【試験勉強とミートパイ】
彼の母親はパイ作りの上手な人で、どんな果物でも肉でも魚でも、美味しいパイにする達人だった。
そのパイは見た目も凝っていて、表面の編み目が格子状や三つ編みになっていたり、花や葉を模した生地がパイ皿をぐるりと一周していたりする。
そのパイ生地の飾り付けを、彼の母親はよく手伝わせてくれた。
覚えているのは、大きく膨らんだ母の腹。もうすぐ生まれてくる弟か妹のことを思いながら、彼はパイを飾り付けた。
──いつかお兄ちゃんが、おいしいパイを作ってあげる!
母親の腹に、そう話しかけながら。
* * *
夏の日差しが穏やかになり、涼やかな秋の風が吹くようになった、とある日の昼下がり。
サザンドールのモニカの家を訪ねてきたグレン・ダドリーは、手土産の腸詰め肉を掲げながらこう言った。
「モニカ! 試験勉強を手伝ってほしいんす!」
試験勉強、と言われてモニカは首を捻る。
グレンはこの夏、セレンディア学園を卒業したばかりのはずだ。
ほんの数秒ほど考え込んだモニカは、すぐにグレンが言う「試験」が何を指すのか理解した。
「あっ……もしかして、魔術師試験、ですか?」
「それっす! それの初級!」
グレンの大声に、窓辺で昼寝をしていたネロが不機嫌そうに「ニャウー」と鳴いた。
そんなネロの前に、アイザックが刻んだ肉を乗せた皿を置き、グレンを見る。
「ダドリー君は初級ぐらいなら、とっくに合格しているものだと思っていたよ。君の実力なら、難しい話ではないだろう?」
「えへへ、そ、そうっすかね……」
率直なアイザックの褒め言葉に、グレンは嬉しそうな、それでいて素直に喜べないような、複雑そうな顔をした。
「いやぁ……実はもう二回ぐらい受けてるんすけど……二回とも筆記で落ちちゃって」
セレンディア学園時代にグレンの勉強を見たことがあるモニカは、あぁと納得の声を漏らす。
魔術師試験は一番簡単な初級でも、魔術の構成に関する問題に始まり、魔術を扱う上での法律、歴史、魔法生物の知識などについても問われる。
そして、それらの知識は一般学校では学ぶことができないのだ。
魔術に関する勉強ができる教育機関は、魔法技術先進国であるリディル王国でもさほど多くない。
「師匠は今、新しい七賢人探しで忙しいし、アルはセレンディア学園にいるから、卒業したオレは簡単には会いにいけないんすよね」
グレンの言うアルとは何を隠そう、この国の第三王子アルバートのことである。
アルバートは勉強を、グレンは実技を、互いに教え合う良い友人だ。モニカもセレンディア学園に在学していた頃は、勉強を教えたりもしていた。
だからこそ、グレンもモニカに助けを求めに来たのだろう。
それにしても、勉強を教わる相手の選択肢が王族か七賢人。聞く人によっては目を剥きそうな選択肢である。
「魔術師試験って、三回連続で落ちると、二年間受けられなくなるらしいんすよ」
「そ、そうですね……」
「でもって、この間ちょっとだけ帰ってきた師匠が『次に落ちたら、分かっていますね?』って、杖の素振りを始めて……」
「…………ひぃっ」
ルイス・ミラーにとって、杖とは魔術師の威厳を示すための物ではなく、相手を殴り倒すための武器である。
モニカとしても、友人が殴られるところなんて見たくないし、できることならグレンの力になってやりたい。
なってやりたいのだが……。
「……ごめんなさい、グレンさん……わたし、試験勉強のお手伝い、できないんですっ」
「えっ!?」
断られるとは思っていなかったらしいグレンが、大口を開けてモニカを見る。
モニカは指をこねながら、ボソボソと事情を説明した。
「……わたし、魔術師試験の筆記問題の、監修してて……試験問題、知ってるんです……」
申し訳なさそうに縮こまるモニカの前に、アイザックがコーヒーのカップを置く。
そして彼は、穏やかな物腰と優雅な笑顔で、息継ぎもせずに言った。
「〈沈黙の魔女〉と言えば無詠唱魔術で有名だけど、功績はそれだけじゃないんだ。モニカは七賢人になる前──ミネルヴァに在学していた時点で、現存するほぼ全ての魔術式を解読し、二十二の新しい魔術式を開発しているんだよ。既存術式の改良も含めると、それ以上。つまり基礎魔術の教科書に載っている術式の約三割に影響を与えているんだ。これだけでも充分七賢人になるに値する偉業だと言われているのに、その上で無詠唱魔術も使える僕のお師匠様はやっぱりすご……」
「あの、アイク、アイク……その辺で……」
居た堪れなくなりながらアイザックを止めるモニカを、グレンがまじまじと眺めた。
「……モニカって、すっげーすごいんすね……でも、そっかぁ。それじゃあ、モニカに教わるのは駄目かぁ……」
グレンはぐったりとした顔でテーブルに突っ伏す。
いつもは元気良く跳ねている癖っ毛も、今日はなにやら元気がなく萎れていた。
モニカはそんなグレンを見つめて、しょんぼりと肩を落とす。
できることなら友人の力になってやりたい。まして、魔術はモニカの得意分野。ここで友人の力にならずしてどうするのか……だが、モニカはもう次回の試験問題に目を通してしまっているのだ。
モニカとグレンが仲良く落ち込んでいると、アイザックがグレンの肩をトントンと叩く。
「僕で良かったら、教えようか?」
「……え?」
ポカンと目を丸くするモニカとグレンに、アイザックは柔らかく微笑みながら言った。
「魔術師試験の過去問題を見たことがあるんだ。初級の問題ぐらいなら、教えられると思うよ」
素性と得意属性を偽っているアイザックは、どうしたって魔術師試験を受けられない立場である。
それなのに彼は独学で、魔術師試験の勉強をしていたのだ。
己の弟子の勤勉さに、改めてモニカは感服した。
* * *
「配点が一番大きいのは基礎魔術の部分だけれど、魔術に関する法律の部分は点が取りやすいから、確実に覚えておこう。上級になると法の解釈を記述しなくてはいけないんだけど、初級は選択問題だから、比較的簡単だよ」
「うぅ……法律、苦手っす」
「難しく考えず、魔術を使う上での約束事だと思えばいい」
そう言ってアイザックは、法律に関する文面を噛み砕いてグレンに説明する。
難しい文章だと、そもそも読む気が起きないとボヤいていたグレンだが、アイザックの説明にはフンフンと納得顔で頷いていた。
「準禁術と禁術の違いは確実に試験に出るから、しっかり覚えておこう。準禁術は研究するのは良いけど、使用は特定の条件下のみ。それと、七賢人には特例がある」
「師匠やモニカは特別なんすね!」
「そういうこと」
難しくもなんともない、ごくごく当たり前のことを言っただけでも、アイザックはよくできましたと言わんばかりに柔らかく微笑み、解説を続けていく。
その説明を聞きながら、モニカは密かに感心していた。
アイザックは説明上手なだけでなく、グレンに興味を持たせるのが上手いのだ。
身近なものにたとえたり、専門用語を少し砕けた言い回しにしたり。
だから、すぐに集中力が途切れがちなグレンでも、最後まで話を聞くことができる。
一通り解説を終えたアイザックは、使用済みの裏紙に文字をサラサラと書き込んだ。どうやら、簡単な練習問題を作っているらしい。
「それじゃあ、ここまでやったことを復習してみようか。正誤のどちらかを答えるだけだから、気負わずにやってごらん。終わったら休憩にして、ミートパイを食べよう」
「ミートパイ!」
グレンは俄然やる気が出たという態度で、練習問題に取り組み始めた。
アイザックは静かに立ち上がってキッチンに向かう。
モニカは作業の手を止めて、アイザックの後を追いかけた。
「あ、あの、アイク……何か、お手伝いすることありますか?」
「大丈夫だよ。ミートパイは温め直すだけだから」
実際、ミートパイを温め直すアイザックの手際に無駄はなかった。この手の作業に不慣れなモニカが手伝えることなど、何もないのだろう。
オーブンの中のミートパイは、表面のパイ生地が凝った編み目になっていて、パイ皿の周りをリーフ形に切り抜いたパイ生地がぐるりと囲っている。モニカには逆立ちしたってできない仕上がりだ。
そもそもモニカはパイ生地を自分で作ろうと思ったことがない。
(アイクは器用だなぁ……)
パイ生地の焼き色を確認するアイザックの横顔を眺めながら、彼は今までどんな生き方をしてきたのだろう、とモニカはぼんやり考える。
第二王子を演じ続けてきた彼が、元々はその第二王子の従者であることは知っている。けれど、モニカはそれより昔のことを知らないのだ。
従者になる前はどんな暮らしをしていたのか、どういう経緯で従者になったのか、家族はいるのか……興味本位で訊いて良いことじゃないけれど、いつかアイザックの口から話してもらえたら良い、とも思う。
他人に興味を持つようになった自分の変化にモニカが少しだけ驚いていると、ネロがキッチンにやってきた。その口にはグレンが持参した腸詰め肉の包みが咥えられている。
肉の包みをズルズルと引きずり、ネロはアイザックを見上げた。
「早速これ食おうぜ。オレ様、表面をこんがり焼いたのがいい」
「ダドリー君のご褒美のミートパイが先だよ」
そう言ってアイザックがネロの口から腸詰め肉の包みを取り上げ、猫の手では開けられない戸棚にしまう。
ネロは不機嫌そうに尻尾で床を叩くと、ジトリとした目でアイザックを見上げた。
「……前から思ってたんだけどよぉ。お前、声デカに甘くないか?」
ネロの指摘にアイザックは軽く目を瞬かせる。
それは、本人が自覚していなかったことを指摘された人間の反応だ。
「そうかな? ……そうかもしれないね」
アイザックは程良く温まったミートパイを取り出し、何かを懐かしむような目で笑った。
「だって、世話の焼ける弟みたいで可愛いだろう?」