【1】十二年前、ミネルヴァにて
数ヶ月ぶりにミネルヴァを訪れたカーラ・マクスウェルは、迷うことなく裏門から中に入り、素早く茂みの中に身を隠した。
そうして辺りに人がいないのを確認し、茂みから顔を出して、同行者に手招きをする。
「兄貴。ほら、こっち」
「なんで、こんなにコソコソしてるのさ〜。君はここの研究生なんだろ? 正門から入ればいいじゃんか」
「色々と事情があるのさね」
カーラはまだ二十歳という若さだが、既に上級魔術師資格を取得しており、〈星槍の魔女〉という二つ名も与えられていた。
一度に七つの魔術を操り、光属性魔術〈星の槍〉を編み出した才女。それがカーラの肩書きだ。
いずれ七賢人になることは間違いないと言われているカーラが、魔力濃度調査のために国中を旅して回っていることを、ミネルヴァの教授会はよく思っていない。
だから、見つかるといちいち引き止められて面倒なのだ。
「じいさん連中は、調査の旅より、ここで新しい魔術式の開発をしてくれってうるさいんだよ」
「すごいねぇ、期待されてるじゃんか〜。俺なんて論文書いたら、『君の小説はユニークだ』とか言われたんだよぉ? 酷くない?」
「兄貴の論文は目の付け所は悪くないし面白いけど、根拠の提示と詰めが甘い」
「うぅっ、妹が厳しいよぅ……」
カーラは茂みの陰を移動して研究棟に近づくと、人の流れが途切れたのを確認して、中に駆け込む。その後を、兄のセオドアがモタモタと鈍臭く走りながら続いた。
セオドアは竜の生態調査の研究をしている人間だ。カーラほどではないが、野外活動が多いはずなのに、呆れるほど体力が無い。今もちょっと走っただけで、フゥフゥと息を切らしている。
「兄貴……よくそんなんで、フィールドワークできるねぇ」
「君ほど若くないんだよぉ」
「まだ二十六でしょ。三十過ぎたらどうすんのさ」
「どうしようねぇ」
頼りない顔で笑う兄の呼吸が整うのを待って、カーラは研究棟の階段を登る。
滅多にミネルヴァに戻ってこないカーラが、外部の人間である兄を連れてミネルヴァに戻ってきたのには理由がある。
師匠であるギディオン・ラザフォード教授に、竜に詳しい生物学者を連れてきてくれと頼まれたのだ。
なんでもミネルヴァの敷地内で、竜の子どもが見つかったらしい。
人里で竜の卵や子どもが見つかった場合、軽率に殺処分するのは禁じられている。竜の怒りを買い、大きな災害を呼ぶことがあるからだ。
それ故、黒竜のような危険種でない限り、基本的にはその種族が暮らす土地に返すことを推奨されている。
ところが困ったことに、今回発見された竜はどこから来たのかが分からないのだという。
おまけに子どもの竜は鱗の色が変わりやすく、種族が分かりづらい。
そこでギディオン・ラザフォード教授は、
『おまえの身内に竜に詳しい学者がいたろ。ちょっと連れてきてくれや。あとたまには顔を出せ』
とカーラに手紙を送って寄越したのだ。
ラザフォードはカーラにとって恩師だ。カーラが魔力濃度調査の旅に出ることができたのも、ラザフォードの後押しがあってこそ。
そんな恩師からの頼みとあれば応えないわけにはいかない。ここ最近、ミネルヴァに顔を出していなかったのも事実だ。
弟弟子のルイスは今日も元気だろうか、などとカーラが考えていると、くだんの弟弟子の悲鳴が聞こえた。
セオドアがひぃっと息をのんで体を震わせる。
「な、なにっ、今の、地竜の断末魔みたいな声……っ!」
「あー、うーん……いつものことさね」
「いつもの!?」
見慣れた廊下の角を曲がり、ラザフォード教授の研究室に辿り着いたカーラは、ノックをしようと持ち上げた手を止める。
中から、ゴスッ、ゴスッ、と鈍い音が聞こえるのだ。
「カーラぁ、これ事件が起こってる音だよぉ……開けるのやめようよぉ……」
「うーん……」
中で起こっていることは大体想像がついた。
だからこそ、気乗りはしないが放ってもおけない。
カーラはノックをすると、あえて返事を待たずに研究室の扉を開ける。
「師匠、ただいまー………………わーお」
ラザフォードの研究室は、研究資材やら本やらが散乱していた。
そうして散らかり放題になった床に、栗色の髪の少年がうつ伏せで倒れている。カーラの弟弟子で今年で十七歳になるルイスだ。
その背中には白髪を短く刈った老教授が馬乗りになり、ルイスの後頭部を鷲掴んで床にグリグリと顔面を擦りつけていた。
この物騒なご老人が、カーラの恩師。〈紫煙の魔術師〉ギディオン・ラザフォード教授である。
ラザフォードは口に咥えた煙管を手に移し、反対の手でルイスを押さえこんだままカーラを見た。
「おぅ、カーラ。帰ったか」
「ただいま、師匠。それと、あー……可愛い弟弟子にも挨拶したいからさ、解放してあげよ? それ以上は可哀想だよ。ルイスの鼻が潰れちゃうって」
カーラがやんわりと窘めると、ラザフォードはボサボサの眉毛を寄せて、ケッと喉を鳴らした。
「なーにが可哀想なもんか。このクソガキ、新しい魔術を覚えたら殴り込み。結界を改良したら殴り込み。アホの一つ覚えみてぇに、毎日毎日喧嘩売りにきやがって」
「師匠に負けたのが、よっぽど悔しかったんだろうねぇ」
ラザフォードはフンと鼻を鳴らし、口に咥えた煙管を手に取って紫煙を吐き出す。
ラザフォードの二つ名は〈紫煙の魔術師〉。ラザフォードは煙管の煙に麻痺などの魔術式を付与する稀有な魔術の使い手だった。
この煙、風の魔術程度では簡単に散らせないし、一般的な防御結界をすり抜ける性質を持っている。
そのため、まだ未熟なルイスはいつもこの煙を吸い込んでしまい、麻痺したところをラザフォードに滅多打ちにされているのだ。
「今日なんざ、紫煙が充満してる室内を元気に暴れ回ってやがるから、遂に俺の紫煙を防ぐ結界を生み出したのかと思いきや……」
「違ったの?」
「ただ根性で動き回ってるだけだった。熊でも麻痺する毒を付与してんのに、どうなってんだこいつは」
そう言ってラザフォードはルイスの後頭部を煙管でポクポク叩く。気絶しているのか、ルイスの反応はなかった。
弟子相手に毒を仕掛ける師匠に呆れるべきか、そんな毒を受けても動き回っていたルイスに呆れるべきか。
結局カーラは二人に呆れることにした。
「毎日煙吸い続けて、耐性ついちゃったんじゃない?」
「次からは別の毒にするか」
「やめたげなよ、大人気ないなぁ。それより師匠、兄貴を連れてきたんだけど……」
カーラが振り返れば、兄は扉の陰に隠れてガタガタ震えていた。
兄貴ー、とカーラが声をかけると、セオドアは「ひぃっ」と怯えた声をあげる。
「魔術師養成機関って、こんなに治安が悪いのぉ!?」
「いやぁ、治安が悪いのはこの二人の周囲限定さね」
「地竜と火竜の縄張り争いに巻き込まれた気分だよぅ、帰りたいよぅ……」
メソメソと泣きだした二十六歳にカーラは苦笑しつつ、師に向き直る。
「えーっと、あれ、兄貴のセオドア。魔法生物学者」
「おぅ、悪ぃな、学者先生。遠路遥々お越しくだすったのに、見苦しいモン見せちまって」
見苦しいモンと言って、ラザフォードは気絶しているルイスを部屋の端に雑に蹴り転がした。
そうして隣の資料室から、少し大きめのケージを抱えて戻ってくる。
ケージの中にいるのは、猫ぐらいの大きさの竜の子どもだ。
「こいつが、くだんの竜の子どもだ」
「わぁっ!」
竜の子どもを見るや否や、セオドアはぱぁっと顔を輝かせて、ケージに飛びついた。
そうして猫の子でも愛でるかのように、デレデレと頬を緩める。
「可愛いねぇ、可愛いねぇ。性別は雄で、まだ生後一、二ヶ月ぐらい? お前はどこから来たのかなー?」
返事の代わりに竜の子は、シュゥッと息を吐くような声を漏らす。
その鳴き声を聞いただけで、セオドアには竜の子の機嫌が分かるようだった。
「おっと、警戒させちゃった? 大丈夫だよー、怖くないよー。服に草とか土とか擦り付けてくれば良かったなー。おじいちゃん先生、この子、食欲はある? 何食べさせてる? お水は一日何回? 魔力量計測はした?」
おじいちゃん先生と呼ばれたラザフォードは煙管を一口吸うと、なんとも言い難い顔で短い白髪をガリガリとかく。
「学者先生よ。こいつの種族は分かるかい? それ次第で、返す場所が変わってくるんだが」
「うーん……」
セオドアは檻の近くギリギリまで顔を寄せる。
子どもの竜は、全体的に茶褐色の鱗をしていた。ただ赤みがかった鱗や黒っぽい鱗、中には黄みがかった鱗もあるので、色だけで竜種を特定するのは難しい。
翼の形状も成長すれば違いが明確になるのだが、子どもの内はどの竜も然程変わらないのだ。
だがしばらく竜を観察したセオドアは、ナヨナヨした口調を引っ込めて断言する。
「上位種の赤竜だね。ほら、喉の辺りに火炎嚢がある」
「赤竜か。となると、返すのはダールズモア辺りが妥当だな」
ダールズモアはリディル王国東部にある山岳地帯だ。赤茶けた土の乾燥した土地で、火竜や赤竜の棲息地域と言われている。
カーラも魔力濃度計測の旅で何度か立ち寄ったことがあった。あの辺りは魔力濃度の高い土地が多いので、その魔力に惹かれた竜が集まりやすい土地でもある。
「ダールズモアに行くんなら、ルガロアの街を経由するのが無難だねぇ。うちも最近立ち寄ったよ」
カーラの言葉に、ラザフォードが短く切った白髪をガリガリとかいた。
「あー……ルガロアっつーと、地竜の暴走があったとこだったか?」
「そうそう、四、五年前ぐらいかな。少し前に通ったら、だいぶ復興が進んでたよ」
「あれからもうそんなに経ったのか。年を取ると忘れっぽくていけねぇなぁ……」
ラザフォードは眉間に皺を寄せて、煙管を手の中でクルリと回す。
そうして、床に転がっているルイスを一瞥して言った。
「よっし、とっととそのチビを返しに行ってくっか。おい、そこで寝たふりしてるクソガキ。おめーも来い。お師匠様の荷物持ちだ」
次の瞬間、ルイスは全身のバネを使って飛び起き、右足を軸にしてラザフォードに回し蹴りを放った。
シャァッと鋭く息を吐いて渾身の蹴りを放つ弟子に、ラザフォードは煙管を咥えてニヤリと笑う。
「クソガキが。殺気が隠せてねぇんだ……よっ!」
ラザフォードはルイスの蹴りをぎりぎりまで引きつけてかわし、バランスを崩したルイスの腹に拳を叩き込み、その拳を振り抜いた。
ルイスの細い体は冗談みたいに窓の外まで吹き飛んでいく。
セオドアが竜の檻を胸に抱いて、悲鳴をあげた。
「ここ三階ぃぃぃぃっ!」
「あー、大丈夫大丈夫。いつものことさね」
「やっぱり治安が悪すぎるよぅぅぅぅ!」
セオドアはグシュングシュンと洟を啜ると、不安そうに鳴いている子竜に話しかけた。
「ダールズモアには俺も一緒に行くからね。お前を、この物騒な人達だけに任せておけないよぅ……うぅっ、ミネルヴァ怖い……」