【ヒルダ・エヴァレットの三分間(で全てを台無しにする)クッキング】
実験着を身につけたヒルダ・エヴァレットは、最近引き取った養女のモニカに問いかけた。
「実験用の精密天秤を使う時の注意事項は?」
「平らなところで使う、のと、素手で触らない、です」
「素手で触ってはいけない理由は?」
「皮脂で、器具が錆びたら、正確な計量が、できないから、です」
「よくできました」
ヒルダがニッコリ微笑むと、モニカは恥ずかしそうにうつむき、指をこねる。
モニカはその容姿も、辿々しい喋り方も、十二歳という年齢の割にだいぶ幼い。
……それでも引き取った直後に比べたら、だいぶ良くなったのだ。
ヒルダがモニカを引き取ったばかりの頃、モニカは酷く痩せていて、固形物を食べるのも難しい程に衰弱していた。なにより、今以上に言葉が拙かった。
言葉よりも数字の方が流暢に口をついて出るぐらい、モニカは人の言葉を忘れていたのだ。
モニカは数字が好きなのね、とヒルダが言えば、モニカは無表情でこう言った。
──だって、すうじは、こわくないから。
ヒルダは言葉を失った。
数字は怖くない──それは裏を返せば、モニカにとって言葉は怖いものだということを意味している。
沢山の心無い言葉に傷ついてきた少女は、言葉を忘れて数字の世界に閉じこもることで、自分を守ってきたのだ。
ヒルダはモニカのことを幼少期から知っている。
確かにモニカは、幼少期から絵本よりも数字に興味を示す子どもではあったけれど……それでも、ちゃんと笑うことができる子どもだったのだ。
なんとかしたい、と思った。
そのために大事なのは、やはりヒルダがモニカと信頼関係を築くことだ。
信頼関係を築くには、何かしらの共同作業をするのが一番。
そこでヒルダが選んだのが、コレだ。
「このお菓子作りの入門書には、こう書かれているわ『菓子作りとは、計量が命である』……と」
ヒルダは、実験用の精密天秤を使って計量した材料を眺め、力強く断言する。
「つまり、計量を完璧に終えた私達は、最早このクッキーを完成させたと言っても過言ではないわ」
過言である。
だが、ヒルダは自信に満ちた顔で、モニカに本を差し出した。
「さぁ、次の工程に移りましょう。レシピを読んでくれるかしら?」
「はい。えっと……次は、バターに、お砂糖をいれて、よく混ぜます」
ヒルダはボウルにバターと砂糖を入れて、木ベラでこねようとした。
だが、今日は寒かったためにバターはまだ硬く、なかなか混ざらない。
モニカが心配そうにボウルの中を見ているので、ヒルダはモニカを安心させるべく、大人の余裕に満ちた顔で言った。
「こういう時はね、こうするのよ」
ヒルダは湯をはった鍋の上に、バターと砂糖を乗せたボウルを乗せて、湯煎にかけた。
バターがデロデロに溶け、砂糖と混ざり合っていく。
どうせ、オーブンに入れたらバターなんて溶けるのだ。なら、ここで溶けても問題なかろうと結論づけて、ヒルダはモニカを見た。
「これで混ざったわ。さぁ、次は?」
「えっと、溶き卵を、数回に分けて、入れて、よく混ぜます」
ヒルダは指示通り、溶き卵を数回に分けてボウルに注ぎ、ぐっちゃぐっちゃとかき混ぜる。
クッキーの生地がこんなにドロドロしていて良いのだろうか、とちょっぴり疑問に思わなくもなかったが、まぁ粉を入れれば、きっと良い具合にまとまるはずだ。
「できたわ。次は?」
「えと、次は、粉をふるい入れる、です」
「粉をふるい入れる、ね」
復唱し、ヒルダは小麦粉をむんずと掴んだ。
そして大きく腕を振り上げ……。
「ふんっ!」
ボウルに叩きつけるように粉を入れた。
ぼふん、と小麦粉が舞い上がり、上半身が粉まみれになるが、気にせずヒルダは小麦粉を掴んでは振るい入れ、掴んでは振るい入れていく。
そうして粉を全て投入したヒルダは、粉まみれの顔でモニカに告げた。
「……けほ。良いことモニカ。この工程で重要なこと……それは、換気よ」
「換気」
ヒルダは頷き、キッチンの窓を全開にした。
北風がピィプゥと吹き込んできて、寒いことこの上ない。
「可燃性の粉末が空気中に一定濃度で浮遊している時に火を扱うと、燃焼の伝播により爆発が起こるの……私はそれで以前、生死の境を彷徨ったわ」
「お、お菓子づくりって、こわいんです、ね」
「大丈夫。正しい手順を守れば、きっと美味しく作れるわ」
この時点で、既に色々と守れていないのだが、ヒルダは気づいていない。
「さぁ、怖がらずに次の工程に進みましょう。次はどうすると書いてあるかしら?」
「えっと……粉を切り混ぜる、です」
「なるほど、切り混ぜるのね……これは危険な作業だから、モニカは少し離れていなさい」
ヒルダは木ベラを置くと、包丁を刃が下向きになるように握りしめ、包丁の刃でガッチャガッチャとボウルをかき混ぜた。
なお、切り混ぜるとは、ヘラでさっくりと切るように混ぜることである。間違っても包丁で切りつけながら混ぜることではない。
「さぁ、生地が出来たわ! あとは、これを伸ばして型で抜いて焼くだけなのだけど……考えてみれば、うちに抜き型なんて無かったから、適当に伸ばして切ればいいわね」
ところどころデロンデロンしているダマだらけの生地を、ヒルダは手のひらで雑に伸ばしていく。
「モニカも一緒にやりましょ」
「はい!」
モニカはヒルダに倣って、手のひらで生地をペタペタと広げた。この手の生地を捏ねる作業というのは、案外楽しいものである。二人はしばし、無心で生地を伸ばす作業に集中する。
そうして二人がかりで生地を広げ終えたところで、ヒルダは気がついた。
オーブンなんてもう何年も使っていないから、埃と油汚れのせいで、とても使えるような状態ではないのだ。
「こういう時も、焦らず騒がず。できる女は、座標軸を固定した極小火炎魔術で解決よ」
ヒルダが短縮詠唱で火を起こすと、モニカは珍しく顔を上げて、ヒルダの顔をじぃっと見上げた。
「ヒルダさん、すごい、です」
同年代の子どもに比べれば、酷くぎこちなかったけれど、それでもモニカの顔には尊敬の輝きが宿っている。
それをくすぐったくも嬉しく思いながら、ヒルダは微笑んだ。
目の前のクッキーになる予定だった物体が、ブスブスと黒い煙を上げていることに気付かぬまま。
* * *
「モニカ、ネロ、クッキーが焼けたよ。お茶にしよう」
アイザックの声に、モニカは大慌てでレポートの最後の一文にペンを走らせる。
本棚の上でうたた寝をしていたネロは、するりと本棚から下り、人間に化けて椅子に腰掛けた。
最近のネロは、菓子の類を食べる時は人間形態になることが多い。この方が食べやすいのだという。
ネロは椅子にもたれながら、机に皿を並べるアイザックを見上げた。
「お前にネロって呼ばれるの、まだ慣れないな。なんかムズムズする」
「じゃあ、バーソロミュー・アレクサンダー氏にするかい?」
「先輩にしろ、先輩。モニカのそばにいる時間なら、オレ様の方が長いからな。先輩と呼んで敬え」
「キミがボクの名前を覚えてくれたら、考えようかな」
「キラキラのくせに生意気な」
ネロはアイザックを睨みながら、クッキーを並べた皿に手を伸ばす。
だが、ネロの指先がクッキーをつまむより早く、アイザックがさっと皿を遠ざけた。
ネロは唇を尖らせて、まだレポートを書いているモニカを見る。
「モニカ、まーだーかーよー。オレ様、腹へったー」
「うん、ちょっと待って………………できた!」
モニカがパッと顔を上げると、アイザックは流れるような仕草でモニカの手から羽ペンを抜き取り、ペン立てに戻す。
そして、コーヒーのカップをモニカの前に置いた。
「どうぞ、召し上がれ」
「はい、いただきます」
モニカはコーヒーを一口飲んでから、アイザックが作ったクッキーをつまむ。
中心にジャムを乗せた花形のクッキーは、サックリとして美味しかった。セレンディア学園の茶会の席で使用されてもおかしくないぐらい、上品な味わいである。焼き色も申し分ない。
モニカがちょっとずつクッキーを齧っている横で、ネロもバクバクと勢いよくクッキーを口に放り込んでいく。
「このサクサクうめーよな。甘いのもいいけど、この間作ってた塩味のやつの方が、オレ様好みだ」
「あぁ、チーズを練り込んだ塩味の。あれはワインにも合うんだよ」
アイザックはおっとりと相槌を打って、自身もクッキーを一枚齧る。そして小声で「まずまずかな」と呟いた。
アイザックは「まずまず」なんて言うけれど、モニカに言わせてみれば非常に素晴らしい出来栄えである。
モニカはクッキーを焼くことがいかに大変かを、よく知っているのだ。
「アイクはすごいです。お菓子作りって、すごく、すごく、すごく、大変で、難しいのに」
やけに噛みしめるような口調で言うモニカに、アイザックが瞬きをして首を傾ける。
モニカはじっとアイザックの服を見た。
モニカの知る限り、クッキー作りとは非常に服が汚れる作業である。特に、粉をふるい入れる時。それはもう粉が飛び散るものなのだ。
だが、アイザックの服は全く汚れていない。
「アイクは、粉をふるい入れるのが、上手なんですね……あっ、でも、粉塵爆発には気をつけてくださいね」
「………………うん?」
アイザックが粉を握りしめて、勢いよくボウルに叩きつける姿を想像しながら、モニカは「換気は大事です」と大真面目に呟いた。
ヒルダ・エヴァレットの頓珍漢クッキング。
良い子は絶対に真似しないでください。