【4】普通への憧れ
現地集合現地解散で始まったフリーダ・ブランケの婚約は、前途多難に思われた……が、覚悟していたよりもずっとフリーダの待遇は良かった。
正直フリーダは野宿と自炊を覚悟していたのだが、オルブライト家にはきちんとフリーダのための部屋が用意されていたし、クローゼットの中には着替えも用意されている。
食事の時間には、使用人が食堂に案内してくれたし、出された食事はどれも美味しかった。
白くてフワフワのパンも、具沢山のスープも、肉の腸詰も、砂糖を贅沢に使った焼き菓子も、ヴァルムベルクでは年に数回しかお目にかかれないご馳走である。
(……想像していたのと、かなり違うわね)
夕食を終えて自室に戻ったフリーダは、ふぅむと唸りながら腕組みをした。
ヴァルムベルクでは呪術師はおろか、魔術師だって滅多に見かけないので、フリーダは呪術師というものをよく知らないが、それでもこの屋敷が世間の呪術師のイメージとは違うということぐらいは分かる。
(そもそも、広い割に人がいないのよね、この屋敷)
この屋敷でフリーダが会ったのは、あの邪悪そうな老婆のアデライン。あとは何人かの使用人がいる程度で、他の住人が見当たらない。フリーダの婚約者もだ。
夕食の時間に食堂に着席したのは、フリーダだけである。
(気になったことは、さっさと確認するに限るわ)
フリーダは迷うことなく部屋を出て、適当な使用人を探した。
廊下を見回せば、丁度水差しを運んでいる三十代ぐらいの男性使用人を見かけたので、フリーダは「失礼」と声をかける。
男性使用人は榛色の髪をオールバックにした中肉中背の男だ。フリーダを部屋や食堂に案内してくれたのも、この男である。名前はミック・ヘニング。
「ヘニングさん、ちょっとよろしいですか」
「はい、なんでしょう」
無表情に淡々と答えるミックは愛想が良いとは言い難いが、誰に対してもそういう態度であるらしかった。
少なくとも、フリーダを敵視したり侮ったりしているようには見えない。元から無愛想な男なのだろう。
なので、フリーダは臆することなくミックに訊ねる。
「この屋敷の住人は、アデライン様以外には、どなたがいらっしゃるのですか?」
「基本的にはアデライン様だけです。それ以外のご親族の方々は、リディル王国内の各地にある屋敷で各々研究をしたり、呪術師としての仕事を受けたりしています」
「……それは、ご当主やそのご両親も?」
フリーダの言葉に、ミックは無表情のまま少しだけ言葉を詰まらせる。
そうして彼は、ほんの少しだけ言いづらそうに口を開いた。
「当主のご両親は、当主が幼い頃に亡くなっております。呪術の暴走による事故でした」
「……そうですか」
「それと当主のレイ様は、王都から少し離れた森にある屋敷を仕事場にしていて、一年の半分以上はそこに滞在されています」
なるほど、フリーダの婚約者は今そちらの屋敷にいるらしい。
アデラインはフリーダに対して「好きにしろ」と言った。ならばフリーダが婚約者のいる別邸を訪問しても、文句は言われないだろう。
ただ……。
(わざわざ会いに行く理由がないのよね)
フリーダはくだんの婚約者にそれほど興味は無いし、向こうもフリーダに会うつもりはないのだろう。
会うつもりがあるなら、とっくにこの本邸に帰ってきているはずだ。
ならば、無理に会いに行かなくてもいいわね。とフリーダはあっさり結論づけた。
「他に何か訊きたいことはありますか?」
ミックの言葉に、フリーダはしばし黙考して訊ねる。
「あなたから見て、呪術師とはどのような方々ですか?」
ミックはフリーダの質問に、少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに淡々と答えた。
「そうですね。案外人間臭いです。あと、この家の人間は金払いがとても良いですね。賃金が良いし、時間外労働が無いのも素晴らしい」
それはとても重要な意見である。
なるほど、とフリーダは納得すると、ミックに礼を言って部屋に戻った。
とりあえず無事に屋敷に到着したことだし、兄に手紙でも書きたい。
きっと兄はフリーダのことを心配しているだろうから、この屋敷がいかに真っ当で、ご飯が美味しいかを報告しなくては。
* * *
実家を飛び出した〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトは、その足で王都の外れにある別邸に向かい、自室に引きこもっていた。
壁の至るところに蔓草が絡みついた、煉瓦づくりのこぢんまりとしたその家は、いかにも呪術師の住む家といった風情である。
室内も薬草やトカゲの干物がぶら下がっていたり、魔法陣を織り込んだタペストリーがぶら下がっていたり、持ち込まれた呪具が棚に並んでいる。
既に時刻は夜。室内を照らすのは暖炉とランプの火のみ。
オレンジ色の灯りに照らされた呪具の数々は、火の揺らめきに合わせて陰影を変える。
作業机に座って羊皮紙に魔法陣を描いていたレイは、小さなナイフを手に取り、紫色の髪を一房切り落とした。
呪いがたっぷりと染み込んだ呪術師の体は、髪の毛から骨や血肉にいたるまで、その肉体の全てが呪術の媒介になる。三代目〈深淵の呪術師〉の髪の毛ともなれば、この国において最も強力な呪術の媒介と言えるだろう。
レイは切り落とした髪の毛を丁寧に編むと、先程の羊皮紙で包んで小さな布袋に入れる。
これは持ち主が呪術を受けた時に、その呪術を術者に跳ね返す「呪詛返し」のお守りだ。かなり気合を入れて作った物だから、これなら祖母の呪術でも跳ね返すことができる。
レイは便箋を広げ、羽ペンを手に取ると、うんうんと悩みながら文字を書き連ねた。
『これを肌身離さず持っててください。ババ様の呪いを弾けます』
便箋を封筒に入れたレイは、あとは宛名を書くだけだ、というところでふと気づく。
彼は自分の婚約者の名前すら知らないのだ。
「ど、どうしよう……そもそも、これ、どうやって渡したらいいんだ……家に戻るのは嫌だな……でも、なんとかこれを渡してあげないと……」
きっとあの邪悪な老婆は、レイの婚約者に『豚鼻になる呪い』とか『水虫になる呪い』とか『味覚がアベコベになる呪い』をかけて苛めるのだ。そうに決まっている。
「……想像したら、可哀想で泣けてきた……きっとその子も嫌だよな……俺なんかの婚約者に選ばれて……おまけに、意地悪ババアに苛められて……うっ……」
レイはぐすっと鼻を啜ると、机の上に飾ってある髑髏をぼんやりと眺める。
この髑髏は初代〈深淵の呪術師〉だ。
呪術師の肉体は呪術の媒介となる。まして、数多の呪いを体に刻んだ〈深淵の呪術師〉の髑髏ともなれば、秘められた力は国一つまるごと呪いで包める最強の呪具だ。
初代〈深淵の呪術師〉の髑髏は、レイがオルブライト家を継いだ時に継承したものだった。
よその家は杖とか指輪とか水晶玉とかなのに、なんで俺の家は髑髏なんだ……と当時のレイは絶句したものである。
(いずれババ様が死んだら、ババ様の髑髏もここに並ぶんだな……でもって、俺が死んだら俺の髑髏も……)
こういう時、つくづく思う。何故、自分の家は普通じゃないのだろう、と。
(……普通っていいな、普通の家に生まれたかった……)
レイは「普通の家」を知らない。
生まれたと同時にその身に呪いを刻まれ、二十三年間ずっと呪術師として生きてきた彼にとって「普通の家」は夢物語も同然である。
言ってしまえば「普通」という言葉は、レイにとって都合の良い幻想だ。
普通の家、普通の家族がいれば、きっと自分は普通に愛してもらえた。
気持ち悪がられることも、嫌われることもなく。
そして……
──私達、呪術師は「×××××」と口にしてはいけないの。いいわね、レイ。
「……俺だって、一度ぐらい、言ってみたかったさ……」
かつて母に禁忌と言われた言葉。
それをレイは声には出さず、唇を動かして呟いた。その時……。
「ドカーン!!」
馬鹿でかい声がして、屋敷が振動した。
天井の梁からパラパラと埃や蜘蛛の巣が落ち、机の上の物がコロコロと転がって床に落ちる。
「ぎゃっ!? な、なな、なんだっ……!?」
玄関の方で大きな音がした。具体的には扉が攻撃魔術で吹き飛ぶ音だ。
レイが悲鳴をあげて狼狽えていると、バァンと大きな音を立てて、今度は部屋の扉が蹴破られた。
扉を蹴破ったのは、長い三つ編みを翻した〈結界の魔術師〉ルイス・ミラー。
その背後で豪快に笑っているのは黒髪黒髭の大男〈砲弾の魔術師〉ブラッドフォード・ファイアストン。
「だーっはっはっは! やっぱりここにいやがったな、深淵の!」
「はてさて、新年の儀の間、七賢人は城に滞在するというルールをお忘れですかな、〈深淵の呪術師〉殿?」
レイはヒィッと息を呑んだ。
どうやら二人は、式典の後に城を飛び出したレイを連れ戻しに来たらしい。
それにしても、どうしてこの人選なのか。
よりにもよって七賢人武闘派代表の二人である。おまけにちょっと酒臭い。
「おぅおぅおぅ、深淵の。俺ぁ、宴会で楽しく酒を飲んでたんだぜぇ? それなのに、お前さんが逃亡したっつーから、こうして駆り出されたわけよ」
「む、迎えにきたのが、よりにもよって酔っ払いのおっさん二人……最悪だ……最悪すぎる……」
レイの呟きに、ルイスが細い眉をピクリと跳ね上げた。
「失礼ですね、私はまだ二十代です」
「ダッハッハ! ギリギリだけどな」
「こんなに若くて綺麗なおっさんが、どこの世界にいるというのです」
これだけ自分に自信を持てたら、さぞ生きるのが楽しいだろう。
レイはルイスを妬ましく思いつつ、か細い声で言い訳を口にした。
「きょ、今日は一人にしてくれ……俺は傷心なんだ……宴会で盛り上がってる城にいたら、それだけで俺の心は砕け散ってしまう……」
必死で懇願するレイに、ルイスは朗らかな声で語りかける。
「妻子持ちの私が、涙を飲んで城に滞在しているのに……そんなわがままが通るとお思いですか?」
ルイスは美しく微笑んでいたが、目がこれっぽっちも笑っていなかった。怖い。
レイがガタガタ震えていると、ブラッドフォードがズンズンと近寄り、大きな手をレイに伸ばした。
「い、いい、嫌だぁぁぁぁ」
レイは咄嗟に、呪術を発動した。ずばり、レイに触れた箇所が痒くなる呪いである。
「げぇっ、なんだこりゃっ!? か、痒い……っ」
ブラッドフォードが手のひらを掻きむしっている隙に、レイは逃げようとした。
だが、扉の前にはルイスが立ち塞がっている。
ルイスは握りしめていた杖を、くるりと手の中で回した。あの杖が自分を殴り倒す未来が、レイの脳裏をよぎる。
(そ、それなら……っ!)
レイは無我夢中で窓に駆け寄ると、窓を開けて外に飛び出そうとした……が、窓の外を見たレイは絶句する。
屋敷の周りは、茨でみっちりと隙間なく覆われていた。
うごうごと蠢く茨の前で、にこやかに手を振っているのは〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグ。
「おーい、レイー! 逃げても無駄だぜー!」
「……最悪だ」
泣き崩れるレイの首根っこに、ルイスが杖の先端を引っ掛けて持ち上げた。
「さぁ、城に帰りましょうか〈深淵の呪術師〉殿」
一方その頃モニカは、〈星詠みの魔女〉とお茶をしていました。
「あーいうのは、男の子に任せておけばいいのよぉ」
「は、はぁ……」




