【6】今に見てろよ、この野郎
昨日の騒動で熱にうなされていたシリルだったが、今朝飲んだラウルの薬湯が効いたのか、昼を過ぎた頃には、食欲が戻ってくるぐらいには回復した。
まだ熱はあるし、全身がだるいが、それでも今朝までと比べたらだいぶマシだ。
トゥーレとピケは相変わらずイタチの姿のままで、ピケはシリルの額を冷やし、トゥーレは腹の辺りを温めてくれている。
少し重いし、寝返りが打てないのは困りものだが、段々とその重さにも慣れてきた。
なにより、生き物が寄り添っている感覚は、弱っていた心を少しだけ癒してくれる。だからシリルは、小動物に触れるのが好きだ。
(熱が下がったら……王都と義父上に報告に……いや、まずは、サザンドールを発つ前に、モニカとあの方に、挨拶を……)
世話になった人間に挨拶をしない、などという選択肢は、シリルの中に存在しない。
だが、モニカやアイザックと顔を合わせた時、どんな顔をして、何を言えば良いのかが分からなかった。
悶々と悩んでいると、また頭が痛くなってきた。また熱が上がってきたのかもしれない。
水が飲みたい、と思ったその時、コンコンとノックの音がした。扉が開き、誰かが室内に入ってくる足音がする。それと、食欲をそそる良い匂いも。
(ラウルか……)
シリルは額にピケを乗せたまま、頭を扉の方に傾ける。
視界はピケの体で塞がれているが、ほんの少しだけ男性物の服が見えた。
「すまない、水を……」
額に乗ったピケをどけて、上半身を起こそうとしたシリルは、頭を枕から浮かせた中途半端な姿勢のまま硬直する。
「お水をどうぞ、アシュリー様」
そう言ってグラスに入った水を差し出すのは、右目の上に傷痕のある金髪の青年──アイザック・ウォーカーであった。
「え、あぇっ、で、でんっ……」
シリルが嗄れた声で呻くと、最後の「でんっ」の辺りで、アイザックの笑みが冷ややかになる。
鋭い目つきの彼がそういう笑い方をすると、それだけで、フェリクス殿下の顔にはない威圧感を感じた。
「そのままの体勢では飲みづらいでしょう。失礼いたします」
枕から頭を浮かせた中途半端な体勢で固まっていたシリルの背中に、アイザックが手を伸ばす。
そして、軽々とシリルの上半身を起こすと、改めて水のグラスを差し出した。
「どうぞ」
「あ、あ、あの……たっ、大変、申し訳、ありませ……」
「あぁ、どうぞ無理に喋らないでください。喉も痛めているとお聞きしました」
アイザックはチラリとテーブル横に目を向ける。そこには、シリルの荷物鞄が置いてあった。モニカの家に置きっぱなしにしていた物だ。
「レディ・メリッサに、アシュリー様が体調を崩されていると聞き、荷物をお届けに参りました。それと、一応食事もお持ちしましたが、食べられますか?」
「あ、あの、でん、アイ、ザック、さん……」
「はい、どうされましたか、アシュリー様。僕にできることがあったら、なんなりと仰ってください」
シリルの口から、ヒィィと声が漏れる。
真っ青になってガタガタ震えるシリルの手元で、〈識守の鍵ソフォクレス〉がムフーと満足気な声を発した。
『識者に敬意を払うとは、実に感心である。心を入れ替えたのであるな、パイ職人』
「ソフォクレス、待て、違う、この方は……っ」
『ムハハハハ! いいぞいいぞ、もっとかしずけー』
「ソフォクレ……ぅぇっ、げほっ」
シリルは背中を丸めて咳き込んだ。まだ喉が本調子ではないのに、大声を出したせいだ。
シリルが咳き込みながら、ヒューヒューと苦し気な呼吸を繰り返していると、アイザックが「大丈夫ですか?」と労わるようにシリルの背中をさすった。シリルの寿命が更に縮んだ。
アイザックはシリルの手元に視線を落とし、さも何かに気づいたような顔で「おや」と呟く。
「その指輪、少し汚れているようですね。僕が磨いておきましょう」
『とうとう吾輩にも敬意を示すようになったであるな。うむうむ、良きにはからうのである! あと、吾輩を磨くなら、若い娘に……』
アイザックはニコリと微笑み、シリルの指から指輪を抜き取ると、ポケットから何かを取り出した。
磨き布ではない。金属製の細い棒状のそれは、目の荒いヤスリである。
『……ひょぇっ』
アイザックはポケットからハンカチを取り出し、黙り込んだ指輪をグルグル巻きにしてシリルの鞄に放り込んだ。流れるような手際だった。
〈識守の鍵ソフォクレス〉が放り込まれた鞄から、入れ違いのように黒い猫がピョコンと頭をのぞかせる。
その金色の目を見て、シリルは更に体を強ばらせた。
掛け布団の上で伸び伸びしていた白いイタチのトゥーレが、体を起こして黒猫を見据える。
黒猫が、人間じみた顔でニヤリと笑った。
「よぅ、白いの」
「こんにちは、黒いのさん」
アイザックにかしずかれるのとは別の意味で、シリルの肝が冷えた。
ここにいるのは魔法生物の中でも一級危険種である黒竜と、その天敵の白竜なのだ。
黒猫は鞄から上半身を出した姿勢のまま、尻尾をユラリと振った。
「一応、名乗っておいてやる。モニカの使い魔でウォーガンの黒竜、ネロ様だ。バーソロミュー・アレクサンダー様でもいいぞ」
やはり、ウォーガンの黒竜。あれは、かつてモニカが撃退したことになっている竜なのだ。
シリルが固唾を飲んでいると、トゥーレがいつもと変わらぬ口調で言う。
「初めまして。シリルの契約竜で、カルーグ山の白竜トゥーレだよ」
「白いの。さてはお前、結構前からオレ様の存在に気づいてたな?」
「どうだろうね、黒いのさん」
名乗っておきながら互いに名を呼ばぬ黒竜と白竜は、しばし無言で見つめ合う。
先に口を開いたのは、黒竜だった。
「別に追い回したりしねぇから、安心しろよ。オレ様、別にお前らに興味ねぇし」
「わたしも、自分の縄張りを荒らされなければ、それでいいよ」
そう言って、トゥーレは金色の目でシリルとピケを見る。
「ここが、わたしの縄張りだ」
黒猫は、笑うみたいにニャーウと鳴いて、窓から外に出ていった。これで用は済んだと言わんばかりの態度だ。本当に、シリルに興味はないのだろう。
実はちょっと撫でたかった、という本音を隠し、膝の上に乗ったトゥーレを撫でていると、ベッドの上でじっとしていたピケが、アイザックを見上げて言った。
「眼帯がない」
「本当だ。眼帯さんって呼べないね。なんと呼べばいいのかな?」
ピケとトゥーレの言葉に、アイザックは「あぁ」と思い出したように右目の上を指でなぞる。
初めて見た時もギョッとしたが、何度見てもいたましい傷痕だ。彼はもう、それを隠さない──きっと、隠す必要がないのだ。
アイザックは二匹のイタチを見下ろし、言った。
「君達さえよければ、アイクと」
「アイク」
「アイク」
イタチ達が、アイク、アイクと連呼する。
いよいよシリルは気まずくなった。寿命がゴリゴリとヤスリで削られている心地がする。
シリルが無言で震えていると、アイザックは水を張った桶に綺麗な布を浸して絞った。
「看病には慣れているんです。以前仕えていた主人が、病弱な方だった」
その言葉に、シリルはハッと息を呑む。
シリルは知っているのだ。アイザック・ウォーカーがかつて仕えていた主人の名を。
この人は今、心の奥にある、大事な部分を見せてくれている。
そのことが、シリルには酷く申し訳なかった。
(私は優しくない、ずるい人間だ。あさましい見栄のために、貴方を利用した……)
シリルが黙り込んでいると、アイザックがテーブルに乗せた盆に目を向けた。
「体を拭きますか? それとも、食事を先に?」
「あの……も、申し訳ありませんでした。……どうか、どうか、お許しを……」
「食べさせてさしあげましょうか?」
アイザックは匙を手に取り、目を細めて冷ややかに微笑んだ。あれは、無能な部下を切り捨てる上司の冷笑だ。
表情と言動の乖離具合に、とうとうシリルはベッドの上で平伏した。
「お許しくださいぃぃぃ……っ!」
* * *
頑固者め。とアイザックは匙を片手にシリルを見下ろす。
イタチ達ですら、アイクと呼べているのに、どうしてこの男にはそれができないのか。
シリルはベッドの上で平伏したまま、震える声で言う。
「私は……貴方に、そのようなことをしていただく、価値のある人間ではないのです……」
シリルの悪い癖だ。すぐに自分の価値を低く決めつけて、斜め上の努力を始める。
そのことをアイザックが指摘しようか迷っていると、シリルは途切れ途切れに、言葉を続けた。
「私は貴方に、手の届かない存在でいてほしかったのです。その方が都合が良かった……すごい人に認められた、シリル・アシュリーでいられた、から……」
震える指が、バサバサに乱れた銀髪をグシャリとかき乱す。
「申し訳ありません……私は、優しくない……あさましい、人間です……」
二匹のイタチは何も言わず、ただアイザックを見上げていた。アイザックの答えを待つように。
アイザックはふぅっと息を吐き、手にした匙をテーブルに戻した。
「君を利用したのは僕なのに、どうして君が謝るんだろう」
「ちが……っ、違いますっ、私が、貴方を、利用して……っ」
シリルが勢いよく顔を上げる。グシャグシャの顔に、乱れた銀髪がかかって酷い有様だ。
前髪の隙間から覗く青い目には、葛藤と罪悪感が透けて見える。
「僕も君を利用したよ。君が僕を信頼し、尊敬するように仕向けた」
「違いますっ、違いますっ、私は、本当に、貴方を尊敬して……っ!」
「じゃあ、お互い様ということでいいじゃないか」
シリルは困ったような顔をしていた。
長年抱え続けてきた葛藤や罪悪感は、そう簡単に晴れたりはしないのだ。そのことを、アイザックはよく知っている。
だからまぁ、もう少しだけ待ってやろうではないか。
「友人の僕を、アイクと呼んでくれるかい?」
シリルは眉を下げ、グシャグシャの顔でぎこちなく笑った。
「……鋭意努力いたします」
「言い間違えたら、頬が伸びるのは覚悟しろ」
「う……」
アイザックは手近な椅子に腰を下ろすと、足を組んで座る。
ネロが出ていった窓から心地の良い風が吹いて、カーテンを揺らした。
揺れるカーテンの隙間から差し込む日の光が、グシャグシャの銀髪をキラキラと照らす。
アイザックは眩しさに目を細めながら、呟いた。
「君は自分が優しくないと言うけれど……君は優しい人間だよ、シリル・アシュリー」
自分にも他人にも厳しいシリルは、自分が優しくない人間だとすぐに決めつける。
まったく鈍い男だ。
彼が優しくない人間なら、どうしてあんなにも、いろんな人に慕われているというのか。
モニカが切ない目で彼を追いかけるのも、アイザックが恋敵を憎みきれないのも、シリルが優しい人間だからだというのに。
アイザックは組んだ足の上で指を組み、シリルを真っ直ぐに見据えて告げる。
「だから、いつまでも足踏みしていないで、さっさと自分の気持ちと向き合ってくれないか。このままでは、ライバル宣言もできやしない」
「ラ、ライバル? 私が、貴方の? それは、あまりにも恐れ多い……」
恐れ多いなんて言ってる場合じゃないぞ、シリル・アシュリー。
何一つ諦める気のないアイザックは、当然に、自分の恋心だって諦める気はないのだ。
「僕はその気になれば、もっとずるくなれるのだけど……君を相手にずるいことをすると、負けた気になるから、あまりやりたくないんだ」
「……? あの、ずるい、とは? 貴方の戦略は、決してずるいことでは……」
シリルはしばし困惑していたが、次第にアイザックの言葉が飲み込めてきたらしい。
彼はギュッと唇を引き結び、己の胸元を握りしめた。
「分かり、ました」
そう言って、シリルはゆっくりと顔を上げる。
今のシリルは、罪悪感と葛藤で憔悴していた彼じゃない。
その目に決意の輝きを宿し、丸めていた背中を伸ばした姿は、いつものシリル・アシュリーだ。
シリルは美しい青い目で真っ直ぐにアイザックを見つめ、告げる。
「こういうことは、エリオットの方が向いていると思うのですが……」
嫌な予感がした。
「貴方がチェスのライバルを所望されているなら、相手になれるよう、全力を尽くします!」
「誰がチェスの話と言った」
アイザックは椅子を鳴らして立ち上がり、容赦なくシリルの頬をつねった。無論、両側である。
「アイク、シリルの頬が伸びてしまうよ」
「ちぎれそう」
「あいふっ、いひゃいでふっ、あいひゅっ!」
イタチ達の声と、シリルの悲鳴じみた声を聞きながら、アイザックは恋敵をギロリと睨みつける。
「今に見てろよ、この野郎」
とうとう声に出た。
ヤスリは、この後の展開の伏線でも布石でも隠し武器でもありません。
純度100%ソフォクレスを脅すためだけに、魔術師組合の工具箱から借りてきました。




