか口滑らせちゃったかな?」
「勘だ」
勘などと言ったが、シリルがそう考えたのには幾つか理由がある。
まず、ラウルのことを初代〈茨の魔女〉の生まれ変わりのように扱っているローズバーグ家が、帝国への留学をあっさりと認めたことに、違和感があった。
そして、これは偶然かもしれないが、今から一年前──ラウルが留学すると言い出した時期は、黒獅子皇のリディル王国訪問と重なっているのだ。
──黒獅子皇とローズバーグ家の間で、何か取引があったのではないか?
そんな疑問は、以前からシリルの中にあった。
だが、確信は持てずにいたし、よその家の事情に首を突っ込むべきではないと考え、黙っていたのだ。
そうしてラウルの留学が近づいてきたある日、シリルはラウルに訊ねた。
留学中に手紙を書いたら、どこに送れば良い? と。
するとラウルは、リーデングラン魔法技術大学の近くにある下宿先の住所を紙に書きながら、こう言った。
『多分、返事はかなり遅くなっちゃうかもしれないけどさ』
その時、シリルは一つの可能性を考えた。
リーデングラン魔法技術大学には寮がある。なのに、何故ラウルは寮を使わないのか?
返事がかなり遅くなる、と一言添えたのは、その下宿先が、本当の送り先に届けるための中継地点だからではないか?
下宿先の住所に雇った人を置いておき、本当の送り先に届けさせれば、ラウルの本当の居場所を隠すことができる。
リーデングラン魔法技術大学は第二帝都にあり、黒獅子皇が干渉しやすい大学だ。留学の記録も、黒獅子皇ならいくらでも偽造できる。
……と、ここまで考えたシリルは、それが七賢人としての任務なのではないか、とも考えた。
なにせ、正体を隠して秘密の護衛任務をしていたモニカが身近にいるのだ。
だから、ラウルの留学も、その手の任務なのではないかと思った。
だが、先日の〈植物標本庭園〉の出来事を経て、シリルはもう一つの可能性を考えたのだ。
禁書室の記録によると、ローズバーグ家は、かつてとある古代魔導具を所有していたが、鳥の魔物に盗まれたのだという。
失われた、その古代魔導具の名は……。
「古代魔導具〈彩色庭園〉」
より正確に言うなら、こうだ。
──〈彩色庭園レベッカ〉。初代〈茨の魔女〉レベッカ・ローズバーグを信奉する者達が作り上げ、その力の強大さ故に、誰も使えずにいた古代魔導具。
「探しに行くんだな?」
シリルの問いに、ラウルは困ったような顔で言った。
「……留学っていうの、まるっきり嘘ってわけでもないんだ。行く先で、いっぱい勉強することになるし」
「そうか」
シリルはそれ以上は訊かない。聞いたところで、できることなど何もない。
だから、シリルは立ち上がると、荷物鞄から小さな紙箱を取り出した。昨日遊んだカードゲームだ。
気づいたラウルが、少しだけ驚いたような顔をする。
「それ、シリルのだったんだ? てっきり、モニカかアイザックのかと思ってた」
「あぁ」
お泊まり会をするのなら、この手の物があった方が良いだろう、とこっそり買ってきたのである。
あとは、まぁ、餞別というやつだ。
「ラウル、そこを動くな。両手を上向きに構えろ」
「え? うん?」
シリルは慎重に距離を測りながらジリジリと後退り、ラウルから数歩離れたところで足を止めた。
二匹のイタチが、興味津々の様子でテーブルの上からそのやり取りを見守る。
「ゆくぞっ!」
「お、おぅ?」
シリルはカードの箱をラウルに投げた。
勇ましいかけ声とは裏腹に、下手投げで優しく投げられたそれは、綺麗な放物線を描いてラウルの手の中に落ちる。
ラウルはポカンとした表情で、手の中の箱とシリルの顔を交互に見た。
「今、なんで投げたんだい? いつものシリルなら、絶対そんなことしないじゃんか」
あまりにも真っ当な質問に、シリルは口ごもった。
シリルは物を投げて渡すなんて、まずしない。行儀が悪い、落としたらどうするんだ、物は大事にしろ、とガミガミ叱る側の人間である。
シリルは気まずさを誤魔化すように、早口で捲し立てた。
「普段からこういったやりとりに慣れていないから、ソフォクレスをアイクから投げて寄越された時に、私は受け止めることができなかったのだと反省をしてだな」
「……それってどういう状況?」
テーブルの上で金色のイタチが胸を張る。
「わたしが受け止めた」
「ピケは、受け止めるのが上手だね」
「えっへん」
シリルが唇を曲げて黙り込んでいると、ラウルがポリポリと頬をかきながら言った。
「えーっと、つまり、シリルは、物を投げて渡す練習がしたかったのかい?」
「それもあるが、その……」
慣れないことをしたら、猛烈に恥ずかしくなってきた。
それを誤魔化すように、シリルはテーブルに放置されたハーブティーのポットを持ち上げる。
「……餞別を投げて渡したら、友達っぽいと…………喜ぶかと」
ほらよ、とさりげなく友人に餞別を投げて寄越す。そういうシーンが、以前見た芝居の中であったのだ。
全然さりげなくなかったけれど、そこはまだ不慣れなので許してほしい。
いよいよ居た堪れなくなったシリルが無言でハーブティーを注いでいると、背後で「ふへ……えっへっへ……」と、だらしない笑い声が聞こえた。
シリルはジロリとラウルを睨む。
「笑うな」
「いや、だってさ……へへ、うひひ……あー、どうしよう、すっごく嬉しい」
ラウルは受け取ったカードの箱を、両手で大事に握りしめていた。
「オレさ、帝国に行くのは目的があってのことだけど……ちょっとだけ、この国から逃げたいな、って気持ちもあったんだ」
その気持ちを、シリルは否定も肯定もしない。
七賢人としての責務を投げだすとは何事だ、と叱る気もない。ラウル・ローズバーグは背負った役目を投げ出したりしないことを、シリルは知っているからだ。
ラウルは顔を上げて笑った。晴れやかな笑顔だった。
「でも、今はさ、帝国に行くのも、この国に帰ってくるのも、どっちも楽しみだ」
「そうか」
「カード、いっぱい練習するな! 向こうで友達作ってさ!」
「あぁ、お前が帰ってくるまでに、私ももう少し、まともな勝負ができるようになっておく」
昨日の大敗を思い出し、シリルが深く頷いていると、ハーブティーのカップを冷ましていたトゥーレとピケが会話にまざる。
「シリル、シリル、わたしにもルールを教えてくれる?」
「あぁ、練習につきあってくれ」
「冒険王になれる?」
「違うゲームだ。諦めろ」
カードゲームはもう一セット、自分用にも買ってある。今度、モニカやアイザックに戦略を教えてもらおう。
そんなことを考えながら、シリルはハーブティーに口をつけた。
明日も短いのを一本、投稿予定です。




