【16】春の嵐
ふわり、ふわりと風に漂っていたリィンズベルフィードは神殿の屋根の上につま先から静かに着地する。
耳を澄まさずとも、町の方角からは賑やかな声と音楽が聞こえた。祭りが始まるのだ。
神殿から少し離れたところに設置された木の柵の前には、既に大勢の人が押しかけ、歌姫の歌と七賢人の魔術奉納を、今か今かと待ちわびていた。
──とびきりすごいのを、お見舞いしてあげる。
あの日から、カーラとは会っていない。カーラはテントを畳み、森を去ってしまったのだ。
もっと名前で呼んでほしかったのに、とリィンズベルフィードは惜しく思っていた。
(惜しく思う……これは、執着でしょうか?)
風である自分にも、何かに執着する気持ちはあるらしい。
そしてリィンズベルフィードには、カーラがこの町からいなくなったら、いよいよ自分は消滅するのだろうという予感があった。
魔力を失って消滅するのではなく、自我を失くして、自分が何者かを忘れて消滅するというのが、なんとも自分らしい。
ルベルメリアは自我の塊だ。リィンズベルフィードがいなくなっても、元気にゴウンゴウンしていることだろう。今日も祭りにはしゃいで、上空の方で元気にゴウンゴウンしている。
神殿の前からピアノの音が響いた。それに合わせて、歌姫の歌声が響く。
美しい歌だ、とリィンズベルフィードは素直に感心した。風霊は美しい音楽を好む。
神殿が用意した歌姫の歌は、時代が時代なら風の精霊王に献上されていたのではないだろうか、と思うぐらいに素晴らしかった。これは百年に一人の歌声だ。
ピアノの音と歌姫の歌声、そこにシャランと涼やかな音が響いた。
歌姫の横に立つローブを着た人物が、美しい装飾を施した杖を掲げている。
ローブの隙間から見えるのは、赤茶の髪の毛──カーラだ。
カーラは杖を掲げて詠唱を始めた。長い、長い詠唱だ。その詠唱を聞いたリィンズベルフィードは違和感を覚えた。
(詠唱が、違う)
カーラはこの祭りで、〈星槍〉を披露すると言っていた。
だが、カーラが口にしているのは、あの夜に聞いた詠唱と違うのだ。
杖が白い光に包まれると同時に、空に膨大な魔力が集う。見上げた空には白い光の粒が集い、形を成していた。
──あれは、門だ。
白い光で形成された門。それが何を意味するかをリィンズベルフィードは知っている。
「……精霊王、召喚」
あの門が開かれると同時に、精霊王の力の一部が顕現する。
使い手の少ない上位魔術の一つだ。
カーラは自分にこれを見せたかったのだ、と思った。
風の精霊王の力に触れれば、リィンズベルフィードが自我を取り戻すのではないかと、カーラは考えたのだろう。
だが、上空の門は閉ざされたまま開かない。
どういうことだと人々がざわつく中、カーラは詠唱を続ける。その横顔にはじわりと汗が滲んでいた。
(まさか……)
シャラン、と杖が鳴り、再び上空に魔力が集う。
そして、二つ目の門が形成された。だが、カーラの詠唱はまだ止まらない。
(そんな、ことが……)
上空に三つ目の門が浮かび上がる。
レーンフィールドの森の真上に浮かび上がったその門は、それぞれ北、南、東を向いていた。
カーラの詠唱は続く。
「あぁ……」
感嘆の吐息というものを零したのはいつ以来だろう。
空に四つ目の門が浮かび上がった時、リィンズベルフィードの唇から、確かに吐息が漏れたのだ。
歌姫の歌が途切れ、伴奏になったタイミングで〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェルは声を張り上げる。
「開け、門」
四つの門が同時に開いたその瞬間、周囲の風の精霊達が一斉に沈黙した。
ほんの僅かな時間、静寂が輪のように広がる。
「静寂の縁より現れ出でよ、風の精霊王シェフィールド!」
東西南北四つの門が、煌めく光の粒子を纏って、遠くの風を連れてくる。
精霊王召喚の魔術は精霊王そのものを召喚するのではなく、その力の一部を呼び出し、行使するというものだ。それゆえ、一度に四つ同時に展開することは理論上不可能ではない。
だが、それをできる存在が歴史上にどれだけいるだろう。
少なくともリィンズベルフィードは他に見たことがない。
これは、一度に七つの魔術を操る大天才〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェルだからこそできる奇跡だ。
気がつけばリィンズベルフィードは神殿の屋根から飛び上がり、荒れ狂う風の中に飛び込んでいた。
ヒヤリと凍てつく北の風、草原の枯れ草を運ぶ乾いた東の風、果実の香りがする温かな南の風、潮の香りの湿った西の風、それらに揉みくちゃにされながら、リィンズベルフィードは四つの門の中心に辿り着く。
四つの風の中心でもあるそこだけは、風が凪いで穏やかだった。
(そうだ、わたくしは……)
荒れ狂う風の中心で、リィンズベルフィードは思い出す。
春の嵐だ。
ゴウンゴウンと渦巻く春の嵐の中心で、風霊リィンズベルフィードは生を得たのだ。
ルベルメリアが自分を兄と慕うのは、同じ嵐から生まれたからだ。リィンズベルフィードは嵐の中心、ルベルメリアはそれを取り巻く風だった。
それを思い出した時、パチパチと目の前で何かが弾けるような感覚がした。
リィンズベルフィードは眼下の神殿を見下ろす。祭壇の前で杖を手に空を仰ぐ人。
奇跡を起こした偉大な魔女はこちらを見上げ、笑っている。
その笑顔を見た瞬間、リィンズベルフィードは確かに聞いたのだ。
己の胸の奥で、ありもしない心臓が鼓動する音を。
込み上げてくる強い感情が胸を叩く。目の奥がチカチカして、世界が輝きだす。
その輝く世界の中心で笑っているのは、〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェル。
「──……! ──……、…………!」
リィンズベルフィードは門の中心で歓喜の歌を歌う。
精霊の歌は魔術の詠唱と同じだ。リィンズベルフィードを中心に煌めく光が渦を成し、風が渦巻く。春の嵐を起こす。
長い間奏が終わり、歌姫の歌が始まった。
リィンズベルフィードの歌声に歌姫の歌が重なり、広がっていく。
全く違う言語の全く違う歌なれど、歌は不協和音になることなく溶け合い、人間と精霊の心を震わせた。
* * *
「精霊王召喚を、四つ、同時、維持……」
モニカは泡をふいて倒れそうになるのを堪え、リンを見上げた。
レーンフィールドを訪れる前、モニカは事前に過去の記録を読んで、前回の魔術奉納で使われた魔術を調べている。
記録には「風の精霊王召喚」とだけ記録されていた。それを見て、モニカはずっと疑問に思っていたのだ。
何故〈星槍〉ではないのだろう? と。
(精霊王召喚なんて、二つ同時でも難しいのに……それを四つ……四つぅぅぅ……!)
純粋に魔力量の問題もあるが、高度な魔術ほど同時維持するのは難しいのだ。
カーラの複数の魔術を同時維持する技術は、モニカには真似できない奇跡である。
「〈星槍の魔女〉様……本当に、すごかったんですね」
「はい、本当にすごかったのです」
語彙力の無いモニカの感想に、リンは力強く頷いた。
切り株に腰掛けたモニカは、立ち上がる気力も無く頭を抱える。
モニカにできる、一番強力な魔術が精霊王召喚だ。
だから魔術奉納でも当然にそれを披露するつもりでいたのだが、十年前にカーラが同じ魔術を披露しているのだ。それも四つ同時に。
今更モニカは気がついた。
モニカの無詠唱魔術の利点は、素早く目立たず発動できることにある。
そしてそれは、華やかさや見栄えを求める魔術奉納とは致命的に相性が悪いのだ。
以前、黒獅子皇はモニカに言った。無詠唱魔術は地味で華が足りない、と。
全くもってその通りだった。
(わ、わたし、今年の魔術奉納、どうしたら……っ)
モニカが頭を抱えていると、リンが淡々と言った。
「かくして、わたくしはカーラのおかげで自分が何者かを思い出し、自我を取り戻したのでございます」
「あ、はい……」
それより今年の魔術奉納どうしましょう、とも言えず、モニカはぎこちなく相槌を打つ。
リンは首を捻って、ルベルメリアを見た。
「ここまでは、ルベルメリアも記憶しているかと」
「はい、はい、覚えておりますとも。その後、兄様は森からいなくなられた……あの〈星槍の魔女〉と契約して森を出られたのですよね?」
「いいえ」
リンは首を横に振った。
そうだ、とモニカは思い出す。リンの契約者はカーラではない。
〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーなのだ。
(でも、どうして……)
風の精霊王が召喚できたということは、カーラの得意属性は風。リンとの契約は問題ないはずだ。
なのに、何故、カーラとリンは契約をしなかったのか。
その答えを、リンは静かに口にする。
「わたくしは、カーラに振られたのです」




