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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝11:喪失の凶星、瞬く時
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【23】暴食の少年王

 かつて世界が今よりも魔力に満ちていた時代、魔物と呼ばれる存在があった。

 たとえば人に悪戯をする小鬼、下半身が魚で上半身が美しい女の人魚、鳥の羽と足を持つハルピュイア、人を水に引き摺り込む牙を持つ馬……中には妖精と呼ばれる、精霊に似た小さい生き物もいた。

 魔物と妖精は、同一視する説と別物であると主張する説があるが、共に魔力を糧にする生物であるという点は一致していた。現代で言う竜や精霊と同じ、魔法生物である。

 魔法生物である彼らは、時代が流れ、世界から魔力が失われていくと共に姿を消していった。

 今でも魔力濃度の高い地域に、魔物や妖精の生き残りがいる、などと噂されているが、真偽のほどは定かではない。

 ただ、彼らの存在は今も伝承や物語として語り継がれている。

 小柄で可愛らしい女性を「妖精のようだ」と言ったり、人を魅了する歌声を「人魚の歌声」と評したり、そういった言い回しが現代に残っているのもそのためだ。



『ヘイルバッハのローレライ』は、帝国領ヘイルバッハ地方に出没した、美しい女の姿をした魔物である。

 分類上は妖精の一種、精霊の亜種とする説もあるが、ローレライは明確に人を害する存在であったため、魔物と呼ばれることが多かった。

 ローレライは川に住み、その美しい歌声で人間を惑わして船を座礁させる。

 それに迷惑した魔術師が、ローレライを一冊の本に封印して、当時の皇帝に献上した。

 皇帝はローレライの歌声を気に入り、幾つもの歌や物語を教え、歌わせることを余興として楽しんだ。


 ──魔物よ、魔物よ、私のために歌え。お前の歌は、この玉座を飾るどんな宝石よりも価値がある。


 ローレライは最初の内こそ、己を封印した人間達を憎んでいた。

 だが、皇帝があまりにも無邪気に、手放しに自分の歌声を褒めるものだから……いつしか、その豪胆な皇帝に心惹かれてしまったのだ。

 皇帝のために歌う日々に、ローレライは小さな幸福すら見出していた。

 だが、幸せな時間は長く続かない。

 ローレライが愛した皇帝は暗殺され、『ヘイルバッハのローレライ』は皇帝を誑かした魔物として焚書を言い渡された。

 新しい皇帝は、『ヘイルバッハのローレライ』に火を点けた。だが、強い魔力を持ったその本は、どんなに火で炙っても燃えることはない。

 燃え盛る火の中で、人間への憎悪を歌うローレライに、新皇帝は恐怖し、『ヘイルバッハのローレライ』を禁書として封印した。

 そして時代が流れ、『ヘイルバッハのローレライ』はリディル王国に渡り、アスカルド図書館地下に収蔵されることになったのである。

 封印の中、ローレライは考えた。

 愛する皇帝を殺した憎い男は、もうこの世にはいない。それでも、憎悪は消えないのだ。


 ──この憎悪の捌け口が欲しい。


 だから、自由を求めた。

 再び、この世界に顕現し、憎悪の歌で世界を満たすのだ。

 そのために、ローレライは封印の中で少しずつ少しずつ魔力を蓄えていった。封印状態のローレライが蓄えられる魔力など、一粒の麦にも劣る。

 それでもローレライは僅かな魔力を蓄えて、好機を待った。


 騙しやすい無能で愚かな人間が、この禁書室を訪れる時を。



 * * *



 ──……第一禁書室の魔物達が、新しい継承者は未熟者だって騒いでいるから、これは好機だと思ったのに……あんまりだわ……。


 あんまりだ、と言いたいのは、無能で愚かな未熟者扱いされ、こいつなら騙せると思われていたシリルの方である。

 だが、未熟なのは事実なので、あまり強いことは言えない。

 憮然とするシリルの手元で、〈識守の鍵〉が、うむうむと相槌を打った。


『どうやら先ほどの歌で、溜め込んだ魔力を使い果たしたようであるな』


 二度とこのようなことができぬよう、封印強化を提案しなくては、と心に誓いつつ、シリルは『ヘイルバッハのローレライ』を収めたガラスケースを睨む。

 ガラスケースの中央に安置されているのは、現代の規格より二回りほど大きめの本だ。革表紙は深みのある青に染められている。

 現代でも青い塗料や染料は高級品なのだ。この本が作られた時代を考えると、非常に贅沢な作り方をしていると言って良いだろう。

 人の姿のトゥーレが、ガラスケースをツンツン突きながら、首を傾げた。


「君は、〈暴食のゾーイ〉について、何も知らない? 第一禁書室で聞いた呼びかけは、シリルを誘き寄せるための嘘だったのかな?」


 ──…………。


 トゥーレの言葉に、ローレライは啜り泣きを止めて黙り込む。

 第一禁書室で、ローレライは〈暴食の王〉という単語を口にした。それが、〈暴食のゾーイ〉に関係していると思ったから、シリル達はこうして最深層禁書室までやってきたのだ。

 だが、それが嘘だとしたら、完全に徒労である。

 シリルがじっとガラスケースを睨んでいると、室内に足を踏み入れたラウルが、いつもの口調で言った。


「嘘はついてないと思うぜ。禁書の魔物って、自分が封じられている書物に記されている事象について、嘘がつけないんだ。だよな、ソフォクレス?」


『うむ、やつらは魔物でもあり、書でもあるからな。禁書として封じられる際に、そのような制限が課せられているのである』


 それならば、とシリルはガラスケースに歩み寄り、ローレライに告げた。


「どうか、その身に記されている知識を開示してほしい」


 ローレライはしばし黙り込んでいたが、やがて拗ねたような口調でボソリと言う。


 ──わたくしの歌を聞いてくれる?


「分かった。感想文を提出しよう」


 セレンディア学園時代、音楽鑑賞の授業の成績は良かった方だ。

 シリルの言葉に、青い革表紙が僅かに発光した。


 ──よろしくてよ。わたくしを書見台に運びなさい。丁重に。


 右手中指にある〈識守の鍵〉をかざすと、ガラスケースの施錠が外れる。

 シリルは慎重に蓋を外し、『ヘイルバッハのローレライ』を持ち上げた。

 台座から持ち上げると、本の背表紙の下部に白い鎖が現れる。鎖の輪の一つ一つが魔術式の塊でできているこれは、封印結界の一種だ。

 鎖は本と台座を繋いでいて、ギリギリで書見台に届く長さだった。

 部屋の中央にある書見台に本をそっと置くと、〈識守の鍵〉が声をあげる。


『では、吾輩はしばらく口を閉ざそう。禁書の内容に触れることは、認識できぬからな……決して、会話に入れないのが寂しいからではないぞ? 話が終わったら、ちゃんと吾輩を呼ぶのであるぞ? いいな? いいな?』


 一方的に言って、構われたがりの〈識守の鍵〉は黙り込む。

 黒い宝玉部分は曇ったように輝きを失っていたから、おそらく意識を閉ざしているのだろう。


「……本を開くぞ」


 ラウル達に声をかけ、シリルは慎重な手つきで『ヘイルバッハのローレライ』の表紙をめくった。



 ──船乗りは見た。

 ──あぁ、あの岩の上に、美しい娘がいる。

 ──なんと、なんと、美しい。

 ──なんと、なんと……。

 ──呟く声は泡となり、船乗りの体は水の底。

 ──ヘイルバッハのローレライ。微笑み、骸に口づけた。



 その歌は、最初のページに記されている歌だ。

 帝国の古語で綴られたそれを、ローレライはシリルに分かる言葉で歌にしてくれる。


 ──さぁ、わたくしのページをめくりなさい。


 本の上に白い輝きが集い、うっすらと何かの姿を形作った。白いドレスを身につけた、淡い金髪の女だ。

 とても美しい女だが、一眼で人間ではないと分かる。

 女は白眼が無く、眼窩に水色の宝石を嵌め込んだような目をしていた。

 水面の揺らめきを思わせる目が、シリルを物語の世界へ誘う。


 ──百六十八ページ。〈暴食の王〉の物語を聞かせてあげましょう。


 人は読書に夢中になると、周りの音が耳に届かないほどの没入感を得ることがある。

 ローレライの歌は、短い一節で聴き手を物語の世界に引き摺り込む力があった。

 シリルは言われるままにページをめくる。


 百六十八ページ。物語が始まる。



  * * *



 これは、帝国がまだ幾つもの小国だった頃の物語だ。

 とある小国の王が亡くなり、一人息子が国王となった。

 新しい王は、まだ六歳の子どもだった。


 ──国王陛下万歳! 国王陛下万歳!


 大臣を始め、貴族達は、自分達の思う通りに政治を動かすために幼い王に擦り寄り、甘言を囁いた。

 幼い王が望めば、貴族達は何でも叶えてやった。


 ──あの男は王をたしなめた。だから処刑だ、火を放て。

 ──あの娘は茶を溢した。だから処刑だ、首を切れ。

 ──あの老人は呪いの言葉を吐いた。だから処刑だ、八つ裂きだ。


 幼い王は、無邪気に多くのものを望んだ。

 幼い王が欲しがるのは、珍しいものでも、貴重なものでも、贅沢で美味しいものでもない。

 彼が欲しがるのはいつだって、誰かの大事なものだった。


 ──欲しい! 欲しい! あの子が大事にしている、人形が欲しい!

 ──欲しい! 欲しい! あの子が大事に食べている、小さなパンが欲しい!

 ──欲しい! 欲しい! あの子が大事にしている、親の形見の首飾りが欲しい!


 幼い王は目についた、他人の宝物をねだった。

 時に、貧しい子どもが大事に食べている硬いパンすら欲しがった。

 そうして他人の大事な物を手にした時、幼い王は一際幸せそうにキャッキャと笑うのだ。

 他人のものを際限なく貪り続ける残酷な少年王は、いつしか〈暴食の王〉と呼ばれ、人々から恐れられた。


 ある日、幼い王は、庭園を歩く仲睦まじい親子を見て、こう願った。


 ──欲しい、欲しい。優しいお父様が欲しい。


 願いを聞いた大臣達は、その親子の子どもを殺し、父親を王に差し出した。

 だが、王はすぐに気づく。


 ──違う、違う、これじゃない。


 だって、この男は自分のお父様ではない。

 少年王は、望むものはなんだって手に入れてきた。だけど、本物のお父様だけは手に入らない。


 ──欲しい、欲しい。優しいお父様が欲しい。欲しい欲しい欲しい!!


 だから、少年王は禁忌とされている、闇の魔術に手を出した。

 死んだ父親を取り戻すために、冥府の門を召喚したのだ。

 禁忌の術は土地を蝕み、近隣の魔物を呼び寄せた。多くの人間が死に、国は大混乱になった。

 だが、冥府の門が開くより先に、王は反乱軍の手で捕らえられた。

 反乱軍を率いていたのは、かつて「優しいお父様が欲しい」という願いのために、息子を殺された父親だ。


 ──〈暴食の王〉よ、今こそ裁きを受けるがいい!

 ──ただ処刑するだけでは、民の怒りは収まらぬ!

 ──その身を生涯幽閉し、最後はその魂を擦り潰すまで酷使してくれる!


 反乱軍は少年王を罪人の塔に幽閉し、二日に一度、カビの生えたパンとコップ一杯の泥水を与えた。


 ──お腹がへった! お腹がへった!


 その絶望の声は、奪われてきた者にとって至上の歌声だ。

 人々は罪人の塔に汚物を投げ、罵声を浴びせ、嘲笑う。


 少年王が幽閉されて、五ヶ月が経った満月の夜。

 痩せ細り、今にも息絶えそうな少年王に魔術師が告げた。


 ──さぁ、罪人よ。裁きの時だ。


 自分は処刑されるのだと、少年王は思った。

 火炙りにされるか、首を切られるか、或いは八つ裂きか。

 なんでもいい、早く死にたい。死んで楽になりたい。

 だってお腹がペコペコで、苦しくて苦しくて仕方がないのだ。


 ──ただの死など許さぬ。


 断罪の言葉とともに、魔術師は手にした宝石を掲げる。

 薄暗い塔の中で、その宝石は蝋燭の火を反射して、深い赤に輝いた。


 ──〈暴食の王〉よ。とこしえに国に奉仕する、道具となれ。


 魔術師は手元の宝石を見下ろし、酷薄に笑う。

 かくして少年王は、歴史に名を残すことすら許されぬまま、魔術の触媒として酷使され続けるのであった。

〈暴食の王〉という蔑称と、その哀れな末路だけを人々に語り継がれながら。



 * * *



 ローレライの語りは強い没入感を与えてくれる。

 だからこそ、頭の奥が痺れ、全身の血が足下に落ちるような心地がした。

 シリルは掠れた声で、ローレライに問う。


「魔術の触媒として酷使され続けるとは、具体的には……」


 ──わたくしに記された物語はここでおしまい。語れるのは、ここまでよ。


 そう告げるローレライの声は、どこか面白がっているようだった。

 おそらく、彼女は知っているのだ。〈暴食の王〉の末路を。

 シリルは目だけを動かし、己の右手にある〈識守の鍵〉を見る。


(まさか、古代魔導具とは……)


 もし、この物語の結末が意味していることが、シリルの想像通りだとしたら……自分は恐ろしい歴史の闇に触れてしまったのではないだろうか?

 シリルが冷たい汗の滲む手を握りしめていると、背後のラウルがいつもより静かな声で言う。


「なぁ、ローレライ。その〈暴食の王〉の物語でさ……黒竜って、出てくる?」


 ──……いいえ。わたくしの書には、記載されていないわ。


「そっかぁ……」


 シリルは振り向き、ラウルを凝視した。

 ラウルはいつものヘラヘラ笑いを引っ込めて、神妙な顔で何やら考え込んでいる。


「待て。何故、ここで黒竜などという言葉が出てくる? ……貴様は何を知っている?」


「あー、やっぱシリルは聞かされてないよな。今さ、竜害の予言が出てるだろ?」


 ラウルは腕組みをし、眉間にぎゅぅっと皺を寄せた。

 不吉な予感に、シリルの心臓がバクバクと鼓動する。

 白竜と対をなす、伝説の黒竜。それはかつて〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットが撃退した最強の竜ではなかったか? 何故、その名がこのタイミングで出てくるのか?


「一般人には伏せられてるけど、あれって、正確にはこういう予言だったんだ。近い内にリディル王国で、史上最悪の竜害が起こる。それに深く関係するのが……サザンドール、〈沈黙の魔女〉、黒竜だって」


 絶句するシリルの背後で、トゥーレが──黒竜と対になる伝説の白竜が、無言で金色の目を細めた。


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