【21】嵐の祝祭
ハイオーン侯爵令息シリル・アシュリーはレーンフィールド領主の屋敷付近で馬車を降り、風の強さに眉をひそめた。
あまりの風の強さに、肩に乗っていた二匹のイタチ──トゥーレとピケが飛ばされないか不安になって、シリルは慌てて二匹を鞄に押し込む。
「嵐が来ているらしい。危ないから鞄の中にいてくれ」
「嵐が来てるの? 楽しいね」
「いっぱい遊ばなきゃ」
トゥーレとピケの言葉にシリルは閉口した。
竜と精霊の感性は、やはり人間とは違うらしい。
「飛ばされたら危ないだろう」
「そうなの?」
「じゃあ、こうする」
二匹はシリルが止めるのも聞かず、勝手に鞄から飛び降りると、それぞれ人の姿に化けた。
白っぽい銀髪のおっとりとした青年がトゥーレ、淡い金髪を顎の辺りで切り揃えた女がピケだ。
なるほど人の姿なら、風に飛ばされる心配も無いだろう。
だが、この辺りでは見かけない民族衣装を着た二人はそれなりに目立つ。少なくとも従者として連れて行ける格好じゃない。
今日のシリルはハイオーン侯爵代理として、レーンフィールド領主に祭りの開催を祝いに来たのだ。悪目立ちは避けたい。
悩んだ末にシリルは提案した。
「私はこれから、領主の屋敷に挨拶に行く。二人は宿を探してきてくれ」
トゥーレ、ピケと正式に契約をしているシリルは、ある程度離れていても二人の居場所がなんとなく分かる。
流石に遠距離で会話ができるわけではないが、契約対象に対し「戻れ」と指示を送ることも可能だ。
「宿を探せば良いんだね?」
「分かった。探す」
二人はあっさり頷いて、強風の中、町の方に走っていってしまった。見た目は成人している男女なのだが、まるで嵐にはしゃぐ子どものようだ。
既に空からはポツポツと雨が降り始めていた。本降りになるのも時間の問題だろう。
シリルは風で乱れる髪を押さえ、領主の屋敷の扉を叩いた。
領主であるエリオットは正午から始まる儀式のため、町の外の森にある神殿にいるらしい。
その儀式を神殿近くまで見に行っても良いのだが、なにせこの天気だ。屋敷で待たせてもらった方が良いだろう。
屋敷を訪れると、領主代行の男が少し広めのホールにシリルを案内してくれた。
ホールには幾つかソファが並べられ、軽食や飲み物も用意されている。
神殿の儀式を終えた領主が戻ってくるまで、客人はここで歓談して待つのだ。
(……思ったより、人が少ないな)
十年前の祝祭はそれは盛大な催しで、屋敷には大勢の客人が押しかけたと義父から聞いている。
だが今年は嵐が来ているためか、客人の姿は少ない。
他の者に話を聞くと、嵐が通り過ぎてから挨拶をするべく、宿で待機している者が殆どなのだという。
律儀に祭りの当日に挨拶に来た人間は、シリルを含めてほんの数人しかいなかった。
領主が代替わりしたばかりの若者だから、というのも理由の一つなのだろう。どうやらエリオットは苦労しているらしい。
シリルが客人達の話に相槌を打っていると、その中の一人が「そう言えば……」となにかを思い出したような口調で言った。
「今年の魔術奉納は、七賢人の〈沈黙の魔女〉殿が行うらしいですよ。二大邪竜を倒した若き英雄! この後、挨拶できれば良いのですが……」
(モニカが?)
シリルは思わず驚き、窓の外を見た。
窓の外ではいよいよ雨が本降りになり、激しい雨粒が窓ガラスを叩いている。
ビュウビュウという風の音に、シリルは不安になった。
小柄なモニカが風に飛ばされて、コロコロと地面を転がっていく光景が頭をよぎったのだ。
(大丈夫だろうか……)
心配になって窓の外を睨んでいると、風と雨の音に混じって何かが聞こえた。
サァッと砂を流したような微かな音だ。
シリル以外の客人達も音に気づいたのか、怪訝そうな顔で辺りを見回す。
「今、何か妙な音がしませんでしたか?」
「えぇ、窓の外の方から……」
その時、砂を流すような音が止まり、明瞭な声が響いた。
* * *
白いドレスを身につけた歌姫ロージー・ムーアは、窓の外を眺める。外ではザァザァと音を立てて雨が降り、強い風が森の木々を揺らしていた。
この嵐だ。町で屋台や芝居の舞台を出す者はいないだろう。
町の出し物やマーケットの類は全て、嵐が通り過ぎた翌日に持ち越しされるはずだ。
それでも捧歌の儀だけは予定通り行われる。
神殿の老人達は暦を気にするし、多忙な七賢人や人気の音楽家を引き留めるわけにもいかないからだ。
それにしても馬鹿らしいのは、こんな悪天候の中でも、儀式は神殿の前──野外と定められていることだ。
風の精霊王様に捧げる歌だから、野外でなくてはいけないと、頭の硬い神官達は頑なに言い張っている。
「……あはっ」
ロージーは暗く笑う。
こんな酷い天気の中で歌を歌わなくてはいけないというのに、ロージーは内心安心していた。
だってこれなら、観客が来ないことも、祭りが盛り上がらないことも、全部嵐のせいにできる。
(あぁ、良かった。あとは適当に歌を歌って儀式を終わらせて、暖かい室内に引っ込もう)
十年前、歌姫として舞台に立つ母を見て、ロージーは心を躍らせた。
いつか自分もあの舞台に立って、母みたいに人々に感動を与えるのだと心の底から願っていた。
だから母が死に、自分が次の歌姫に指名された時、ロージーは今まで以上に力を入れて歌を練習した。
必死だった。必死で頑張って、頑張って、頑張るほどに思い知らされた。
──自分は、期待されていない。
新しい領主が挨拶しに来た日、ロージーは自分の歌を聴いてもらうつもりだった。
一番得意な歌を聴かせて、どう領主様? と得意げに笑ってやるつもりだったのだ。
だが、あの若い領主は祭りには消極的で、神殿なんて金食い虫だと言いたげな顔をしていた。
司祭に挨拶をして、いくつか言葉を交わしたら、高慢な態度で鼻を鳴らして、さっさと帰ってしまった。
歌姫のことなんて話題にもしなかった。
(あの領主様も、どうでも良いんだ)
それなのに、どうして自分が必死になって頑張らなくてはいけないのだろう。
馬鹿みたいだ、と思った。
必死になって、ムキになっても恥をかくだけだ。
そもそもこの雨だ。楽器が濡れてしまうし、音も響かない。きっと、あの天才音楽家もやる気にはなれないだろう。
(だったら、手抜きの歌でいい)
そろそろ時間だ。
ロージーは白いドレスの裾を翻し、玄関ホールに向かう。
扉の前には、この神殿の神官達と、あの若い領主様──エリオット・ハワードが立派な衣装を着て佇んでいた。
エリオットが着ているのは光沢のある黒い上着に新緑色のマント。マントには立派な装飾が幾つもぶら下がっていて、ロージーは思わず失笑する。
だって馬鹿みたいじゃないか。これから大雨の中で儀式をしなくてはいけないのに。
あの立派な飾りもマントも、風で吹き飛んでしまうのではなかろうか。
エリオットが口を開く。堂々とした低い声だった。
「これより捧歌の儀を始める。歌姫ロージー・ムーア。前に進み出よ」
ここでロージーが前に進み出て領主の前に跪き、領主が歌姫の頭に花冠を載せる──それが、本来の段取りだ。
だがロージーは前に進み出て、そのまま跪くことなくエリオットを見上げる。
「花冠はいいよ。だって、外に出たら嵐で吹き飛んじゃうもん」
「…………」
「だからさ、これ以上嵐が酷くなる前に、さっさと儀式終わらせようよ、領主様」
ロージーの態度に神官達が青ざめ、狼狽える。
いい気味だ、と周囲の反応を嘲笑っていたら、エリオットがニヤリと口の端を持ち上げた。
「ほぅ? これを見ても、その台詞が言えるかな?」
「……?」
エリオットがマントを翻し、神殿の扉を勢いよく開く。
強い雨風が中に吹き込んでくるのをロージーは覚悟していた。
だが雨粒はおろか、そよ風すらも感じない。
ザァザァという雨の音も、窓ガラス越しのように遠く聞こえる。
神殿の前には、新緑色の大きな敷物が敷かれていた。その上にピアノが設置され、ピアノの前には音楽家ベンジャミン・モールディングが座っている。
ベンジャミンが鍵盤の上で指を走らせた。軽やかなメロディが室内とはまた微妙に違った音で反響する。
(敷物の周りに、結界を張ってる……?)
なるほどこれなら、雨に濡れることなく楽器を演奏することができるだろう。
敷布の中央には、美しい刺繍を施したローブを着込み、黄金の杖を手にした小柄な少女──〈沈黙の魔女〉が佇んでいた。彼女がこの結界を張っているのだ。
偉大な七賢人という肩書きには不釣り合いの、幼く見える魔女だ。十六歳のロージーとそれほど年が違わないのではないだろうか。
だが、美しく髪を結い、化粧を施したその顔は、〈沈黙の魔女〉の名に相応しい静謐さと厳かさがあった。
〈沈黙の魔女〉が口を開く。凛と響く、澄んだ声だった。
「これより、魔術奉納を行います。皆々様、どうぞ空をご覧くださいまし」
見上げた空には灰色の雲が流れている。
その灰色の雲の前に、白い光が煌めいた。
光の粒子は一箇所に集い、門となる。
十年前にロージーはあの門を見た。あの時は四つ同時に開いたけれど。
「開け、門」
ゆっくりと開いた門の向こう側から、黄緑色に煌めく光の粒子を伴って、強い風が吹く。その風は一時的に灰色の雲を割いた。
雲の隙間から差し込む陽の光が、灰色の空に帯を描く。
「静寂の縁より現れ出でよ、風の精霊王シェフィールド!」
その言葉と同時に、ロージーの目の前に花びらが舞った。
扉の影に大きな木箱が置かれていて、そこに詰め込まれた花びらが風に舞い上がったのだ。
ベンジャミンが鍵盤の上で指を走らせた。
軽やかで心浮き立つような、春の日差しの中でスキップをしているような、そんな温かな音楽が響く。
煌めく光を伴う風が、春の花を踊らせる。
そんな幻想的な光景の中、〈沈黙の魔女〉がよく響く声で告げた。
「これより風の精霊王様が町を巡られます。この花を、音楽を、どうぞ町の皆々様も、精霊王様と共にお受け取りくださいますよう」
ロージーはパカンと口を開いて〈沈黙の魔女〉を凝視する。
(あの小さな魔女様は、今なんて言った?)
唖然とするロージーに、エリオットが意地悪く言う。
「〈沈黙の魔女〉殿が町全体に仕掛けをしたんだ。これから、この結界内の音楽を町全体に響かせる」
その言葉に、ロージーの胃がキュゥッと萎縮した。
(やめて……やめてよ……!)
素晴らしい魔術と素晴らしい音楽による演出。自分はこんな素晴らしい舞台に見合うだけの歌姫じゃない。こんなすごい人達と並び立てるような存在じゃない。
入り口の前で立ち尽くすロージーの頭に、何かが載せられた。花冠だ。
見上げれば領主様が、大変に意地の悪い顔で笑っている。
「どうだ、すごい舞台だろう。観客はこの町の人間全員だ」
「…………」
「でもな、これだけのことをしても、十年前の方が良かったって言うやつは腐るほどいるんだ」
エリオットは皮肉っぽく呟き、肩を竦める。
「きっと君はこれから十年前の歌姫と比べられるんだろう。それなのに全力を出すなんて恥ずかしい……そう思ってないか?」
「……っ」
図星を刺されて、ロージーの頬が羞恥に赤くなる。
そんなロージーを見下ろす若い領主様は、若造だけどロージーよりずっと大人の顔をしていた。
「でもな、恥をかくと分かっていても、全力でやり遂げなくちゃいけないんだよ。それが領主である俺の役目であり、歌姫である君の役目だ」
神官達の間を割って、一人のメイドが現れた。
金髪の美しいメイドは、手にした黒いケースを「どうぞ」とエリオットに差し出す。
エリオットはそのケースを受け取り、蓋を開けた。ケースの中身はバイオリンだ。
「だから、俺も一緒に恥をかいてやる」
「……は?」
エリオットはバイオリンと弓を手に、前に進み出てピアノの横に立つ。
そうして、若干ヤケクソみたいな声で叫んだ。
「天才音楽家ベンジャミン・モールディングと、素人同然の俺が一緒に演奏するんだぞ! こんな恥ずかしいことがあるか!」
唖然とするロージーに、エリオットは更に言い放つ。
「領主の俺が一緒に恥をかくと言ってるんだ! 全力を出す気がないだなんて言い訳はさせないぞ、歌姫ロージー・ムーア!」