【おまけ】気になるお隣さん
ノールズ夫人の家の隣に小さなお嬢さんが引っ越してきたのは、とある夏のことだった。
薄茶の髪の小柄な少女で、いかにも内気そうな雰囲気である。見たところ、十六、七歳ぐらいだろうか。
この辺りは超がつくほどではないが、そこそこの高級住宅街だ。
少女はきっと裕福な家の娘さんで、早くに両親を亡くして財産を引き継ぎ、あの家でひっそり暮らしているのではないかとノールズ夫人は考えていた。
お隣さんの家に見目の良い金髪の青年が出入りするようになったのは、その少し後のことだ。
もしかして恋人かしら? それともご夫婦?
ノールズ夫人は密かに心躍らせた。
なにせ貿易商だった主人を亡くしてからというもの、日がな一日、窓辺の安楽椅子に座って編み物をしたり、庭いじりをしたりするだけの日々。子ども達は皆結婚して独立している。
そんなわけで暇を持て余していたノールズ夫人にとって、ちょっと変わったお隣さんは非常に好奇心をくすぐる存在であった。
夏の終わり頃、嵐がきた。
風があんまり強いものだから、ノールズ夫人は悩んだ末に、庭に出しているベンチを中に引っ込めることにした。
縁に小鳥の飾り彫りを施した木製のベンチは、亡き主人が趣味で作ったものだ。嵐で壊れてしまったら、とても悲しい。
ところがこのベンチ、老婦人と老メイドの二人がかりで持ち上げるには少々重たすぎた。持ち上げるのは少しばかり無理がある。
ノールズ夫人が困り果てていると、隣の家の庭から声がした。
「ご迷惑でなければ、僕にお手伝いさせていただけませんか、マダム?」
見れば、あの金髪の美しい青年がこちらを見ている。
訛りの無い美しい言葉は、上流階級の人間か、それに仕える人間のそれだ。
「とても困っていたの。助けてくださる?」
「喜んで」
青年は柵を乗り越えたりはせず、きちんと門の方からノールズ夫人の庭にやってきた。
そうして袖捲りをし、アームバンドをパチンと留める。
「このベンチを家の中に入れたいの。わたくし達が二人でこちら側を持つから、貴方は反対側を持ってくださる?」
「いいえ、僕一人で大丈夫ですよ。離れていてください」
そう言って青年はベンチに手をかけ、軽いかけ声と共に持ち上げた。
ベンチを縦向きにして肩に乗せるようにし、青年は目を丸くしているノールズ夫人に笑いかける。
「扉を開けていただけますか?」
「え、えぇ、えぇ!」
ノールズ夫人が扉を開け、老メイドがその扉を押さえた。
青年は「ありがとうございます」と言って、ふらつくことなくベンチを担いだまま歩きだす。
「この辺りに置いて構いませんか?」
「えぇ、お願い」
青年はベンチを下ろすと、ふぅっと息を吐き、ノールズ夫人を見た。
「他に、中に運んだ方が良い物はありますか?」
「いいえ、大丈夫よ。ありがとう、本当に助かったわ」
「力になれて良かった」
そう言って微笑む青年には、恩着せがましさが無い。
なんて感じの良い笑顔なのかしら! とノールズ夫人は密かに感動すらしていた。
「お隣さん、えぇと、なんとお呼びすれば良いかしら?」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ウォーカーと申します」
「ウォーカーさんは、お隣さんの……」
どういうご関係? と率直に訊くのも気が引けて、曖昧に言葉をぼかすと、ウォーカー氏は言葉を選ぶように少し間を空けて言った。
「通いの使用人のようなものだと思ってください」
それが、ウォーカー氏とノールズ夫人の出会いだった。
* * *
季節が夏から秋に移り変わり、吹く風に冷たさが混じり始めたある日、庭の秋薔薇の手入れをしていたノールズ夫人は、沢山の荷物を抱えて道を歩くウォーカー氏を見かけた。
「ごきげんよう、ウォーカーさん。大荷物ね」
「こんにちは、ノールズ夫人」
ウォーカー氏は足を止め、大きな紙袋を抱え直す。紙袋からは、リンゴなどの果物が見えた。
「実はモニカが風邪をひいてしまって……看病に必要な物を色々と買い込んできたんです」
モニカというのは、あの小さなお嬢さんのことだ。
あのお嬢さんが家主で、ウォーカー氏は月の半分ぐらいを住み込みで働いているらしい。
残りの半分は何をしているのか分からないが、きっとどこかで出稼ぎをしているのではないか、とノールズ夫人は密かに考えている。
ただ、漁師や船乗りの類でないことだけは確かだろう。サザンドールの海で働く男達は皆、例外なく日に焼けているものだ。
(それにしても……)
ウォーカー氏はいつも落ち着きのある、礼儀正しい青年である。
だが、今日の彼はなんだかそわそわしているように見えた。
風邪をひいてしまった小さなお嬢さんを心配している、というのもあるのだろう。だけど、それ以上に……。
「なんだか、張り切っていらっしゃるのね」
思ったことをそのままポツリと口にすると、ウォーカー氏は図星をさされたように口を引き結び、顔をこわばらせた。
そうして視線を彷徨わせ、恥ずかしそうに小声で言う。
「とても不謹慎な話なのですが、僕は少し浮かれているんです。誰かの看病をするのは久しぶりで……マダムの仰る通り、張り切ってしまった」
そのことを彼は酷く恥じているようだったが、ノールズ夫人は自分の息子を見ているような微笑ましい気持ちになった。
まだ息子が幼かった頃、ノールズ夫人が風邪をひいた時、「母様のためにお水を汲んできたよ」「母様のためにお花を摘んできたよ」と張り切っていたことを思い出したのだ。
「看病を張り切られて、嫌な気持ちになる人なんていないわ。あの小さなお嬢さんは幸せ者ね」
ウォーカー氏は何かを許されたような顔で、ほぅっと息を吐き、眉を下げて笑う。
紙袋を抱えるのと反対の手が、右目の上の前髪をグシャリと掴んだ。
「ありがとうございます、マダム」
* * *
モニカはクシュンとくしゃみをし、書きかけの書類に唾がとんでいないかを確認すると、また羽根ペンを動かし始めた。
モニカが今書いているのは、精霊王召喚を他の魔術式に呼応させるための魔術式だ。
「なぁ、モニカ。お前、起きてていいのか? キラキラは、お前におとなしくしてろって言ってただろ」
「……? おとなしくしてるよ?」
窓辺に丸くなって尻尾をユラユラさせているネロに、モニカは首を捻る。
確かにアイザックは買い物に行く前に、「君は熱があるんだから、暖かくして、おとなしくしているんだよ」と言っていた。
だからモニカはちゃんと上着を着込んでいるし、おとなしく椅子に座って書き物をしているのだ。
何も問題あるまい、とモニカは書き物の続きに取り掛かる。
ややあって、玄関の扉が開く音がした。アイザックが帰ってきたのだ。だが試算に夢中のモニカは気づかない。
「やっと三百八十二節……えへ……」
地道な計算を繰り返してようやく辿り着いた魔術式の三百八十二節は、今までの計算の集大成となる部分である。
モニカにとってメインディッシュのご馳走と言っても良い。この部分を作り上げるのを、モニカはとてもとても楽しみにしていたのだ。
早速取り掛かるぞ、と羽根ペンをインク壺に浸そうとしたら、何故か羽根ペンがスルリと抜き取られた。
背後に気配を感じて振り向けば、アイザックがニコニコと微笑んでいる。
笑顔なのに、ちょっと穏やかではない目をしていた。
「悪い子だね、モニカ。僕の言いつけは守ってくれなかったんだ?」
「……? 暖かくして、おとなしくしてます、よ?」
アイザックは羽根ペンをペン立てに戻すと、机の上に積み上げた紙の束を片づけ始める。
モニカが「あぁっ!」と悲しげな顔で手を伸ばせば、いつも以上にキラキラした笑顔が返ってきた。
「熱のある人間は、ベッドで寝ているものだよ」
「あ、あとちょっと、あとちょっとなんです……っ、今、やっと三百八十二節で……っ!」
「君の言う『あとちょっと』って?」
モニカは熱のこもった目でアイザックを見上げ、力強く言う。
「休憩なしで十二時間ほどいただければ……っ!」
「風邪をひいてる人間の台詞とは思えなくて、ビックリしたよ」
アイザックはモニカのワキの下に手を入れると、ヒョイとその体を持ち上げた。
「熱が下がるまで、ベッドで寝ていること。いいね?」
「じゃ、じゃあ、ベッドの中に紙とペンを……」
「なんて看病しがいのある患者なんだ。気合をいれてお世話するから、覚悟してくれ」
「紙とペン……」
グスグスと洟を啜るモニカに、ネロが言わんこっちゃないという顔で、ため息をついた。