【5】コウモリの君
フリーダ・ブランケがオルブライト家に滞在して五日が経った。
日の出より早く目覚めたフリーダはベッドを抜け出すと、寝間着姿のまま窓辺に立つ。
そうしてしばらく待っていると、どこからともなく一匹のコウモリが飛んできた。猫ぐらいはありそうな、大型のコウモリだ。
コウモリはフリーダの部屋の窓付近に近づくと、足に掴んでいた手紙を窓辺にそっと落とす。
「今日もありがとう」
フリーダが声をかけると、コウモリはまるで人間の言葉を理解しているみたいにキィッとひと鳴きして、どこかへ飛び去っていった。
フリーダはコウモリが運んできた手紙を広げる。
手紙には少し癖のある字で、簡潔にこう書かれていた。
『二階の物置部屋の本棚の影は、隠れ場所に最適です。ババ様に虐められたら、ここに隠れるといいです』
フリーダは手紙をひっくり返したが、宛名も差出人も書かれていなかった。
差出人には、まぁ心当たりがあるのだけど、フリーダは暫定的に〈コウモリの君〉と呼んでいる。
〈コウモリの君〉からの手紙は、フリーダがこの屋敷に滞在した翌日から、毎日欠かさず届けられていた。
今日みたいに手紙だけの日もあれば、お守りやら薬やらが同封されている日もある。
昨日なんて『水虫になる呪いをかけられたら、使ってください』というメッセージと共に、塗り薬が同封されていたのだ。
今のところフリーダは、アデラインに苛められてもいないし、水虫になる呪いもかけられていない。
〈コウモリの君〉の心配は完全に杞憂なのだが、この頓珍漢な気遣いが割と微笑ましかったので、フリーダは小さく微笑み、手紙を小物入れにしまった。
* * *
滞在中は好きにしていいと言われていたので、フリーダはここ数日、暇さえあれば屋敷の掃除をしていた。
オルブライト家は掃除をする使用人がいるし、毎日屋敷は清潔に保たれているけれど、掃除などしようと思えばいくらでもできるものである。
フリーダは掃除が得意だ。ヴァルムベルクにいた頃は、掃除をするための使用人が雇えず、フリーダが率先して掃除をしていたぐらいである。
掃除は趣味というほどではないが、まぁまぁそれなりに好きだ。なんといっても、成果が目に見えるのがいい。
最初、使用人のミックに掃除用具はどこにあるのかを訊ねた時は変な顔をされたが、ミックはフリーダが掃除するのを止めたりしなかった。
基本的にオルブライト家の使用人達は給料以上のことはしないし、口出しもしない主義らしい。その割り切った姿勢は、寧ろ好感が持てる。
今日も今日とてワンピースの上にエプロンを身につけたフリーダは、掃除用具を手にオルブライト家の廊下を歩いていた。
今日のお目当ては、二階の物置部屋だ。
掃除をしても良いかどうかは、既にミックに確認済みである。ミックは「ご自由にどうぞ」とあっさり許可してくれた。
二階の物置部屋は「コウモリの君」曰く、隠れ場所に最適らしい。
足を運んでみると、なるほど物で溢れかえっていて、隠れるには最適の場所のように思えた。しかも、程よく埃が溜まっている。
(これは掃除のしがいがありそうね)
まずはどこから手をつけようかと、フリーダは物置部屋の中を物色する。
部屋に入ってすぐ右手の壁は木箱がずらりと並び、人形やら、何かの毛を束ねた物やら、古い衣類やらがゴチャゴチャと詰め込まれていた。なんだか触っただけで呪われそうな禍々しい物ばかりである。
左手は棚がいくつか並んでいて、その中には本棚もあった。ここが〈コウモリの君〉お勧めの隠れ場所らしい。
(子どもが隠れるのに丁度良さそうだわ)
〈コウモリの君〉も、幼い頃、祖母から隠れるために使ったのだろうか。
そんなことを思いつつ本棚に近づいたフリーダは、気まぐれに本棚の本に手を伸ばした。
本棚にみっちりと詰め込まれているのは、どれも魔術書や呪術書の類だ。パラパラと中を見ても、フリーダにはさっぱり理解できない。
天気の良い日に虫干しをしようと密かに決意しつつ本を棚に戻したフリーダは、ふと分厚い本の間に薄い紐閉じの本が挟まっていることに気がついた。
それだけ明らかに他の本と違う。
研究ノートの類だろうか、とフリーダは表紙をめくる。
『音もなく葉を揺らす、静かな風が吹いた
揺れる木漏れ日の下、貴婦人のブローチが日の光を反射する
日の光を受け、星のように瞬くブローチを、貴婦人の白い繊手がそぅっとなぞるのを僕は見た
嗚呼、この身が宝石ならば、その指で愛してもらえただろうか……』
「………………」
どうやら手製の詩集らしい。
綴られた文字は少し癖のある文字だった。つい最近見た覚えのある筆跡だ。
フリーダが無言で詩集を読み進めていると、物置部屋の扉がギィッと音を立てて開いた。
「おや、本当に掃除をしてるのかい」
でっぷりとした巨体で扉を塞ぎ、こちらを見ているのはアデラインだ。
濃い化粧を施した顔には、ニマニマと楽しげな笑みが浮かんでいる。
「何か面白い物は見つかったかえ?」
「えぇ、それなりに」
フリーダは萎縮することなく頷き、ノートを元の場所に戻した。
アデラインに会うのも数日ぶりだった。フリーダは最初に挨拶をしてから、一度もアデラインに会っていない。
……だが、視線は常に感じていた。
アデラインはフリーダのことを観察している。
なぜ自分を観察しているのか。訊ねても、アデラインは惚けるだけだろう。
それならばと、フリーダは言葉を選んで訊ねる。
「何故、私をオルブライト卿の婚約者に選んだのですか?」
「嫌がらせだよ。それ以外のなにものでもない。巻き込まれたあんたは災難だったねぇ。キッヒッヒ」
その嫌がらせは、誰に対する嫌がらせなのだろう。彼女の孫のレイ・オルブライトか、或いは……。
「祖父と、何か因縁が?」
「あの男が、そう言っていたのかえ?」
「詳しくは知りません。ただ、呪術師は恐ろしいのだと、しきりに口にしていました」
途端にアデラインは皮のたるんだ顎を持ち上げ、仰け反りながら「キィーッヒッヒッヒ!」と笑いだした。
それはもう、痛快と言わんばかりに。
「そうかいそうかい、あの〈ヴァルムベルクの戦狼〉が! そいつぁ、呪術師冥利に尽きるねぇ!」
ヴァルムベルクの戦狼、五十年前の戦争の立役者。勇猛果敢で知られた祖父は、この呪術師とどんな因縁があったのだろう。
フリーダがそんなことを考えていると、アデラインはノッシノッシとフリーダに近づいた。
フリーダは女性にしてはかなり長身である。故にアデラインは下からフリーダの顔を見上げるように覗き込む。
フリーダを映すピンク色の目は、爛々と不気味に輝いた。
「お前は、あの男と似ているねぇ。その目……狼の目だ。キッヒッヒ、くり抜いて手元に置くのも悪くない」
気の弱い者なら震え上がりそうな老婆の言葉に、フリーダは真顔で言葉を返す。
「それは管理が大変そうですね」
「…………」
アデラインは紫色に塗りたくった瞼を伏せて、じとりとフリーダを睨みつけた。
「可愛げの無い娘っこだね。現状に不満の一つもこぼしやしない」
「不満ですか? 勿論ありますよ」
フリーダはここ数日、常に抱えていた不満を口にする。
「食事の時間に一人なのは寂しいので、一緒に食べませんか?」
アデラインはピンク色の目を大きく見開き、フリーダの顔を舐めるようにじっくり眺めた。
「寂しいなんて、微塵も思ってなさそうな顔に見えるがね?」
「思っていますよ? ヴァルムベルクでは兄や祖父、弟達が奉公に出る前は弟達も……みんなで食事をしていましたから。賑やかな食卓の方が好きなんです」
フリーダの言葉にアデラインは鼻白んだように黙り込んでいたが、やがてフンと鼻を鳴らす。
「こんなババアの顔を見ながら食事がしたいなんて、酔狂な娘だね。いいだろう、今日から食欲の失せるババアの顔を見ながら、食事をするがいい」
「ご安心を。うちのジジイ……失礼、祖父も負けておりませんので」
フリーダの祖父は食事中に、敵将の首がどうのと血生臭い武勇伝を語りだす困ったジジイである。時には服を脱いで、古傷を見せつけてくることもあった。
そんな祖父と一緒に食事をして育ったフリーダは、並大抵のことでは食欲が失せない自信がある。
フリーダが淡々とそう告げれば、アデラインは腹を抱えてゲラゲラと笑った。
* * *
「あぁ……うぅ……今日の手紙はどうしよう……あと、ババ様対策で伝えておいた方がいいことは……うん、そうだ……あれだ……」
リディル王国城の〈翡翠の間〉で、〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトは、ブツブツと独り言を呟きながら手紙を書いていた。
やがて、悩みに悩んだ末に便箋に綴られたのは、短い一言。
『ババ様の機嫌が悪い時は、干しぶどうのケーキで機嫌がとれます』
これでよし、とレイが満足げに頷いた時、背後で声がした。
「分かる、分かるぜ! 干しぶどうのケーキ、美味しいもんな! うちの婆さんも好きなんだ! ちなみにオレのお勧めは、オールドリッチっていう店のやつで……」
レイがギャッと悲鳴をあげて振り向けば、同じ七賢人であるラウルの姿があった。どうやらレイの背後から手紙を覗き込んでいたらしい。
レイは恨めしげにラウルを睨んだ。
「……ひ、人の手紙を勝手に見るなんて、なんてデリカシーが無いんだ……顔が良ければ何をしても許されると思ってるんだろう、そうだろう、呪われろ……呪われてしまえ……」
「あっはっは、ごめんごめん。ところで、この間から毎日手紙書いてるよな。それって婚約者に?」
「べ、別に、なんだっていいだろ……」
レイが便箋をサッと腕で隠すと、ラウルはごくごく自然な態度でレイの隣に座った。
レイがピンク色の目をクルリと回してラウルを睨むと、ラウルはニッカリと白い歯を見せて笑う。
「なぁ、レイ。聞いてくれよ! オレさ、レイが婚約者と仲良くなるための作戦を考えたんだ!」
「……嫌な予感がする……絶対に碌でもないことに決まってる……」
「来週さ、メアリーさんの屋敷でパーティがあるんだよ!」
七賢人が一人〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイは侯爵家の令嬢であり、宴会好きだ。そんな彼女は、定期的に茶会や夜会を開いている。
同じ七賢人であるレイは、メアリーが主催するパーティの招待状を何度か貰ったことがあった。無論、一度も参加したことはないが。
「そこに、レイの婚約者も招待してもらったんだ!」
「………………は?」
ラウルはニコニコしながら、唖然とするレイの肩を叩いた。
ラウルは軽く叩いたつもりなのだろうが、貧弱なレイの体はそれだけでふらりとよろめく。
「初対面がパーティって、なんかすごくロマンチックだろ! あっ、そうそう、レイの礼服はメアリーさんが用意してくれるってさ! 楽しみだな!」
〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイは温和な人物だが、美少年好きで有名である。
メアリーの屋敷には膝小僧を出した美少年達が何人も仕え、彼女にかしずいているのだ。
──そんな彼女が選ぶ礼服! フリルブラウスに半ズボンしか想像できない!
レイはこの世の終わりを目にしたような顔で、頭を抱えて突っ伏した。
パーティだなんて絶対に行きたくない。行きたくないが、今回は〈星詠みの魔女〉がラウルの協力者なのだ。
〈星詠みの魔女〉は、武闘派親父どもとは別の意味で、若者に有無を言わせてくれないご婦人である。
(に、逃げられる気がしない……っ!)
最悪だ、死にたい、と呻くレイに、ラウルが能天気な顔で「楽しみだな!」と笑いかけた。




