【6】世直しご隠居の決め台詞
どうしてこんなことに、とノーマン少年は頭を抱えて震えながら、嗚咽を噛み殺していた。
酒場の中はそれはもう酷い有り様で、破壊された机や椅子に混じって、気絶したジェフリーやゴードンがひっくり返っている。
この惨状を作りあげた赤毛の旅人は鼻歌を歌いながら、節の目立つ手を握ったり開いたりしていた。その指にはめられた指輪が輝くたびに、雷の矢が降り注ぐのだ。おそらく、あの指輪は全て魔導具なのだろう。
悪人面だが子ども好きのグレッグが、ノーマンを背後に庇い、椅子を武器がわりに握りしめて赤毛の男を睨みつけた。
「なんなんだ、お前はっ!」
グレッグの怒声に、赤毛の男は細い顎に手を添えてニタリと笑う。
「んーっ、んっんっんー……なぁ、もっとでかい声で叫んでくれよぉ? ……いや、叫ぶんならガキの方がいいなぁ。臆病なあいつも、ガキの悲鳴を聞きゃあ、巣穴から出てくるだろ」
赤毛の男の三白眼に見据えられ、ノーマンは恐怖に喉を引きつらせた。
* * *
モニカはフゥフゥと息を切らしながら、夜道を走っていた。
アイザックに張った結界は、何時間も保つものではない。結界の効果が切れる前に、村長を見つけだし、平和的に交渉を済ませなくては。
まずは村長の家の場所を聞くために、明かりのついている酒場を目指していると、酒場から若い女が飛び出してくるのが見えた。大きく胸元の開いた服を着た美しいその女は、日中見かけた五番目の〈沈黙の魔女〉の女だ。
女はモニカに気づくと、声を荒げた。
「貴女、ここは危険よっ! 今すぐ建物の中に避難しなさいっ!」
「……へ?」
女はポカンとしているモニカの横を通り過ぎ、どこかに走り去ってしまう。
何がどう危険なのか分からず立ち尽くしていると、目の前にある酒場の扉から、光り輝く雷の矢が複数飛びだし、夜空の彼方へ飛んでいくのが見えた。誰かが酒場の中で攻撃魔術を使ったのだ。
(ど、どういう状況……っ!?)
目の前の酒場で、何かが起こっているらしいことは分かる。逃げていった女の言葉から察するに、おそらく危険な状況なのだろう。
いつものモニカなら、危険には近づかず逃げだすところだ。
だが今日のモニカは「アイクが尊敬するようなお師匠様でありたい」という意気込みに満ちていた。
なので、モニカはキリリと顔を引き締めて、立派な師の顔で酒場に足を踏み入れ……。
「んーっ、んっ、んっ、んっ……やっと来たかぁ、モーニーカー?」
立派な師の顔は、呆気なく瓦解した。
椅子やテーブルが倒れて、荒れ放題の酒場。床に倒れている〈沈黙の魔女〉や悪漢を演じていた村人達。
そして、その中央に佇むのは、燃えるような赤毛に長身の男。ヒューバード・ディー。
「ディ、ディディディ、ディー、先、輩っ……! なっ、なんでここにぃっ!」
「そりゃあ、お前に会いに来たに決まってんだろぉ? 会いたかったぜぇ、俺の女王様ぁ?」
あぁ、とモニカは絶望の吐息を吐く。
モニカは自分がサザンドールに暮らしていることを、七賢人や一部の親しい人間以外には隠している。
それは〈沈黙の魔女〉の研究に興味のある者や、弟子入り希望者が殺到するのを避けるためでもあるが、最大の理由は、ヒューバード・ディーの襲撃を避けるためであった。
ヒューバードの叔父である〈砲弾の魔術師〉も、ヒューバードにモニカの住居は教えないと約束してくれていたのだ。
そのおかげで、モニカは卒業後はヒューバードと遭遇したことは数えるぐらいしかない。
……だから、すっかり油断していた。
〈沈黙の魔女〉がいる村なんてものがあったら、ヒューバードが嗅ぎつけてくることは想定できたはずなのに、イザベルとアイザックの暴走に気を取られすぎたのだ。
(ああああ……わたしの馬鹿ぁぁぁぁぁ!)
酒場の床には、三人の男が倒れていた。
村の入り口で出会ったスキンヘッドの大男。モニカに絡んだ悪漢役の男。そしてその悪漢を倒す役の伊達男。
「こ、この人達に、酷いことしたのも……ディー先輩、ですかっ」
「お前がさっさと出てこないから、悪いんだぜぇ?」
「……っ!」
言葉を失うモニカに、ヒューバードはニタリと笑うと細く長い指を弾いて鳴らした。
すると指輪の一つが金色に輝き、雷の矢が浮かび上がる。大きさはフォークぐらいのもので、威力は最小限に抑えられてるのだろう。
ただし、その数は十以上。それが雨のようにモニカに降り注ぐ。
モニカは咄嗟に防御結界で雷の矢を防いだ。威力の弱い雷の矢は透明な壁に弾かれ、パチパチと音を立てて爆ぜながら消滅する。
……そう、威力は決して強くはないのだ。だが攻撃がなかなか止まない。
延々と雷の矢が降り注ぐせいで、モニカは防御結界を維持し続けなくてはならなかった。この状況は非常にまずい。
モニカが同時に使える術は二つまで。そしてモニカはこの防御結界とは別に、アイザックの足止め用の結界を現在進行形で使用しているのだ。この状況では、モニカは他の魔術を使えない。
モニカが内心焦っていると、ヒューバードは懐から小ぶりのナイフを取り出した。戦闘用とは思えない、細く華奢な刃のナイフだ。柄には大粒の宝石が飾られている。
「お前と遊ぶためによぉ、新しい玩具を作ってきたんだぜ。堪能してくれよぉ?」
ヒューバードは大きく腕を振り上げて、そのナイフを足元に深々と突き刺した。
途端に、そのナイフを中心に魔法陣が広がる。それも酒場のみならず、周囲一帯を包むような、大規模な魔法陣だ。
魔法陣に刻まれた魔術式を見たモニカは目を見開いた。
(これ、は……!)
モニカが維持していた防御結界が乱れ、歪む。
丁寧に織った布がほつれていくようにモニカの結界は綻び、無防備になったモニカの足元に雷の矢が突き刺さった。
「ひぃっ!」
モニカは恐怖に体をすくませ、涙の滲む目でヒューバードの足元に刺さるナイフを見る。
あれは、ただのナイフなんかじゃない。
「その、魔導具、は……っ」
「面白いだろぉ? こいつを使うと、ここら一帯の魔力の流れを乱すことができるんだ」
魔術とは魔術式を元に魔力を編む技術。それゆえ魔力の流れが乱れていると、思った通りに魔力を操れず、魔術が発動しなくなる。
即ち、この魔導具の範囲内では、七賢人であろうと魔術を使えない。それはヒューバードも同じはずだ。
……だが、ヒューバードは余裕たっぷりの笑顔で、指輪をはめた手をヒラヒラと振った。
パチパチと音を立てて、ヒューバードの周囲に雷の矢が浮かび上がる。
魔力の流れが歪んでいるこの空間で、人間は魔術が使えない──だが、魔導具なら話は別だ。
ヒューバードがパチリと指を鳴らすと、フォークほどの大きさの小さい矢がモニカめがけて飛来する。
モニカは防御結界を発動しようとした。だが魔術式を構成するところまではできても、思うように魔力を操れず、魔術式通りに魔力を編むことができない。
ヒューバードの放った雷の矢がモニカの左足に突き刺さった。
「ひぅっ!?」
全身が感電するほどの強い電撃ではない。それでも、痛いものは痛い。
麻痺した左足で体を支えられなくなったモニカは、その場にべしゃりとくずれ落ちた。痛みと恐怖で丸い目に涙の膜が張る。
ヒィヒィと喉を振るわせて嗚咽を噛み殺すモニカを、ヒューバードはニタニタと楽しそうに見下ろしていた。
痛みと恐怖がモニカをパニックに陥らせる。それでもモニカは数字の世界に逃げることなく、なんとか魔術で抵抗しようとした。
だが、何度繰り返しても思うように魔力が操れない。例えるなら、編み物をしていたら糸が勝手に動きだしたような感覚。
モニカの意思とは裏腹に、崩壊した魔力が手の中からこぼれ落ちていく。
「あぁ、この日が来るのを楽しみにしてたぜぇ……最高に強い獲物を、俺の作った道具で仕留めるなんて、最高じゃねぇか」
ヒューバードはモニカの目の前まで移動すると、その場にしゃがみ、床を這うモニカと目線を合わせた。
モニカを見下ろす目は恍惚とし、強い愉悦に満ちている。
「獲物は完全に四肢を使いモンにならなくしてから、持って帰って……美味しく味わってやんないとなーぁ?」
三日月のような笑みを刻む口。そこから覗く鋭い歯。
(──食べられる)
虎鋏に足を挟まれ、猟銃を向けられた動物の心地で、モニカは丸い目からボロボロと涙を流す。
ヒューバードが指輪をはめた指をモニカに向けた。
三本の雷の矢がモニカの真上に発生し、残された四肢──両手と右足に狙いを定める。
パチン、とヒューバードが指を鳴らした。雷の矢は真上から真っ直ぐに、モニカを貫くべく降り注ぐ。
だが雷の矢がモニカに直撃するより早く、モニカの体は床の上を横滑りに移動した。
「へ、ふっ?」
何者かがモニカの上着にモップの柄を引っ掛けて、モニカを手繰り寄せたのだ。
目を白黒させるモニカを抱き寄せたのは、細いがしっかりとした力強い腕。
「乱暴な助け方になってしまい、申し訳ありません」
モップを握りしめ、モニカを支えているのはイザベルの侍女、アガサだった。
アガサの背後には、髪も結わずに服を着替えただけのイザベルの姿もある。
「お姉様っ! あぁ、なんとお労しい……っ!」
イザベルはふらついているモニカの体をギュッと抱きしめると、ヒューバードを睨みつける。
ヒューバードは突然の乱入者に気を悪くした様子もなく、ニヤニヤ笑いながら立ち上がると、細い首をゴキリと鳴らした。
「んーっ、んっ、んっ、ん……今日はお仲間も一緒かぁ……いいぜぇ? 獲物は多い方がいい」
そう言って、ヒューバードが軽く手を持ち上げる。
その指にはめられた指輪が金色に輝いた。だが、雷の矢が生みだされるより早く、飛来した何かがヒューバードの手に突き刺さる。
銀色にきらめくそれは、食事用のナイフだ。
「あぁ、やっぱり猟銃も持ってくるべきだった。そうすれば君に、狩られる側の恐怖を味わってもらえたのに」
冷ややかに呟くのは、アイザックだった。
モニカの結界で足止めされていたはずだが、ヒューバードの魔導具が発動したことで、アイザックを閉じ込めていた結界も解除されている。
自由に動けるようになった彼は、どうやら酒場の裏手から回り込んできたらしい。
アイザックは持ち上げたナイフを手の中でクルリと回し、ヒューバードを睥睨した。
その敵意に満ちた眼差しにヒューバードは怯むことなく、鼻歌を歌いながら手に刺さったナイフを引き抜き、床に放り投げる。
「裏口からコソコソ回りこんできたのか? ご主人様のためなら手段を選ばない、元従者らしいやり口だなーぁー?」
アイザックの過去を仄めかすヒューバードの言葉に、アイザックはニコリと微笑む。美しいが見る者の心臓を凍てつかせる、冷ややかな笑顔だ。
臨戦態勢のヒューバードとアイザックが向き合っている中、アガサがモップを構え直してイザベルを見た。
「……お嬢様」
「えぇ、分かっているわ、アガサ」
イザベルは小さく頷き、噛み締めるような口調で言う。
「かの有名な、この台詞を口にする日が来るなんて……夢にも思っていませんでしたわ」
有名な台詞とはなんだろう? モニカがイザベルを見上げると、イザベルは凛々しい顔でヒューバードを見据えた。そしてオレンジ色の巻き毛をかきあげ、凛と響く声で告げる。
「アガサ……『やっておしまいなさい!』」
「承知!」




