【32】ギョリギョリ……(すごく悲しい声)
セオドアは倉庫の屋根に腰掛け、足をブラブラさせながら、大粒の雨が海面を叩くのをぼんやり眺めていた。
港町の雨の匂いは、山のそれとは少し違う。山の雨の匂いを懐かしく思いながら、セオドアは膝の上に置いていた黒い宝石箱──〈暴食のゾーイ〉を両手で包み込むように持った。
そうして目を閉じ、セオドアは己の意識を〈暴食のゾーイ〉と同調させる。
肌を叩く雨の感触が消えて、意識が深い闇の底に落ちていく感覚。それは〈暴食のゾーイ〉の、箱の底を覗き込むのに似ていた。
(魔力……だいぶ溜まったなぁ。目標まで、もう少し……だけど、スロースの維持に割く分を考えると、ミネルヴァの時ぐらい、まとめて欲しいかも)
影を植えつけた人間達から、順調に魔力を回収できてはいる。
だが、自分に追手が迫っていることも、セオドアは薄々察していた。
(多分、あの不良とおじいちゃん先生は、絶対におれを許さないだろうし、それこそ崖の底までも追いかけてきそう……ひぇっ……怖っ)
恐ろしい形相で自分を追い回すあの二人を想像し、セオドアは濡れた体をブルブルと震わせた。
その手元で〈暴食のゾーイ〉が声を上げる。
──オナカヘッタ、オナカヘッタ。ホシイ、ホシイ。
「代償はもうちょっと我慢しておくれよぅ。魔力量が多い人間って、意外と少ないんだよぉ」
〈暴食のゾーイ〉は変なところでグルメだ。特に、代償として大事なものを奪う相手は、魔力量の多い人間を選びたがる。
最初に髪と肌を奪ったふわふわ髪の女の子も、その後に戦った不良魔術師も、ミネルヴァの老教授も、そして先ほど戦った金髪の青年も、皆、魔力が多かった。
〈暴食のゾーイ〉と同調している状態で人間を観察していると、セオドアにも魔力量の多い人間、少ない人間がなんとなく分かる。
そうして、同調した状態で街を観察していたセオドアは困ってしまった。代償として捧げるに足る魔力量の持ち主というのは、意外と少ないのだ。
単純に魔力を大量に取り込みたいのなら、魔力の多い魔法生物や、魔力の多い土地から吸い上げれば良い。だが、〈暴食のゾーイ〉が取り込めるのは人間の魔力のみ、という制限がある。
古代魔導具〈暴食のゾーイ〉は、強力な力を持つ代わりに制約や代償が多い。おまけに意思疎通が難しく、その性能がセオドアにも分かりづらい。実際に使ってみて、初めて気づくことも多かった。
例えば、黒い影の効果範囲。最初の内はそれほど広くなかったけれど、魔力を大量に溜め込んだ今は、かなり広い範囲まで影を伸ばすことができる。
ただ、〈暴食のゾーイ〉本体から離れるほど操作精度が落ちるので、一度に大量の人間を捕食するのは、難しいだろう。
(スロースの付与魔術ってやつと、〈暴食のゾーイ〉は、思ったより相性が良い。魔力を貸与すれば、かなりいろんなことができる……これ、上手く使えないかなぁ)
本来、スロースの操る付与魔術というのは、大量の物質を操れるような代物ではなかった。ある程度質量のある物を操るなら、魔導具として改造する必要がある。
だが、〈暴食のゾーイ〉に溜め込んだ魔力を流しこめば、それこそ家一軒分の煉瓦だって自在に操れるのだ。
セオドアとしては、スロースの付与魔術は〈星槍の魔女〉の〈星の槍〉より使い勝手が良かった。〈星の槍〉は確かに強力ではあるけれど、威力が強すぎて使い所が限られてしまう。
暴食のゾーイを両手で抱え、灰色の空を見上げながら思案していたセオドアは、己の顔を叩く雨粒を見て、ボサボサの前髪の下で目を見開く。
「そうだ……!」
──オナカヘッタ、オナカヘッタ。
「もうちょっと待っててよ。この雨が止んだら……うん、早速試してみよう。きっと、お前もお腹いっぱいになるよ」
そう言ってセオドアは雨に濡れた手で、〈暴食のゾーイ〉を優しく撫でた。
* * *
四代目〈茨の魔女〉メリッサ・ローズバーグは、腹から込み上げてくる気持ちをそのまま口にした。
「ぎぇえええいっ!」
「尻尾を踏まれた山猫か……」
失礼なことをボソボソ呟いているレイをギロリと一睨みし、メリッサは舌打ちをして吐き捨てる。
「やってくれたわね、あのナヨナヨ野郎っ! 見つけたら雑巾搾りにして細切れにして、薔薇の肥料にしてやるッ!」
メリッサの前にあるベッドの上に横たわっているのは、全身を黒い影に蝕まれ、仮死状態となった四人の男達。メリッサはその中で一際大柄な男の顔だけは知っていた。
メリッサは鋭い目で、大柄な男──アントニーの顔を眺めて、ふむと頷く。
「こいつらは、ランドール王国騎士団の人間ね。見たところ、他の三人もそのお仲間ってとこかしら」
目撃者の証言によると、かつてメリッサが対峙したサミュエル・スロースが〈暴食のゾーイ〉のシモベとなり、街の中で暴れていたらしい。
アントニー達ランドール王国騎士団の人間は、スロースを止めようとするも返り討ちに遭い、全滅。
目撃者の話では、もう一人、現場にいた一般人の男──金髪の若い男だったらしい──も参戦していたそうだが、その男は見つかっていない。
おそらくスロースに敵わないと知り、逃亡したのだろう、というのがメリッサの見立てだ。
メリッサが腕組みをして、ランドール王国騎士団の男達を眺めていると、扉が開いて、モニカが駆け込んできた。
「メリッサお姉さんっ」
モニカは七賢人のローブこそ着ていないが、その手に長い布包を抱えていた。中身はおそらく七賢人の杖だ。
その事実に、メリッサは小さな違和感を覚えた。
七賢人の杖は、確かに魔力制御をしやすくなる優れ物ではあるけれど、長くて持ち運びに不便だから、モニカは普段滅多に持ち歩いていないのだ。
そうでなくとも今は、セオドアに七賢人の素性がばれないようにするために、ローブと杖を隠している。
(そりゃまぁ、布で隠してるから、良いんだけどさ)
魔力制御に長けたモニカがわざわざ杖を持参しているのが、なんとなくメリッサは気にかかる。
だが、それについてメリッサが言及するより早く、モニカはベッドに寝ているアントニー達を見て、小さく声をあげた。
「アントニーさん達が……それに、ロベルトさんまで……」
「モニモニ、状況は聞いたわね? あの、スロースの野郎が〈暴食のゾーイ〉のシモベになってる」
「……はい」
どうやら、伝令から既にある程度事情は聞いているらしい。モニカが青白い顔で小さく頷く。
親指の爪をかじりたくなるのを堪え、低い声で言った。
「あのナヨナヨ野郎……セオドアと〈暴食のゾーイ〉がサザンドールに来てるんなら、真っ先に狙われるのがどこか、分かってるわね?」
「……ここ、です」
魔術師組合サザンドール支部は、サザンドールにおいて魔術師達が最も多く出入りする場だ。
魔力量の多い人間が多いので、ミネルヴァ同様に狙われる可能性が高い。
モニカの答えにメリッサは「よろしい」と頷いた。
「王都には、もう伝令を飛ばしてる。早けりゃ明日にでも、竜滅あたりが来るでしょ。それまで、厳戒態勢で持ち堪えるわよ」
「……はい」
「とりあえず、アタシ達三人は交代で休憩を取るわよ。まずはモニモニ、今から仮眠。アタシとナメクジはこの建物の周りに罠を張る」
メリッサの茨とレイの呪いは、事前に仕掛けておく罠に最適だった。
その罠で〈暴食のゾーイ〉を仕留められるとは思わないが、足止め程度にはなるだろう。
メリッサが、どこに罠を仕掛けるか算段していると、モニカが口を開いた。
モニカらしからぬ、低い声だった。
「……わたし、ちょっと進めたい研究があるので、仮眠いりません」
メリッサは思わずまじまじとモニカを見る。
モニカは険しい顔で、布に包んだ杖を抱きしめている。
「影を剥がす術式なら、完成したでしょうがよ」
「……いいえ。〈暴食のゾーイ〉を確実に仕留めるための術式、です。……最悪の時は、秘密裏に破壊する許可が、出てましたよね?」
古代魔導具は、国家間の力関係を左右する重要な交渉材料だ。
それ故、壊さずに回収できるならそれに越したことはないのだが、今回、あのクロックフォード公爵が働きかけて、秘密裏になら〈暴食のゾーイ〉を破壊しても構わないという指示が出ていた。それだけ〈暴食のゾーイ〉の犠牲が多すぎたのだ。
だがメリッサは、モニカが〈暴食のゾーイ〉の破壊を率先して選んだことが意外だった。
なんとなく、モニカなら穏便に回収することを優先すると思っていたのだ。
強気な発言をするモニカに、レイが控えめに口を挟んだ。
「今の〈暴食のゾーイ〉は大量の魔力を溜め込んでるから、並の魔術じゃ破壊できない。……〈砲弾の魔術師〉の六重強化魔術か、〈星槍の魔女〉の〈星の槍〉ぐらいの威力じゃないと、難しいと思う」
「そうそう。そりゃ、アタシも〈暴食のゾーイ〉をぶっ壊せるんならそうしたいけどさ、悔しいけどアタシ達じゃ火力が足りない。セオドアをボコって、〈暴食のゾーイ〉を回収する方が現実的だわ」
魔力を溜め込んだ物質は、それだけ魔法攻撃に耐性がつく。竜の鱗に攻撃魔術を当てても、ダメージにならないのと同じだ。
この場にいる三人の火力を足しても、〈暴食のゾーイ〉の破壊は難しいだろう。
だが、モニカは杖を胸に抱き寄せて言う。
「……レーンフィールドで魔術奉納をした時、街全体に補助術式を描いて、大規模魔術を発動しました。あれの応用で……」
モニカがボソボソと早口で語った術式に、メリッサとレイは目を剥いた。
もしそんなことができたら、それは偉業だ。
「ちょっと。そんなこと、可能なの?」
「可能に、します。だから、時間をください」
雨に濡れた前髪の下で、緑がかった目が静かな怒りに暗く輝いていた。
その目に、メリッサはなんとなく落ち着かない気持ちになる。
モニカは指が白くなるほど強く杖を握り、宣言した。
「……奪われたものは、全部、取り返します」
* * *
雨はまだ、止まない。
あぁ化粧が落ちる、とぼやきながら、メリッサは外套のフードを目深に被り、魔術師組合の建物の周りに種を蒔く。
大体十歩ぐらいの距離に種を蒔いたところで、メリッサは外套の裾が汚れないよう気をつけながらその場にしゃがみ、ぬかるむ地面に指を添えて魔力を込める。
地面に巻いた種から、小さな芽が生えてきた。
「深淵」
ナメクジ野郎ことレイ・オルブライトを仕事中真面目に呼ぶ時、メリッサはこう呼ぶ。
呼ばれたレイは、雨に濡れた右手を前に差し伸べ、ブツブツと低い声で詠唱した。
彼の指先からスルスルと紫色の呪印が浮かび上がり、地面に生えた芽に吸い込まれていく。
鮮やかな新緑色の芽が、斑らな紫に染まった。
「これで、この芽は呪われた……特定の魔力を浴びると、すごく悲しい声でギョリギョリ鳴きながら襲いかかる……」
「アホみたいな呪いよね」
アホみたいではあるが、この呪われた芽には、足止めと鳴子の役割がある。
もし、〈暴食のゾーイ〉がこの建物を攻撃したら、ギョリギョリという鳴き声が危険を知らせてくれるだろう──できれば、もう少しまともな鳴き声はないのかと言いたいが、呪術で生じる音など、総じて不気味と相場が決まっているのだ。
メリッサはまた、建物の周囲に種を蒔き、魔力を付与していく。
そこらへんの適当な雑草を呪っても良いのだが、メリッサの魔力を付与した芽の方が呪術を定着させやすく、効果も長持ちするのだ。
メリッサは種を蒔きながら、雨の音に負けない声で呟く。
「モニモニだけどさぁ……適当なところで筆記用具取り上げて、仮眠室に放り込むわよ」
レイは大きく目を見開き、凄まじい形相でメリッサを凝視した。
「なんてことだ……この女が人を気遣ったりするはずがない……も、もしかして、偽物……っ!?」
「今からあんたをふん縛って屋根に吊るしてやるから、敵を発見したらギョリギョリ鳴きな」
「やっぱり、偽物じゃなかった……本物だった……」
メリッサはフンと鼻を鳴らし、先ほどのモニカの様子を思い出す。
あの臆病な小娘が、珍しく怒りを露わにしていた。
決意に満ちた目は悪くない。戦意があるのも良いことだ。
だが、どうにもメリッサには、それが不安材料に思えてならない。
「あのおチビさ、珍しく怒ってたじゃない」
「……そりゃ、怒るだろ。俺だって、セオドアに対して腹が立ってる……すごく憎い……」
レイが敵に対して怒りや憎悪を覚えることは、決して悪いことではない。呪術は負の感情に威力が左右されるからだ。
だが、魔術は違う。魔術は全て、緻密で膨大な計算の上に成り立っているのだ。
「怒りってのはさ、腹に力を入れて踏ん張りたい時には役に立つわよ。だけど、あのおチビの強さの秘訣は計算力でしょ? ……頭に血が上ったら、計算どころじゃないわ」
かつて雪山で、シリルが白竜に飲み込まれた時、モニカは酷い錯乱状態だった。
怒り、泣き叫び、激情のまま出鱈目に放たれる魔術は暴走寸前で、一歩間違えれば、モニカ自身を傷つけかねないほどだったのだ。
更に言うと、モニカはあんなに臆病でオドオドしている癖に、たまにとんでもない無茶をやらかすのだ。腕に薔薇の蔓を巻いて白竜の口に飛び込んだ時は、流石のメリッサも仰天した。
「……過ぎた怒りは、〈沈黙の魔女〉の足枷になる。ちょっと、頭を冷やさせた方がいいわ」
雨はますます強くなってきた。
早く作業を終わらせて、湯浴みをしよう。その時は、あのおチビも問答無用で引きずっていくのだ。
リディル王国では、雨傘はそこまで普及していません。
大体、外套とかで凌ぎます。




