【16】駄目領主の悲哀
レイの婚約者フリーダ・ブランケは、長いこと仮死状態にあったが、目覚めた翌日には元気に歩き回り、更に数日後には実家の窮状を理解してテキパキと身支度をし、オルブライト家を発ってしまった。
「それでは行ってきます、レイ」
「お、俺も……俺も行くから……許可を取ったら、すぐ行くからぁ……っ!」
馬に乗って軽やかに立ち去る背中を、ハラハラと泣きながら見送ったレイは、フリーダの後を追うべく、慣れぬ手続きを頑張った。
〈暴食のゾーイ〉に関する一連の騒動で、まだ王都はバタついている。
そんな状況で、七賢人の一人が国を出たいなどと言っても、そう簡単に許可は下りないだろう──とレイは思っていたのだが、意外にもこれに尽力してくれたのが、〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーであった。
「〈茨の魔女〉殿が留学してからだと、それこそ、帝国に行く余裕などなくなるでしょう。だったら、今のうちにパッと行って、用事を済ませて来てください。国境までは、うちのリンを貸し出すので」
〈結界の魔術師〉にも人の心があったのか……と、驚くレイに、ルイスはこう続けた。
「リディル王国の騒動にフリーダ嬢が巻き込まれた件、帝国側はガタガタ言ってくるかもしれませんが、わざわざ七賢人が出向いてやったともなれば、文句も引っ込むでしょう……そういうわけなので、ちょっと帝国を黙らせてきてください」
やはり発想がルイス・ミラーであった。
そこからは、話が進むのは早かった。ルイスは〈星詠みの魔女〉にも声をかけて、諸手続きを素早く済ませ、契約精霊であるリンをつけて、レイを見送ったのである。
リンは風の上位精霊だ。その力を使えば、王都から国境まで、あっという間である。
……そう、本当にあっという間だったのだ。
超高速の空中飛行と、とどめの「スタイリッシュな着地方法」は、レイの寿命を盛大に削った。
国境に着いた時のレイの心境は、まさに命からがらである。
それでは、わたくしはこれで。とスタイリッシュに去っていったリンを見送り、レイはフラフラと国境管理局に向かった。
非常にありがたいことに、先に国境に到着したフリーダは、自分の婚約者であるレイが、後から来るかもしれないことを管理官に伝えていたらしい。
管理官は挙動不審なレイを不審者扱いしたりせず、丁重に扱ってくれた。
しかし、魔法伯ともなれば、リディル王国でも結構な大物である。そこらの小領主と同じ扱いをするわけにはいかない。
管理官は大急ぎで、ヴァルムベルク城にオルブライト魔法伯到着の旨を伝え、ヴァルムベルク城から迎えが来るまで、ここに滞在してほしいとレイに伝えた。
ところが、待てども待てども、ヴァルムベルク城から迎えが来ない。
焦れたレイは管理官に礼を告げ、馬車を雇って、自らヴァルムベルク城に向かった。
そして、ヴァルムベルク城に着く前に、赤い制服の一団に囲まれ、捕まりそうになったところを呪って逃げだし、あとはひたすら追い回されつつ、ヴァルムベルク城を目指した。
──どうして俺がこんな目に遭うんだ。俺はただ、フリーダに会って……そして、お義兄さんにきちんと結婚の挨拶をしたいだけなのに!!
逃げ回っている内に夜もふけ、レイは泣きたくなっていた。
ヴァルムベルク城の門は閉ざされていて、中に入れる雰囲気じゃない。
どこかに人はいないのか、とベソベソ泣きながら城の周りを歩いていた彼は、灯りがついている窓を見つけ、迷わずそこに向かった。
追い回された体はヘトヘトに疲れていて、もう今にも倒れそうだ。
それでも、これだけは言わなくては……と、レイは己に言い聞かせ、全身の気力と勇気を振り絞り、お義兄さんへの挨拶を口にした。
* * *
「……っていう感じなんだけど」
〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトの説明に、フリーダが無言でヘンリックを見る。
会議室の議長席に座ったヘンリックは、全身に汗を滲ませ目を泳がせた。
シュトラウス将軍の叛乱から一夜明けた午前。
シュトラウス将軍とその部下、及びリヒャルト・ケーニッツを拘束した後、ヴァルムベルク城の会議室には、この騒動の関係者達が集められていた。
リディル王国側は、アルバート殿下をはじめとした諸貴族。王子の従者のパトリック、外交秘書官のブリジット。そして、室内でもフードを被っている〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライト。
帝国側はヴァルムベルク城城主ヘンリックと妹のフリーダ。ビレンダール卿。それと、紛れ込んでいた職人コルヴィッツだ。
こうして錚々たる面子で話し合いが始まったわけだが、誰もが疑問に思ったのが、リディル王国の七賢人〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトの存在である。
七賢人と言えば、リディル王国の魔術師の頂点であり、国王の相談役の魔法伯。
何の前触れもなしに、ひょっこり現れて良い存在じゃない。いつのまにかいたレース大好きおじさんとは、わけが違うのだ。
かくして、レイはここに来るまでの経緯をボソボソと説明し、フリーダはヘンリックに低い声で告げた。
「兄上」
「……はい」
「国境管理局からの手紙に、目を通しましたか?」
ヘンリックはダラダラと冷や汗を流しながら、机の木目を見つめた。
そういえば、国境管理局から手紙が届いていた気がする。気がするが、会合の準備が忙しすぎて後回しにし、すっかり手紙の存在を忘れていたのだ。
ヘンリックは膝に手を突き、レイに頭を下げた。
「オルブライト卿、大変申し訳ありませんでした。会合の準備にかまけ、手紙の確認を怠った私の不手際です」
「えっ、あっ、こちらこそ……忙しい時に来て、ごめんなさい……」
レイはボソボソと謝り返したが、フリーダが容赦なく兄をぶった斬る。
「つまり、兄上がきちんと手紙を読んでいたら、事態は変わっていたのですね」
「うっ……駄目領主で、すみません……」
胃を押さえて謝るヘンリックに、もはや剣を握っていた時の気迫はない。
シオシオと萎れるヘンリックの横で、帝国の重鎮であるビレンダール卿が、重く深みのある声で発言する。
「オルブライト卿、シュトラウス将軍とその配下の鎮圧、大変お見事でございました。シュヴァルガルト帝国を代表して、深く感謝いたします」
見るからに重鎮と言った雰囲気のビレンダール卿に、丁重な礼を言われ、レイは口を菱形にして硬直した。
偉大な七賢人はモジモジしながら、隣の席のフリーダに小声で話しかける。
「お、俺が、俺が褒められている……なんか、すごく褒められている……」
「レイ、胸を張ってください。貴方は我がヴァルムベルク城を救った恩人なのです」
レイは赤面しながら、「ひょわ……」と奇声を発して、椅子の上でグニャグニャと身悶えした。幸せそうである。
ビレンダール卿は、続いてアルバートに頭を下げた。
「アルバート殿下、この度の事態は全て帝国側の不始末。多大な迷惑をおかけしたこと、お詫び申し上げます」
会合の前は、アルバートを軽んじていたビレンダール卿だが、それでも帝国の重鎮貴族だ。
誰よりも事態の重さを理解しているのだろう。
ヘンリックも頭を下げた。会場を提供しておきながら、この事態を招いてしまった城主の責任は、ビレンダール卿より重いのだ。
(これ、僕の首だけで、どうにかなる事態かなぁぁぁ……下手したら、一族郎党処刑ものじゃ……)
キリキリと痛む胃をこっそり押さえ、ヘンリックは謝罪を口にする。
「私からも、お詫び申し上げます。城主としての力不足、どうぞお許しください」
アルバートは幼さの残る顔を引き締め、口を開いた。
「お二方とも、どうか頭を上げられよ。この度の件は、貴方方も巻き込まれた側なのだ」
それでも、ビレンダール卿は頭を上げなかった。ヘンリックも同様だ。
ビレンダール卿は頭を下げたまま、言葉を続ける。
「グレイアム秘書官にも、お詫びと感謝を。貴女がいなければ、シュトラウス将軍の企みにも、ケーニッツ卿の正体にも気づかぬままだったでしょう」
ブリジットは胸ポケットにしまっていたハンカチを取り出し、机の上に乗せた。
白いレースの縁取りをした美しいハンカチは、妖精の羽でブリジットを守った魔導具だ。
ブリジットは己の功績を誇るでもなく、淡々と言う。
「非常事態とは言え、貴国の荷物を勝手に持ち出したこと、お詫び申し上げます」
ヘルムフリート・コルヴィッツ作〈エルフリーデ〉は、帝国がリディル王国に贈答するために持参した土産の一つだ。
シュトラウス将軍は、荷物を確保する際、武器になる物は分けていたようだが、流石にレースのハンカチが魔導具だとは思わなかったらしい。
ブリジットはコルヴィッツからエルフリーデの存在を聞き、二人がかりで荷物を漁り、エルフリーデを見つけ出して、広間に駆けつけたのだ。
このハンカチの防御結界があったからこそ、シュトラウス将軍は攻撃を躊躇ったし、話に耳を傾けた──魔導具は戦況を大きく変える可能性を秘めた、強力な切り札なのだ。
(ただ、まぁ、それにしても……)
ヘンリックはくすんだ金髪をかきながら、ブリジットにヘラリと笑いかけた。
「ハンカチの防御結界があるとは言え、あの時は肝が冷えましたよ……シュトラウス将軍に向かってズンズン歩いていくんですから」
「わたくしもそれなりに肝が冷えました。なにせ、この防御結界……一度きりの代物だそうですので」
「……はい?」
ヘンリックは己の耳を疑った。
言われてみれば、妖精の羽の防御結界が発動したのは一度だけ。
それでも、ブリジットがあまりにも堂々としていたものだから、防御結界は何度でも使えるとヘンリックは思い込んでいたのだ。
これに目を剥いたのは、ヘンリックだけではない。アルバートが唖然とした様子で、声をあげる。
「じゃ、じゃあ、完全に丸腰じゃないか!」
アルバートは驚いているが、隣に座る従者のパトリックは納得顔だった。
「ハンカチサイズの魔導具に付与できる魔力量を考えると、妥当ですよね〜。それでも、あの結界強度は凄いですよ」
ヘンリックにはピンとこない話だが、何度も使える魔導具はかなり貴重であるらしい。
ブリジットがコクリと頷く。
「えぇ、ですから、この防御結界は何度でも使えるすごい物なのだと錯覚していただくために、コルヴィッツ様に、ハンカチの凄さを語っていただきましたの」
確かに、ああも場違いに堂々とハンカチの凄さを讃えられたら、そして、広がる妖精の羽の美しさを目の当たりにしたら、誰だってあのハンカチを警戒するだろう。
(それにしても、度胸がすごすぎる……)
ヘンリックが震えていると、くだんのハンカチを作ったコルヴィッツが眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「俺の娘をあそこまで信頼し、生死を共にしてくれる人がいるなんて……エルフリーデ、お前の勇姿を俺は忘れない……素晴らしい人に嫁いだな……」
ちょっと何を言っているのか分からなかったので、咽び泣くコルヴィッツをそのままに、ヘンリックは話を進めることにした。
「えーと、ちょっとお聞きしたいのですが……グレイアム殿、貴女はシュトラウス将軍ではなく、リヒャルト・ケーニッツに狙いを定めて、話を進めていましたよね?」
「えぇ、過去の外交記録で、あの方がリディル王国に敵意はないこと、事を荒立てるのが苦手なことは分かっていましたので」
(外交記録でそんなことまで分かるんだ! すごっ! 怖っ!)
……という本音を飲み込み、ヘンリックは恐る恐る訊ねた。
「もし、リヒャルト・ケーニッツが、ソルヤーグ復興に本気で、あの場で折れなかったら、どうするおつもりだったのですか?」
リヒャルトがソルヤーグ復興に消極的だったからこそ、シュトラウス将軍の大義を失わせることができた。
だが、リヒャルトがソルヤーグ復興に本気だったら、状況は変わっていたはずだ。
ヘンリックの疑問に、ブリジットは美しい微笑を返した。
「その時は、ソルヤーグ復興がいかに無謀なことか、具体的に数字を挙げて説得するまでですわ。ヴァルムベルク城占領の事実がレオンハルト陛下とリディル王国に届き、それぞれが挙兵に要するまでの日数、想定される兵と魔術師の数……今ここで、述べましょうか?」
「そ、そんなに上手くいきますかね……?」
「我がリディル王国はツェツィーリア姫の婚姻を控え、帝国との同盟を強化しております」
そういえば、そんな話を聞いた気がするなぁ。とヘンリックはボンヤリ思った。
ブリジットは琥珀色の目で、ヘンリックを鋭く見据える。
「貴方が想定しているよりずっと綿密に、我が国はレオンハルト陛下と連携が取れる状態にあります。占領されたヴァルムベルクを取り戻すことなど、造作もありません。無論、そのような事態にならぬよう努めるのが、わたくしの仕事ですが」
ヘンリックは真顔で閉口した。
ブリジットの話を聞けば聞くほど、自分の領主としての力不足が浮き彫りになってくる。
「あの……なんか……駄目領主ですみません……」
「兄上」
縮こまるヘンリックに、フリーダが静かに声をかける。
「兄上が駄目領主なのは今更なので、気にしなくて結構です」
トドメだった。
燃え尽きるヘンリックに、ビレンダール卿が咳払いをして告げる。
「ブランケ殿、貴方の勇猛果敢さと陛下への忠義は確かなものです。辺境伯に求められるのは、帝国を裏切らない絶対的な忠誠心。卿はそれを有しておられる」
「ビレンダール卿……」
宴会ではヘンリックを見下していたビレンダール卿が、今は誠意をもってヘンリックと向き合ってくれている。
目を潤ませるヘンリックに、ビレンダール卿は大真面目に告げた。
「あとは、外交力があれば完璧ですな。私の知人の有識者を紹介するので、勉強されるのがよろしい」
「ど、努力します……」
ヘンリックが縮こまっていると、今まで自分の世界に浸っていたレース職人のコルヴィッツが、ジロリとヘンリックを睨んだ。
「あの美しい刺繍の入った上着を血で汚すような男など、駄目人間のクズ野郎に決まっている。俺は職人の作品を無造作に汚す人間を見ると、殺したくなるんだ」
何故自分は、この場に関係のないオッサンにまで罵られているのだろう。
虚ろな目をするヘンリックに、フリーダが淡々と言った。
「名言です。心に刻んでください、兄上」
ヘンリックは知っている。
自分が上着を汚して帰る度に、妹が静かに怒っていることを。
なお、昨晩着ていた上着は血の汚れと損傷が酷く、修繕不能を言い渡されている。
「駄目領主でごめんなさい……いつも上着汚してごめんなさい……」
「兄上」
謝るヘンリックの肩をフリーダがポンと叩く。
「次に上着を汚したら、アヒルのアップリケをつけましょう」
ヘンリックはとうとう両手で顔を覆って項垂れた。
Q:なんでハンカチについてきたオッサンが会議室にいるんですか?
A:娘をブリジットに嫁がせる許可を貰うために押しかけました。この会議の後、無事、嫁ぐことが決まったそうです。