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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝13:沈黙の魔女の隠しごと
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【11】ミントのお茶とビスケット

 夕焼けが港町を橙色に染めていく。

 夜が近い時刻だが、いまだ道を行き交う人は多く、それは灯台に近づくほど顕著になった。皆、灯台で行われる七賢人の魔力除去作業に興味津々なのだ。

 夕方のサザンドールの街を歩くアイザックの足取りは軽く、そして迷いがなかった。

 人の多い大通りを避け、横道に入る彼は、シリルが肩からかけた鞄をチラリと見る。


「ここからは、鞄に気をつけて。特に今日はスリが多い」


「あ、はい」


 シリルが鞄を体にピタリとくっつけると、鞄の中から金と白のイタチが頭をのぞかせた。


「大丈夫。すられそうになったら、凍らせる」


「じゃあ、わたしはひっかくね」


「こら! 勝手に出てくるんじゃない!」


 ピケとトゥーレの頭を、手のひらでソッと押さえていると、アイザックがクツクツと喉を震わせて笑った。


「頼もしいね」


 なんだか、不思議な感じだ。

 彼の声を聞くのは初めてではないのに、面白がっているのを隠さないアイザックの声色に、シリルは困惑する。

 本当に何の含みもなく、周りの印象を操作するためでもなく、ただ楽しいから笑っている声だ。

 目つきの鋭い顔つきは、口を閉ざしていると、なんとなく睨まれているようにも見えるのに、一度口を開くと雰囲気がガラリと変わる。

 そんな彼の顔を凝視しているのも気が引けて、シリルが視線を彷徨わせていると、アイザックの上着のポケットから出てきたトカゲと目があった。

 ウィルディアヌは小さな頭を下げて律儀に礼をすると、そのままアイザックの腕を這い上がって肩に登る。


「マスター、そろそろです。幻影を展開しますか?」


「ありがとう、ウィル。ここは人が少ないから平気だよ。でも、そうだな……シリル、ちょっと壁になってくれ」


「え、えっと……?」


 アイザックは困惑しているシリルを通りの方に押しやり、自身はその背後に隠れた。

 更に、抱えていた敷物を顔のそばにあてがい、俯く。彼の横顔は、丸めた敷物に隠れて見えない。

 ややあって、アイザックは金色の髪を揺らして顔を上げた。そこにあるのは、右目に傷痕のある男の顔ではなく、完璧で美しい王子様の顔だ。

 アイザックの顔が魔力量で変化することはモニカに聞いていたが、実際に目にすると、やはり驚かずにはいられない。

 動揺しているシリルの前で、完璧な王子様の顔になったアイザックは、バスケットから眼鏡を取り出して装着した。


「これでよし、と」


「そ、そちらの顔で出歩いて、よろしいのですか……?」


「これから行く場所は、こっちの方が良いんだ」


 なるほど、きっとこれから向かうのは、高貴な人達が集まる場所なのだろう、とシリルはぼんやり考えた。

 ところがアイザックはどんどん高級住宅街とは逆の方に進んでいく。やがて日が暮れた頃、彼が足を止めたのは、港の近くのありふれた食堂だった。

 中上流階級の人間が使うような店ではなく、酒を求める船乗り達が集う食堂兼酒場のような店だ。

 アイザックは薄汚れた扉を押し開ける。夕食の時間にはやや早いという頃合いだが、店内の席は殆ど埋まっていた。いずれも船乗りらしき、日焼けした大柄な男達ばかりだ。その内の何人かがアイザックに声をかけた。


「なんだ、生きてたのか、ウォーカー」


「お互いにね」


「今日はお上品なの連れてるじゃねぇか!」


「そうだよ、彼は僕と違ってお上品だから、苛めないでくれ」


 話しかけてくる男達に気安い言葉を返し、アイザックはズンズンと店の奥へ進む。

 そんなアイザックの前に、酔っ払いの一人が足を突き出した。足を引っ掛けようとしたというより、単純に足止めなのだろう。

 アイザックが足を止めると、酔っ払いは片手でジョッキを掲げ、空いた席を親指でクイと差し示した。


「ウォーカー、この間の雪辱戦だ。今夜はとことん付き合わせるぞ。テーブルにつけ、オラ」


「お生憎様。今日は大事な用事があるんだ」


「馬鹿野郎、俺との勝負以上に大事な用事があんのか!」


「その台詞、『勝負』を『記念日』にして、奥さんに言ってあげるといい。ジョッキではなく、花束を添えて」


 冗談まじりのアイザックの言葉に、周囲の酔っぱらい達がワッと湧き上がる。


「ウォーカーこの野郎!」


「クソタラシ!」


「お前なんて、とっとと振られちまえ!」


 ある者は赤ら顔でゲラゲラ笑い、ある者は楽しそうにジョッキを傾け、ある者は気さくにアイザックの肩を叩く。

 見境のない酔っぱらいの中には、シリルの肩を叩く者もいた。楽しければ、誰でもいいのだろう。

 シリルは己の肩を叩く船乗りに、ぎこちなく話しかけた。


「えぇと……は、繁盛しているのですね」


「船が壊れちまったからな。みんな仕事ができねぇんだよ」


 その言葉にシリルはハッとした。

 今回の騒動で、一番の被害を受けたのが船乗りだ。

 港に集まった水竜は、既に〈竜滅の魔術師〉が追い払ったが、それでも船がいくつも破壊されていたらしい。

 被害の規模を考えれば、ここにいる者達は皆、職を失ってもおかしくないのだ。

 シリルが強張った顔で俯いていると、船乗りの一人が声をあげた。


「だけど、来週辺りからは忙しくなるぞぅ。なにせ、エリン公が船の支援をしてくれるらしいからな」


 え、と呟きシリルはアイザックを見る。

 アイザックは──美しい顔のエリン公爵は、人差し指を口元にあてて微笑んだ。


「今日の午前中にエリン公が直接やってきて、領主と船主達に話をつけたんだとよ。近い内に、船大工を寄越してくれるそうだ」


「あそこって、造船の権利で、職人と領主がもめてたんじゃなかったか?」


「領主が代わってからは、上手くいってるらしいぜ。ほら、御隠居王子の」


「あー、はいはい、フェリクス殿下か」


「船の貸与もしてくれるんだとよ。船主に契約書を見せてもらったんだが、貸出料が安すぎてビビったぜ、俺は」


「高貴なお方の施しってやつかねぇ」


 アイザックは「景気の良い話だね」と美しい顔で、穏やかに笑っている。

 シリルは何かを言おうとして、口を閉ざした。

 シリルは知らなかった──否、今までちゃんと見ていなかったのだ。アイザック・ウォーカーという青年を。

 酔っぱらいを相手に軽口を叩きあう彼も、人知れず鮮やかに問題を解決してしまう彼も、どちらもシリルが尊敬するアイザック・ウォーカーなのだ。

 アイザックは何かに気づいたような顔で壁際のテーブルに近づくと、黒髪の男に声をかけた。船乗りというより武人然とした、厳つい大男だ。


「アントニーさん、ご無事でしたか」


「うむ、昨日目覚めたばかりだ!」


 このアントニーという男とアイザックは知り合いらしい。アイザックの声には、どこか気遣うような響きがある。


「弟さん達は?」


「全員ピンピンしている。だが……」


 アントニーは顔を曇らせると、太い眉をぎゅぅっとひそめ、苦悶の表情で言った。


「末の弟が失恋してな。……弟は何度でも決闘し、また失恋しに行くのだと言う」


「それは……事情は分かりませんが、真っ直ぐな弟さんなんですね」


「あぁ。それで今、他の二人が慰めているところだ」


 シリルは、このアントニーという男のことを詳しく知らないが、家族の話をするぐらいアイザックと打ち解けているらしい。

 アントニーは苦いものを振り払うかのように笑い、アイザックの肩を大きな手で叩いた。


「だが、ウォーカーよ。たとえ末弟の恋が成就せずとも、俺がお前を弟のように思う気持ちは変わらん」


「失礼。弟さんの失恋話から、どうしてそんな話に?」


「いつでも、俺を頼るがいい。わはは!」


「はぁ、どうも」


 アイザックは曖昧に笑い、アントニーの横をすり抜け、店のカウンターの中に勝手に入っていく。

 シリルがオロオロしていると、アイザックが振り向いて手招きをした。


「大丈夫だよ、店長に話は通してあるから」


「はい……あの……一体、どこに」


「言っただろう。特等席だって。──店長、お湯をもらうよ」


 大柄な店長が、勝手にしろとばかりに無言で片手を振る。

 アイザックはバスケットの中からポットを取り出すと、そこにお湯を注いだ。

 ポットには既に茶っ葉を入れていたらしい。ふわりと立ち上った湯気からは、ほんのりとミントの香りがする。

 アイザックはポットを布で包んでバスケットに戻すと、カウンターの奥にある通路を進み、変装用の眼鏡をバスケットにしまう。

 そして、階段を上った先にある小窓を開けた。


「シリル、これを持っていてくれ」


「えっ、は、はいっ」


 アイザックは丸めた敷物とバスケットをシリルに押し付けると、小窓の窓枠に足をかけた。

 ギョッと目を剥くシリルの前で、アイザックは窓の外に身を乗り出し、小窓の上の方にあるでっぱりに指をかける。そうして懸垂の要領で自身の体を持ち上げた。

 第二王子の美しい顔をした男が、お行儀悪く窓から屋根によじ登る光景に、シリルが絶句していると、窓の上の方からアイザックの腕が伸びてきた。


「シリル、敷物とバスケット!」


「ど、どうぞ!」


 シリルはお茶の入ったバスケットが傾かぬよう、慎重に手渡す。

 アイザックが敷物とバスケットを引き上げたところで、シリルの鞄から二匹のイタチが飛び降りた。


「シリルは絶対登れない」


「わたし達が、引き上げるね」


 悔しいがピケの言う通りなので、シリルはムッと黙り込む。

 トゥーレとピケは、イタチの姿で屋根の上に移動すると、そこで人の姿に化けたらしい。小窓の上の方から、民族衣装を着た腕がニュッと伸びてきた。


(こんな窓から、出入りなどして良いのだろうか……)


 生真面目なシリルは数秒葛藤したが、えぇいと覚悟を決めて、窓枠に足をかけた。

 二階の窓枠に足をかけるのは、高所恐怖症でなくとも、それなりにヒヤリとする行為である。シリルが緊張しながら、窓の外に出ると、人の姿になったトゥーレとピケがシリルを軽々と引き上げた。

 屋根の上は意外と平たく、それなりに広さがある。走り回れるほどではないが、アイザックが持参した大きな敷物を敷いても、少し余裕があるぐらいの広さだ。

 見上げた空は既に夜の群青に染まっていて、雲一つない空に星が瞬いている。

 シリルは、バスケットからポットやカップを取り出しているアイザックに、恐々と訊ねた。


「ここが、貴方の言う特等席ですか?」


「そう。モニカが灯台で土地の魔力の吸い上げをするのなら、まず間違いなく海ではなく、街の方を向いた窓辺に立つだろう。特に魔力汚染の酷い、港から倉庫街にかけての方角だ。できるだけ近くで見たいけれど、あまり近すぎても全体が見づらくなる。諸々を考慮した最適の鑑賞場所がここなんだ。どうしても特等席で見たくて、店長に交渉したんだよ。何事も言ってみるものだね」


 アイザックは茶の用意をしながら、流暢な口調で話す。分かりやすくウキウキと弾んだ、喜びを隠さない声だ。

 シリルがじっとアイザックを見ていると、茶の用意をしていたアイザックは顔を上げ、いたずらっぽく笑った。


「アイザック・ウォーカーは不良で、わがままなんだ。覚えておいてくれ」


「不良で、わがまま……」


「夜遊びの常習犯だよ。嫌いになった?」


「いっ、いいえ!」


 シリルはブンブンと首を横に振る。

 正直、驚きの連続だし、調子を乱されっぱなしだしだが、心から楽しそうにしているアイザックを見ていると、ホッとするような、ムズムズするような、不思議な気持ちになるのだ。

 そして、それは決して嫌な気持ちではなかった。


「そう、良かった」


 アイザックはホッとしたように微笑み、上着のポケットを軽く叩いた。


「おいで、ウィル。今回の功労賞である君に、とっておきの席を進呈しよう」


 戸惑うようにポケットから出てきた白いトカゲを、アイザックは指先に移し、そのまま己の頭の上にちょこんと乗せる。

 それを見ていたトゥーレとピケが、ジッとシリルの頭頂部を凝視した。


「とっておきの席だって」


「精霊王を呼んだわたしに、功労賞」


 成人男性に化けたトゥーレがコトンと首を傾け、若い娘に化けたピケが得意気に胸を張る。

 シリルは渋面で首を横に振った。


「イタチの姿でも、二匹は重い。諦めてくれ」


 シリル達のやりとりを聞いていたアイザックが、クツクツ笑う。頭にトカゲを乗せた彼は、カップに注いだ茶をシリルに差し出した。

 小声で礼を言って受け取り、シリルは熱い茶にフゥフゥと息を吹きかける。湯気から立ち上るのは、清涼なミントの香りだ。

 アイザックは追加で二つのカップを取り出し、茶を注ぐと、トゥーレとピケを見る。


「君達には、冷めてからがいいかな」


「大丈夫、自分で冷ます」


 ピケがカップを二つ手に取る。その手元から水色の光の粒子が溢れ、白いモヤがカップを包んだ。そうして霜のおりたカップを、ピケはトゥーレに手渡す。

 トゥーレは冷えたお茶を一口飲むと、アイザックとピケを交互に見て、おっとり微笑んだ。


「ありがとう。おいしいね」


 アイザックは「どういたしまして」と返すと、バスケットからビスケットを取り出してかじった。その横顔は、何かを懐かしんでいるようにも見える。

 シリルはぎこちなく口を開いた。


「貴方は……」


「うん?」


 アイザックがビスケットを飲み込み、シリルを見た。

 シリルは、彼に訊きたいことが沢山ある。

 自分は知らなくて良いことだと、目を背けていたことも、山ほど。


(あぁ、そうだ。私は頭のどこかで、この方を理解できなくて構わないと思っていたんだ)


 人間臭さや泥臭さは、知らない方が崇拝するのに都合が良かった。

 だから、アイザックのそういう一面から目を背けていた──それが、シリルの狡さだ。


「アイクは、ミントのお茶が、お好きなのですか?」


「子どもの夜ふかしには、必須だろう」


「ミントのお茶で、夜ふかしをしたことが?」


「言っただろう。夜遊びの常習犯なんだ。そうやって、幼い王子様と星を見た」


「アイクは、星が好きなのですか?」


「僕ではなく、親友がね。星を見に行こうと、よくねだられた」


 アイザックはミントが香る手元のカップを見下ろし、小さく苦笑した。


「すまないね。少し、感傷に浸りすぎた」


「いいえ、いいえ」


 首を横に振り、シリルは考える。

 もっと聞かせてください、教えてください、貴方のことを知りたいのです──そんな自分の気持ちを、アイザックに寄り添う形で伝えるにはどうしたらいいだろう。

 シリルは思いつき、お茶のカップを片手で掲げる。

 アイザックに絡んでいた酔っぱらいの、ジョッキを掲げる仕草を真似たつもりだった。


「今夜は……と、とことん付き合います!」


 慣れないことをしたら、段々と恥ずかしくなってきた。

 居た堪れなくなったシリルがカップを掲げたまま視線を彷徨わせていると、アイザックは美しい王子様の顔で、フハッと息を吐いて笑う。


「そうだね、とことん付き合ってもらおうか」


 そう言って、アイザックはシリルが掲げたカップに自身のカップをぶつけた。


特等席のウィルディアヌ(……アシュリー様、お気をつけください。マスターのとことんは、本当にとことんです)

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