【2】パラリと一振り(美味しくなぁれ)、ボフンと二振り(早く帰れ)
およそ二年前、第二王子が入れ替わり疑惑をかけられた最高審議会において、〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットは友人達に力を借り、アイザック・ウォーカーという一人の青年を救った。
この件に協力した者達は第二王子の正体を当然に知っているわけだが、その後の彼が〈沈黙の魔女〉の押しかけ弟子になったことを知らない者が数人いる。
それは例えばエリアーヌ・ハイアット嬢やロベルト・ヴィンケルのように、たまたま知る機会が無かっただけの者もいれば、意図して真実から遠ざけられている者もいた。
第七十五代目生徒会役員達曰く。
『あの男に言う必要性を感じない。殿下の迷惑になるだろう』
『あたくしから、それをわざわざ言う必要がありまして?』
『えーっと、そのぅ……そういうことは、僕の口から言うようなことではないかなーと……』
かくして旧生徒会役員達の配慮により、「フェリクス殿下の今」を知らない男がいた。
──エリオット・ハワード。
本物のフェリクス王子の友人であり、入れ替わったアイザックの正体に真っ先に気づいた、アイザックにとって天敵とも言える人物である。
* * *
馬車から降りたエリオットは潮風に跳ねる髪を撫でつけながら、しかめっ面でサザンドールの住宅街を歩いていた。
髪を押さえるのと反対の手には住所を記したメモ。そこには番地とエヴァレット魔法伯の名が記されている。
エリオットがしかめっ面をしているのは、道に迷ったからではない。もう間も無く彼は目的地である〈沈黙の魔女〉の家に到着するだろう。
彼を悩ませているのは、くだんの〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットだ。
(俺は、あの子リスに、どう接すればいいんだ……)
モニカがセレンディア学園にいた頃はノートン嬢呼び、或いは揶揄いを込めて子リスと呼んだりもしていた。
だがモニカの正体はこの国の魔術師の頂点に立つ、偉大な七賢人〈沈黙の魔女〉なのだ。
(まぁ、エヴァレット魔法伯と呼ぶのが妥当だよな……魔法伯……あの挙動不審な子リスが、魔法伯……)
エリオットは身分階級至上主義である。であれば、自分よりもずっと立場が上であるモニカに対して敬うべきだと頭では分かっていた。
だが威厳とは無縁のモニカの言動や、珍妙な奇声の数々を目の当たりにしている身としては、どうにも敬おうという気になれないのだ。
実を言うと、卒業式の後の秘密の打ち上げにモニカが顔を出した時も、エリオットはぎこちなく一言二言、言葉を交わしただけだった。
そしてそれ以降、エリオットはモニカとは会っていない。
(シリルは仕事の関係で何度か会ってるらしいな……そういや、アイツはどうなんだ?)
アイツ──己の天敵とも言える男の美しい顔を思い出し、エリオットが顔をしかめていると、前方にその美しい顔が見えた。
「………………は?」
エリオットは立ち尽くし、目を擦る。
視線の先、モニカの家の隣家の庭で、アイザック・ウォーカーは工具箱片手に白髪のマダムと立ち話をしていた。
「柵だけでなく雨樋まで直してもらっちゃって、ごめんなさいねぇ、ウォーカーさん。主人が死んでからは、この手のことが後回しになりがちで……」
「こちらこそ、いつもモニカを気にかけてくださって、本当にありがとうございます。また、僕はしばらく留守にするので……」
「えぇ、えぇ、分かってるわ。時々、あのお嬢さんをご飯にお誘いするわね」
「助かります。モニカはたまに食事を疎かにして、倒れているものですから」
「ふふっ、気になさらないで。わたくしも若い方とお食事ができて嬉しいもの。あぁ、そうそう。リンゴのタルトを作ったの。この間のニンジンのお礼に持っていってちょうだい」
「ありがとうございます、ノールズ夫人」
この国の第二王子と全く同じ顔をした男は、質素なシャツにズボン、ベストという格好で、老婦人と和やかに言葉をかわしている。
そうして老婦人からタルトの皿を受け取ると、右手に工具箱、左手にタルトの皿を持って庭を出て……そしてエリオットを見て、足を止めた。
「…………」
「…………」
こんなところで何をしてるんだクソ従者。と罵倒するべきか。
それとも、これはこれはエリン公、新しい趣味にお目覚めで? と皮肉を言うべきか。
エリオットが悩んでいるとアイザックはニコリと微笑み、エリオットの前を爽やかに通り過ぎていった。そうして〈沈黙の魔女〉の家に入り、ガチャンと音を立てて鍵をかける。
あの男は、あろうことかエリオットを笑顔で無視したのだ。
エリオットは扉に駆け寄り、ダンダンと乱暴にノックした。
「ふっざけんな! 人の顔を見るなり逃げ出すとは良い度胸だな! そもそもなんでお前が、こんなところでご近所付き合いに勤しんでるんだよ!?」
返事は無い。完全に居留守を決め込むつもりか。
「あんんんっの、性悪従者……っ」
エリオットが怒りに全身を戦慄かせていると、背後でポソポソと小さな声がした。
「あのぅ、ハワード様……ど、どうして、ここ、に……」
振り向けばそこに佇んでいるのは、春物の外出着を着たモニカだった。
エリオットはもう、先ほどまでの葛藤など忘れて、モニカにズンズンと詰め寄り、その肩に腕を回す。
そうして逃げられないようにしっかりとモニカの肩を掴み、いじめっ子の顔で笑った。
「やい従者! この子リスがどうなっても良いのか!」
「へっ? えっ? あのぅ、あのぅ……?」
モニカがオロオロしている間に、扉が内側からゆっくりと開く。
ようやく姿を見せたアイザックはエリオットを他人を見る目で一瞥し、モニカにだけ笑いかけた。
「おかえり、モニカ。そちらの彼はお客様かな?」
殿下の顔でなかったら殴ってやるのに──エリオットは心の底からそう思った。
* * *
(い、一体、何がどうなってるんだろう……)
自分の家であるにも関わらず、モニカは椅子の上で縮こまってビクビクとしていた。
向かいの席では客人であるエリオット・ハワードが腕組みをして、しかめっ面をしている。
エリオットと会うのは、卒業パーティの打ち上げにこっそり参加した時以来だった。
その時もエリオットとは然程言葉を交わしていなかったので、尚のこと久しぶりに感じる。
(アイクは……ハワード様に、自分がここにいること、教えて……ないよねぇぇぇ……)
なにせエリオット・ハワードは身分階級至上主義者であり、己の本分を弁えない者が大嫌いだ。
貴族なら貴族、平民なら平民として、その役割を果たすべき──そう考えているエリオットが、お忍びで魔女の弟子をしているアイザックを良く思う筈がない。
気まずさに耐えられなくなったモニカが膝の上で指をこねていると、キッチンに篭っていたアイザックがリンゴのタルトと紅茶を載せた盆を持って戻ってきた。
アイザックはリンゴのタルトをモニカとエリオットの前に置くと、シナモンの粉末をモニカのタルトにパラリと一振り、エリオットのタルトにはボフンボフンと景気良く振りかける。
エリオットがヒクヒクと頬を引きつらせて、アイザックを睨んだ。
「…………おい」
「お隣のノールズ夫人にいただいたんだ。どうぞ召し上がれ」
エリオットは凄まじい形相でアイザックを睨んでいたが、無理矢理口の端を持ち上げて笑っているような顔を作り、モニカに話しかけた。
「知ってるか、子リス。昔、クロックフォード公爵の屋敷に、俺の菓子にだけ執拗にシナモンを仕込む陰険な使用人がいてな」
「へ? え、えっと……?」
「そいつは、俺がシナモンを大っっっ嫌いだと知った上で、菓子に仕込んでいたんだ。しかも、俺の父上が同席している時を狙って」
アイザックは鉄壁の笑顔のまま、昔を懐かしむような柔らかな口調で言った。
「ダーズヴィー伯爵はとても厳しい方だったね。特に息子の偏食には目を光らせていた」
「やっぱり狙って仕込んでたんだな……っ」
「仕込むなんてとんでもない。誰かが料理人に『エリオット様はシナモン多めの菓子をご所望です』と伝えたんじゃないかな」
「お、ま、え、だ、ろ……っ!」
いつもと変わらぬ笑顔なのに、そこはかとなく敵意が透けて見えるアイザックと、分かりやすく嫌悪を向けるエリオットの攻防に、モニカは震えあがった。
どうやらモニカが思っていた以上にこの二人、仲が悪かったらしい。これでよく生徒会役員時代に隠し通せたものである。
とにかくこの空気をなんとかしなくては、とモニカは自身のタルトをエリオットに差し出した。
「あの、わたし、シナモン好きなので……交換します、か?」
エリオットは無言でモニカと皿を交換すると、リンゴの上にほんの一振りだけかけられたシナモンをフォークで執拗にこそげ落とした。フォークに付着したシナモンもナプキンで丁寧に拭う。よほど嫌いらしい。
「知ってたか、従者。殿下も『私はシナモンが好きだから交換しよう、エリオット』って言って、こっそりシナモンの入ってない菓子と交換してくれてたんだぜ?」
「毒味役が聞いたら卒倒しそうな話だね」
「俺にシナモンを盛ってたやつが言うな」
エリオットが呆れたように鼻を鳴らすと、アイザックは澄まし顔でしれっと答える。
「これは失礼。エリオット様はシナモンがお好きなのかと勘違いをしておりました」
丁重だが小馬鹿にしているのを隠そうとしない態度に、エリオットがこめかみをひきつらせた。
モニカはポカンと目と口を丸くして、アイザックを見上げる。
(なんか、すごく……すごく……今日のアイクは、子どもっぽい!)
モニカがちょっとした衝撃を受けている間に、エリオットはタルトを口に運ぶ。
モニカもあわててシナモンまみれのタルトをチマチマと食べつつ、エリオットに訊ねた。
「えっと……ハワード様、今日は、どのようなご用件で……」
「祝祭の魔術奉納」
そう口にしたのはエリオットではなく、アイザックだった。
アイザックは小さく微笑み、エリオットを見る。
「正解かな、ハワード子爵?」
「へぇ、この話を知っている程度には、仕事をしているわけか」
モニカはアイザックの言葉に瞬きをし、タルトを食べる手を止めて訊ねた。
「えっと……子爵?」
「少し前に爵位を賜ってな。今はレーンフィールドっていう町を治めてる」
レーンフィールドは王都よりやや北東部に位置する田舎と都会の中間のような町で、楽器作りで有名なのだという。
そのためか音楽活動が盛んであり、所有する楽団の数はリディル王国でも三本指に入るのだとか。
「レーンフィールドは町の外に小さな森があって、その奥に風の精霊王シェフィールドを祀る神殿があるんだ。そこで、もうすぐ祭りがある」
リディル王国では精霊王を祀る神殿はそこそこあるが、実を言うと風の精霊王を祀る神殿は然程多くない。
最も多いのはやはり、光の精霊王の神殿だろう。次に多いのが農民に親しまれている大地の精霊王と水の精霊王。続いて鍛治師や戦士に親しまれている火の精霊王だ。
堅実な他の精霊王に比べて、風の精霊王は気紛れを起こすエピソードが多いので、いまいち信仰されていないのである。
ただ、風の精霊王は芸術や音楽を司ると言われているので、音楽が盛んなレーンフィールドに神殿があるというのは納得のいく話ではあった。
「この祭りっていうのが、十年に一度だけやる規模の大きい祭りでな。神殿に歌と祈りを捧げた後で、魔術奉納を行うんだが……」
祭事の際に魔術師が魔術を披露し、それを奉納することを魔術奉納という。
主に上級魔術師が依頼される仕事であり、七賢人にも年に数回依頼があった。
この手の人前に出る依頼は〈星詠みの魔女〉や〈結界の魔術師〉、あとは派手で見栄えのする魔術の使い手である〈砲弾の魔術師〉が受けることが多い。
当然だが、人前に出るのが苦手なモニカは一度も魔術奉納をしたことがなかった。
まさか、と顔を強張らせるモニカに、エリオットは首の後ろをかきながら気まずそうに言う。
「この魔術奉納を、君に頼みたいわけだ」