【4】迫り来る脅威
モニカ達一行が宿に到着すると、紺色のローブを身につけた妙齢の美女が出迎えてくれた。
「ようこそ、旅の方。私はこの村の〈沈黙の魔女〉よ。スタンプカードはもう貰ったかしら?」
そう言って五番目の〈沈黙の魔女〉はアイザックにしなだれかかり、ローブを押し上げる豊かな胸を強調しつつニッコリ微笑んだ。
「ここの温泉は美容にも良いのよ。おかげでほら、私のお肌もツルツル……触ってみる?」
「スタンプをいただいても、レディ?」
アイザックは美女の流し目を笑顔でかわし、サッとスタンプカードを差し出した。
五番目の〈沈黙の魔女〉は、そんなつれないアイザックの態度に機嫌を損ねるでもなく、寧ろ色気たっぷりの微笑を浮かべ、胸の谷間から何かを取り出した……ハンコだ。
(な、なんで、あんなところに入れてるんだろう……? あのローブ、ポケットが無いのかな……)
モニカが真似をしたら、ハンコが足元に転げ落ちること必至である。
思わずまじまじと五番目の〈沈黙の魔女〉の豊かな胸元を見ていると、モニカの視線に気づいた妖艶な美女は、子どもに向けるような優しげな笑みを向けた。
ウィンクをしながら「はぁい」と愛嬌たっぷりに微笑む姿は、実に観光客慣れしている。
五番目の〈沈黙の魔女〉は慣れた手つきで全員のカードにスタンプを押すと、最後はアイザックに意味深な目配せを送った。
「私、夜は『ライラの店』にいるから……いつでも会いにきてね」
そう言って五番目の〈沈黙の魔女〉はアイザックの頬にキスをすると、ヒラヒラと手を振ってその場を立ち去る。
その後ろ姿にすら色気があるのは、女が自分の美貌とその魅せ方を分かっているからだろう。
(……堂々としてて、すごいなぁ)
自分の名前を騙られたことも忘れて偽物の背中を見送っていると、アイザックがモニカの肩をトントンと叩いた。
モニカがアイザックを見上げると、アイザックはモニカの顔をじっと無言で覗きこむ。
「……? どうしたんですか、アイク」
「うん、やっぱり妬いてはくれないんだな、って」
「…………?」
アイザックはちょっとだけ悔しそうに眉を下げると、気を取り直した様子で荷物を持ち直した。
「ううん、なんでもないよ。さぁ、部屋に行こう」
* * *
宿の裏手に設置された温泉に浸かりながら、モニカはほぅっと息を吐いた。
ゆっくりと手足を伸ばすと、外気で冷えていた手足の末端がじんわりと温まっていく。
温泉にはモニカ以外に人の姿はない。イザベルとアガサは先に湯浴みを終えているし、他の客はそもそも殆どいないのだ。村を散策している時も、モニカ達以外の湯治客は見かけなかったし、さほど栄えていない村なのだろう。
(こんな広いお風呂を一人で使うなんて、贅沢……ネロが聞いたら羨ましがりそう)
今回、半ば冬眠状態のネロはサザンドールの屋敷で留守番をしているのだが、モニカ達が温泉地に行ったことを知ったら、きっと「オレ様も行きたかった!」と不貞腐れるに違いない。寒がりの黒竜は風呂が大好きなのだ。
(ネロに何かお土産買っていこうかな……でも、流石に〈沈黙の魔女〉サブレは、ちょっと……うぅん……)
なお、〈沈黙の魔女〉サブレは何の変哲もない長方形のサブレなのだが、中央に「沈黙の魔女の村セチェン」と焼印がされている。
多分、持って帰ったら、ネロは腹を抱えて笑い転げるだろう。或いは「ウォーガンの黒竜サブレも作ろうぜ!」などと言いだすかもしれない。
そんな他愛もないことを考えているうちに、すっかり体も温まってきたので、モニカは長湯せずに上がることにした。
モニカは考え事に夢中になりやすい性分なので、風呂場で考え事をするとうっかり長湯をしてのぼせてしまうことがしばしあるのだ。
少し前にも自宅の風呂でのぼせて溺れかけ、アイザックに救出されたことがある。
どうして君は僕より強いのに、妙なところで死にかけてるんだい? ……と言われた時の居た堪れなさと言ったら!
その時のことを思い出して苦笑しつつ、モニカは服を着込む。
そうして濡れた髪を適当に拭きながら廊下を歩いていると、角を曲がったところでアイザックとでくわした。
アイザックの髪もしっとりと濡れているから、風呂から出たばかりなのだろう。
「やぁ、モニカ。今日はのぼせなかった?」
「は、はい……その節は大変ご迷惑を……」
溺れた時の事を思い出してモニカが縮こまっていると、アイザックはクスクスと笑って、まだ濡れているモニカの髪を指先でつまんだ。
「髪、きちんと乾かさないと風邪を引いてしまうよ」
「アイクも、まだ濡れてますよ」
「僕は短いから、すぐに乾くよ」
そう言ってアイザックはモニカの手から手ぬぐいを取り上げて、モニカの髪を丁寧に拭いた。
モニカが黙ってされるがままになっていると、アイザックは少しだけ身を屈めてモニカの顔を覗き込む。
いつもより近い場所にある碧い目は、何かを訴えているような気がした。
アイザックが何かに固執している時、彼の美しい目の奥には執着の火が灯る。
それでもアイザックの考えがいまだに掴めないモニカが、ぼぅっと碧い目を見つめていると、アイザックが少しだけ眉を下げて笑った。
「あぁ、良かった」
「…………?」
「君に拒絶されなくて」
アイザックの真意が分からず、モニカはきょとんと目を丸くする。
アイザックは髪を拭く手を止めると、モニカの前髪を指の先で整えた。
「君は異性の中でも特に、背の高い人が苦手だろう?」
「……!」
図星だった。モニカは異性が苦手だが、その中でも特に、背の高い男性が怖い。
昔、モニカを折檻した叔父が背の高い人だったのだ。だから、背が高い男性が目の前に立つと、モニカはどうしても萎縮してしまう。
それこそ数年前までは人に化けたネロですら怖くて、ネロが人間に化けると恐怖のあまり動けなくなることも珍しくなかった。モニカにとって、恐怖の対象は黒竜よりも人間だったのだ。
だが、そのことをアイザックに見抜かれているとは思わなかった。
「……どうして、気づいて……」
「以前、君がセレンディア学園に来たばかりの頃、ダンスの練習をしたのを覚えているかい?」
「は、はい……」
ダンスのテストで補習になったモニカとグレンのために、ニール、ラナ、それとアイザックとシリルが手伝いをしてくれた。
アイザックのスカーフの模様に見惚れてダンスを乗り切った、懐かしい思い出である。
「あの時の君は無意識にだろうけれど……僕とダドリー君が近くに立つと、酷く体がこわばっていたからね」
「……へ?」
「だから男性が苦手なのかなって思ったけど、シリルやニールの時はそうでもなかったから……僕とダドリー君の共通点と言えば身長ぐらいだろう?」
アイザックの言うとおりだ。
あの頃のモニカはまだ、グレンとも知り合ったばかりでそれほど打ち解けておらず、苦手意識があった。
なにより、背が高くて声が大きい男性がモニカは怖くて仕方がなかったのだ。
「……そうかも、です」
自分の頭上に誰かの手があると、それが自分の頭に振り下ろされるイメージが頭をチラつく。反射的に頭をかばってうずくまりそうになる。
「でも、今はもう、大丈夫です。アイクも、グレンさんも……酷いことはしないって……優しいって、知ってますから」
モニカが頼りない笑顔でそう言えば、アイザックは喉を震わせるようにして笑った。
そうしてモニカの頬に手を添える。風呂上がりだからか、彼の手はしっとりとして少し熱かった。
「困ったな。そんなことを言われたら、君に酷いことができなくなってしまう」
「えぅっ!? ひ、ひどいこと、したいん、ですか?」
思わず裏返った声をあげるモニカに、アイザックはニコリと微笑みながら言う。
「君のほっぺたは、つねり心地が良いんだ」
「つねり心地!?」
「おっと言い間違えた。触り心地」
モニカは咄嗟にバックステップで後ろに飛びすさり、両手で頬をガードした。
その奇怪な動きに、アイザックはとうとう声をあげて笑う。
「冗談だよ。僕が敬愛するお師匠様に、そんな酷いことをするはずがないだろう?」
「そ、そうですよね。冗談ですよね」
モニカがホッと息を吐いて、頬をガードしていた手を下ろすと、アイザックは笑顔で一歩距離を詰め、片手を持ち上げる……まるでモニカの頬を狙うかのように。
モニカは勢いよく両手を持ち上げて頬をガードし、アイザックを上目遣いに睨んだ。
「あの、つ、つねらない、ですよね?」
「どうしようかな」
「い、痛いのは、いやです……」
モニカが消えそうな声で主張すると、アイザックは意味深に目を細める。
「じゃあ、痛くなければいいんだ?」
「…………ぇ?」
頬をガードしていたモニカの手首をアイザックが掴む。
そうして彼は決して乱暴ではなく、けれど抗いがたい力でモニカの手首を背後の壁に押し付けた。
ポカンとしているモニカに、アイザックの長身が覆い被さり……
ギィ……
古い扉の蝶番が軋む音が聞こえた。
モニカとアイザックが同時に音の方に目をやれば、ほんの少しだけ開いた扉の隙間からこちらを覗いているイザベルと目が合う。
イザベルは「キャッ」と可愛らしい声をあげると、勢いよく扉を閉めた。
「わたくし何も見ていませんわ。どうぞ! どうぞ続きを!」
とりあえずモニカとしては、続きをされて頬をつねられては困るので、アイザックの手が緩んだ隙にそそくさとアイザックの横をすり抜け、イザベルの部屋に逃げ込む。
部屋の中ではイザベルとアガサが手を取り合って、激しく盛り上がっていた。
あれはセレンディア学園にいた時に、悪役令嬢ごっこで盛り上がっていた時の顔だ。
「あぁ、やっぱり、お姉様はわたくしのヒロインなのですわ……」
「壁にヒロインを追い詰めるプリンス……小説で読んだとおりの展開ですね、お嬢様」
「個人的には手首を掴むのではなく、壁に手をつくパターンも見てみたいですわ……!」
「キャー! 分かりますっ、分かりますぅ〜!」
どうしよう、とモニカは途方に暮れた。
二人が何に盛り上がっているのかが、さっぱり理解できない。
「あ、あのぅ……」
モニカが恐る恐る声をかけても、イザベルとアガサはまるで耳を貸さずにキャアキャアとはしゃいでいる。
モニカが困っていると、背後で扉が少しだけ開いた。アイザックだ。
「失礼、イザベル嬢。今後の打ち合わせをしたいのだけど、淑女の部屋に僕が入るのは気が引けるので、場所を変えようか?」
アイザックの言葉にイザベルはサッと表情を切り替え、言葉を返す。
「いいえ、わたくしの部屋で構いませんわ。この宿の方に聞かれても困りますもの」
「それでは、お言葉に甘えて」
アイザックが室内に入ると、アガサが素早く動いて全員に椅子を促し、イザベルもアイザックも当たり前のように腰掛けた。
数秒前までのやりとりが嘘のような切り替えの早さである。
モニカもおずおずと着席すると、イザベルが早速本題を切り出した。
「さて、それではこの村の処遇についてですが……」
イザベルの発言にモニカは狼狽えた。
確かに自分の名を騙るのはやめてほしいが、できれば大事にはしたくない。
「あ、あのっ、村の代表の方に、やめてくださいってお願いするのが一番、かと……」
初対面の相手に「やめてください」とお願いしに行くことを提案できるだけでも、モニカにしては結構な大進歩である。
だが、イザベルはそんなモニカを見て、ニッコリと柔らかく微笑んだ。
「ご安心をお姉様、こういう時にはセオリーというものがあるのですわ」
「……セ、セオリー?」
イザベルは「えぇ」と頷き、目をカッと見開いて芝居がかった口調で騙りだす。
「沈黙の魔女を騙り、お金儲けをする悪どい村人達! そこに訪れる突然の危機! ……この場合は、竜や盗賊の襲撃などが定番ですわね。とにかく、何らかの事態でピンチになり慌てふためく村人達!」
「えぇと……?」
「そこに本物の〈沈黙の魔女〉であるお姉様が颯爽と現れて、無詠唱魔術で事件をサクッと解決するのです! これで村人達はお姉様に感謝し、心を入れ替えること間違いなしですわ!」
世間知らずのモニカにはよく分からないが、イザベルが言うにはこれが偽物が現れた時のセオリーらしい。
「そ、そんな都合よく、村がピンチになったりしますかね……」
懐疑的な表情のモニカに、アイザックが穏やかに口を挟んだ。
「大丈夫だよ、お金で動く人間はいくらでもいるからね。必要なら、すぐにでも盗賊役を手配するけど?」
穏やかな笑顔でとんでもないことを言い出した弟子を、モニカは引きつり顔で見上げる。
「ア、アイク? それは……冗談、ですよね?」
返事は無言の笑顔だった。
サザンドールの家で、真剣に猟銃を持ち込もうとしていたアイザックの表情を思い出し、モニカは震え上がる。
イザベルもアイザックも、普段は良識と教養のある立派な紳士淑女である。
だが今回の件に関しては、二人とも容赦の二文字をかなぐり捨てている傾向があった。
おまけに、二人とも恐ろしく有能で行動力があるのだ。
何と言っても、第二王子のエリン公爵と、東の大貴族ケルベック伯爵家の令嬢である。
モニカが止めなければ、今すぐにでも行動に移りかねない。
自分がなんとかしなくては、とモニカは悲痛な覚悟で二人を諌める。
「ダ、ダメですよ。そういうのは、良くない、ですっ! 明日になったら、ちゃんと村の人と話し合いましょうっ」
「ですが、お姉様……」
「村の人達にも、事情があるかもしれないし……穏便に解決したい、ですっ」
この後も、イザベルとアイザックが次々と物騒な解決策を提示してきたが、モニカは頑として首を縦に振らなかった。
……さもなくば、地図から村が一つ消えかねない。
それぐらい、今のアイザックとイザベルは容赦が無いのだ。
* * *
イザベルが力説したセオリーは、実を言うと的をいていた。
まさに今この時、この瞬間、セチェン村には危機が迫っていたのである。
ただし、村に近寄っていた危機は竜でも盗賊でもない。
「んーっ、んっんっんっ。ここが〈沈黙の魔女〉がいる村かぁ……会いに来たぜぇ、俺の女王様ぁ」
ある意味、盗賊よりタチの悪い危機だった。




