【4】貴方に見せたかった、広い世界
ブリジット・グレイアムは、身内に外交の仕事をしている人間が多い。そのため、子どもの頃から外国の話に触れる機会が多かった。
だから、クロックフォード公爵の屋敷に招かれてフェリクスの話し相手をする時、ブリジットは、父や兄から聞いた外国の話をした。
風土や気候の話、衣食住の文化の話、歴史の話、伝承など。他国の話をすると、フェリクスは水色の目をキラキラさせて、こう言う。
『ブリジットは、物知りだね』
父はよく、「知識をひけらかすな」とブリジットを叱る。それは、慎み深い淑女にあるまじき行為であるらしい。
だけど、ブリジットは決して、自分が物知りだと自慢したかったわけではないのだ。
ブリジットはただ、滅多に外出できないフェリクスに、遠い異国の素敵な物を教えたかった。
フェリクスは本当に体が弱くて、すぐに目眩を起こして倒れるし、ちょっとしたことで熱を出す。外国どころか、少し外出するだけで寝込んでしまうほど病弱なのだ。あの従者が過保護になるのも頷ける。
だけどブリジットは知っていた。本当は、フェリクスが人一倍好奇心旺盛であることを。
いつだったか、絵画の話になった時、フェリクスは言った。
『アルパトラの美術館はすごいんだね。ゴルジの魔物像は怖そうだけど……ミケーレ・ピントの風景画は、一度見てみたいと思ってたんだ』
『ミケーレ・ピントは人物画も有名でしてよ?』
『……うん。でも、私は風景の絵がいいな。広い絵がいい』
広い絵、というのも妙な表現だが、ブリジットにはフェリクスの気持ちがなんとなく分かる。
窓枠から切り取った景色ではなく、丘に立ってぐるりと辺りを見回したような。
あるいは、砂浜に立って、彼方遠くの地平線を眺めるような。
……そして、どこまでも広がる夜空のような。
そういう果てしなく広い世界に、フェリクスは憧れを抱いているのだ。
だから、ブリジットが外国の話をすると、フェリクスは目を輝かせてブリジットを褒め、そして控えめに、もっと聞きたいと話の続きをねだる。それが、ブリジットには嬉しかった。
ブリジットの話が終わると、フェリクスはいつも最後に、独り言のような口調で小さく呟く。
『いつか、行けたらいいな』
『しっかりしてくださいまし、殿下。いずれ、貴方も外交訪問をするのですから』
『……うん、そうだね』
本当はブリジットもフェリクスも、頭のどこかで理解していたのだ。
フェリクスの言う「いつか」は、きっとこない。フェリクスはあまりにも病弱すぎる。外交に出られる体じゃない。
(それなら、あたくしが殿下の分も外交をすれば良いのだわ)
そして、自分の足で赴き、見聞きし、肌で感じたものを──広い世界を、フェリクスに教えたい。
幼い日のブリジットは、そう思ったのだ。
* * *
馬車の窓から見えるのは、緑豊かとはあまり言い難い、まばらに畑がある土地だ。そんな畑の向こう側に、ヴァルムベルク城はあった。
寂れた城だこと──というのがブリジットの率直な意見だ。
石を組んで作ったヴァルムベルク城は、優美さとは無縁の無骨な砦という印象で、外壁や庭園はろくに手入れが行き届いていないように見える。
畑や城の周辺を見ても、若者の姿が少なく、活気があるとは言い難い。
ブリジットは、外交秘書官になってから色々な街や城を見てきたが、その中でもだんとつでヴァルムベルクは寂れていた。
(こんなことで、警備は大丈夫なのかしら)
警備はブリジットの専門外だが、それでも第三王子の秘書官として、気にしないわけにはいかない。
城主のヴァルムベルク辺境伯は剣聖の孫で、勇猛果敢な戦士であると聞くが、警備に割く人がいなければ、何も安心できないではないか。
「アルバート殿下、到着しました。既にビレンダール卿をはじめとした、帝国側の方々は到着されているようです」
御者に声をかけられたアルバートが、強張った顔で「そうか」と頷く。
その顔は目に見えて緊張していた。彼の外交を補佐するのが、ブリジットの役目だ。
ブリジットは拳を握りしめているアルバートに、柔らかく微笑みかけた。
「殿下、参りましょう」
「あ、あぁ! 行くぞ、ブリジット! パトリック!」
「ぐぅ……むにゃ。あ、おはようございます、アルバート様〜」
「パトリック! なんでお前は主人の横で熟睡できるんだ!」
アルバートの従者パトリック・アンドリュースは、緊張しがちな主人にいつもの調子を出させるという意味では、非常に優秀な人物であった。
この調子なら、アルバートは大丈夫だろう。
ブリジットは自身の制服の乱れや、髪のほつれがないかを確認し、背筋を伸ばす。
女性秘書官は、あくまで場を華やかにするための、お飾りの職と思われがちだ。社交界でも外交でも、そういうことはままある。
(帝国側のビレンダール卿は、きっとあたくしをアルバート殿下の弱みと思っている)
少しでも気を抜くことは許されない。
この馬車を降りた瞬間から、ブリジットの戦いは始まるのだ。
(さぁ、外交の時間よ)
* * *
ヴァルムベルク城の執務室で、ヘンリック・ブランケは窓にかじりつき、真っ青な顔で全身に脂汗を滲ませていた。
彼は両手で頭を抱え、震える声を漏らす。
「フリーダ、大変だ……なんかすごいお姫様が来ちゃった」
「兄上、リディル王国に王女はいません」
「いやだって、あれ絶対、高貴な身分のお姫様でしょ。迫力が違うし、只者じゃないって……」
馬車を降りてこちらに向かってくる使節団──ヘンリックはとても目が良いので、その一人一人の顔が見てとれた。
真っ先に目を惹かれたのは、第三王子アルバート殿下の背後に控えている美しい女性だ。
年齢は二十歳ぐらいだろうか。艶やかな金髪をまとめ髪にし、地味な服を身につけているが、それは彼女の美しさを隠すことなく、むしろ非凡な美しさをより強調している。
だが、その容姿の美しさ以上に、真っ直ぐに前を見据える強い目が、ヘンリックの目を惹きつけた。
ああいう強い目をした人間を、ヘンリックは知っている。
「お姫様が来てしまった……わああああ……」
帝国の先帝には、十人以上の姫君がいる。つまりは、黒獅子皇の姉妹達である。
ヘンリックはこの姫君達の何人かと会ったことがあるのだが、まぁ我が強く、押しが強く、圧が強かった。
控えめで心優しいツェツィーリア姫は、本当にあの一族の人間なのだろうか、と失礼ながら疑ってしまったぐらいに、帝国の姫君達は気が強いのだ。そして、大体わがままである。
「お姫様が来ると、ろくなことがないんだよ……竜の鱗でブローチを作りたいから新鮮なのを獲ってこいとか、部下百人と手合わせをしてみろとか……」
「兄上」
「うちの城を悪気なく犬小屋呼ばわりするし、ワインの銘柄の指定は細かいし……もうさ、ワインの違いなんて赤と白で充分じゃん。うちはビール派なんだよ」
「私は、ルシャヴィネの赤が好きです」
「リディル王国で味をしめてきたんだ!?」
オルブライト家がフリーダに良い物を食べさせてくれているようで、何よりである。
「そんなことより兄上、あちらの方はおそらく、ブリジット・グレイアム外交秘書官かと」
妹の言葉に、ヘンリックは「へ」と声を漏らした。
ブリジット・グレイアム。第三王子付きの外交秘書官で、アインハルトが絶賛していた美女で、黒獅子皇がご執心の女性である。
なるほど、彼女はリディル王国王家の人間ではないらしい。だがそれで、「あぁ、良かった」と胸を撫で下ろすことはできなかった。
だって、あの黒獅子皇が執心している女性なのだ。どう考えても只者じゃない。
「あぁ、どうしよう、絹のシーツまでは用意できなかったんだよ……もう、家宝の下に敷いてあるやつ、ひっぺがして持ってくるしか……あれ、実はちょっと血痕ついてるんだよなぁぁぁ……」
「それより、挨拶に行かないとまずいのでは」
「あ、そうだった。うん、行ってくる……あー、気が重い」
ブツブツと呟き、ヘンリックは椅子の背にかけていた上着を羽織った。
ヘンリックの上着は、袖口や襟ぐりに、ヴァルムベルク伝統の刺繍がみっちりと施されている。
凝った刺繍は、生地の綻びや血のシミを隠すためのものだ。
(今回は、平和に終わるといいなぁ……)
血の染み込んだ上着を羽織り、若きヴァルムベルク辺境伯はため息をついた。




