【1】過激派ファンの怒り
毛布に包まっていたモニカが寝返りをうつと、腕にぐにゃりと柔らかなものが触れた。柔らかくて温かなその体は黒猫に化けたネロのものだ。どうやら寒さに負けて、モニカの毛布に潜り込んできたらしい。
先週、エンドウ豆と奮闘していたモニカがハイオーン侯爵領からサザンドールに戻ってきた頃には、例年より早い初雪が空をちらついていた。
雪は積もる程ではなかったが、初雪が冬の風を連れてきたらしく、最近はすっかり冷えこむ日が続いている。
寒さに弱いネロは、日に日に活動時間が短くなっていた。
昨年は寒い寒いとぶーたれながらも、冬至休み直前まで活動していたのだが、今年は冬至まで一月近くあるのに、いつも暖炉近くか毛布の中で丸くなっている。
(今はお昼前かな……そろそろ起きようかな……)
昨晩からアイザックが戻ってきているので、階下からはスープの良い匂いがしていた。
彼が来てからは、すっかり食事の準備を甘えてしまっている。
たまには自分が作るべきかとも思うのだが、モニカが作る料理は大して美味しい物ではないのだ。
肉は塩を振って焼くだけ。スープは適当に切った野菜をただ煮ただけ。
まずくはない(とモニカは思っている)が、舌の肥えたアイザックに出すには、気が引ける出来栄えである。
「あ、そうだ。お昼のスープはエンドウ豆以外にしてください、って言わないと」
モニカはベッドから起き上がると、髪を二つに分けてゆるい三つ編みにした。
あまり適当な格好をしているとラナに叱られてしまうのだが、ハイオーン侯爵領からサザンドールに戻ってから、モニカはまだラナに一度も会えていない。冬至休みが近いから、商会も何かと多忙なのだろう。
(冬至休みは、ラナも実家に帰っちゃうみたいだし……その前にゆっくりご飯できたらいいな)
そんなことを考えつつ、モニカは寝ているネロに毛布をかけ直し、部屋を出た。
すると、下の階から何やら話し声が聞こえてくる。客人らしき人物の張りのある声に、モニカは聞き覚えがあった。
この声は……と、懐かしく思いながら階段を下りれば、その会話がモニカの耳にも届く。
「あぁ、我がケルベックの空を埋め尽くす翼竜の群れは人々にとって絶望の象徴。竜騎士団が束になって、ようやく一匹ずつ地に引きずり下ろすその巨体! それを! お姉様はたった一人で全て撃ち落としたのです! お姉様の勇姿は、我がケルベック領に長く語り継がれること間違いなしですわ!」
「うん、その光景はボクも見ていたよ。ちなみにその時のモニカは特定の空間を指定してその空間内の敵の座標を索敵術式で正確に把握し、三重強化術式で翼竜の眉間を撃ち抜いたのだけど、この多重強化術式というのは強化すればする程に術式が崩れやすくなる扱いの難しい代物で、この国では〈砲弾の魔術師〉が国内唯一の六重強化の使い手と言われているんだ。けれど、三重強化だってすごいことだし、なによりそれを広範囲かつ無詠唱で起動できるのは世界でも〈沈黙の魔女〉だけだろうね」
「まぁぁぁ! あの光景を! 直接見ていらしたの!?」
「翼竜を撃ち落とした後に、死骸の落下地点に被害が出ないよう風の魔術で配慮をしていたところも流石だと思わないかい? あれだけの質量を風で支えてゆっくりと地面に下ろすには、針の穴を通すような正確なコントロールが必要で……」
「そうなんです! お姉様の素晴らしい気遣いに村の者達も、とても感激していて!」
モニカは階段を中途半端に下りたところで立ち尽くした。
階下では、いつになく饒舌なアイザックがモニカの魔術について早口で解説し、それに客人が目を輝かせて相槌を打っている。
(ど、どうしよう……すごく、出ていきづらい)
モニカが足踏みをしていると、客人はすぐにモニカに気づき、パッと顔を上げた。
「ご機嫌よう、お姉様。突然の訪問、申し訳ありません」
完璧な淑女の礼をしてみせるのは、ケルベック伯爵令嬢イザベル・ノートン。
二年前の潜入任務で世話になった大恩人である。
上質な天鵞絨のドレスを身につけた彼女の背後には、質素な紺色のワンピースを身につけた侍女のアガサが控えていた。
イザベルとアガサは、二年前の最高審議会のために尽力してくれた、第二王子の正体を知る人物である。
彼女達は第二王子が〈沈黙の魔女〉の押しかけ弟子になっていても驚くことなく、寧ろ嬉々として〈沈黙の魔女〉トークに花を咲かせているようだった。
モニカはパタパタと階段を駆け降りて、イザベルとアガサにペコリと頭を下げる。
「えっと、お久しぶりです。あの……イザベル様とアガサさんが遊びに来てくれて、嬉しい、です」
サザンドールに越してきた際、ケルベックのノートン家には挨拶の手紙を出している。
そこに「お近くをお通りの際は、是非お立ち寄りください」と一言添えてはいたけれど、こうして実際に来てもらえると、素直に嬉しい。
モニカがモジモジしながらそう告げると、イザベルは感極まったように目を輝かせた。
「あぁ、お姉様! わたくし、本当に本当にお会いしたかったのです! 実は今日はセレンディア学園の寮から帰省する途中で……」
「あ、そっか。学園はもう冬休みなんですね」
王国西部にあるサザンドールは、東部地方であるケルベック伯爵領とは正反対に位置するのだが、遠回りになることを承知の上で、イザベルはモニカの家に立ち寄ってくれたらしい。
イザベルは今、セレンディア学園の三年生だ。ロベルトやエリアーヌと同学年の彼女から学園の様子を聞きたくて、モニカがウズウズしていると、アイザックがすぐに紅茶を用意してくれた。
「僕としたことが、お客様にお茶もお出しせずに失礼。イザベル嬢とは、つい意気投合してしまってね」
何の話題で、とは言わずもがな。
モニカが曖昧に笑っていると、イザベルはニコニコしながら頷いた。
「えぇ、ウォーカー様は〈沈黙の魔女〉について、とてもお詳しいのですわ……わたくし、一番のファンを自認しておりましたのに、まだまだ勉強不足」
なんでも彼女は、モニカのことをよく知るために、わざわざ基礎魔術の授業を選択したらしい。
学べば学ぶほど、お姉様がいかに凄いかを思い知らされますわ……とイザベルが呟けば、アイザックがそうだろうそうだろうと言わんばかりに頷いた。
「イザベル嬢には悪いけれど、〈沈黙の魔女〉について一番詳しいのは僕、というのは譲れないな。なにせ、一番弟子だからね」
堂々と一番弟子を名乗る押しかけ弟子にモニカが苦笑していると、イザベルが切なげな顔で溜息をついた。
「わたくし、お姉様のことに関しては日々情報収集しているのですが、まだまだですわね」
「じょ、情報収集……ですか?」
一体、自分の何を知りたいのだろう、とモニカが困惑していると、イザベルは本人の前で堂々と情報収集の成果を披露する。
「なんでも、半年前にお姉様が学会で黒い聖杯を発表した時は、今まで学会に姿を見せなかった〈沈黙の魔女〉が壇上に立つと話題になり、学会に人が殺到したとか」
「はい、大変でした……」
「最近は〈茨の魔女〉様と共同研究で、ハイオーン侯爵領に出向いていらっしゃるとか」
「はい、先週はずっと滞在してました」
モニカの相槌に、アイザックが「ちょっと待って」と口を挟む。
「先週ずっと滞在してた? ……日帰りと聞いていたのだけど」
アイザックが、僅かに眉をひそめてモニカを見た。
そういえば、アイザックは先週はずっとエリン公爵領で自分の仕事をしていたのだった、とモニカは思い出す。
「えっとですね。ちょっと、その、色々あって……」
色々あって、豆に食べられていたのである。
シリルとラウルのおかげで無事に救出されたモニカだったが、その後始末が大変だった。
特に魔力汚染された土は経過を見る必要があったので、数日ほどハイオーン侯爵領に滞在せざるをえなかったのだ。
モニカが口ごもると、アイザックが真顔でモニカに詰め寄った。
「滞在中は……シリルの家に?」
「あ、はい、ハイオーン侯爵もゆっくりしていきなさい、って仰ってくれて」
クローディアによく似た雰囲気のハイオーン侯爵は、モニカとラウルのために立派な客室を用意してくれた。
しかもハイオーン侯爵家は司書の家系なだけあって、書斎が非常に充実している。
滞在中は好きなだけ本を読んで構わないと侯爵に言われたモニカは、つい時間を忘れて読書に夢中になってしまったのだ。
「すごく素敵なお屋敷で、帰るのがちょっと惜しくなっちゃって……」
「……へぇ」
「それで、帰るのが少し遅くなっちゃいました」
具体的には本に夢中になり、寝食も忘れて読み耽ってしまったのである。
その結果、食事の時間や就寝の時間になる度に、モニカはシリルに怒鳴られ、食堂や客室に引きずられていったのだ。
ちなみに読みきれなかった本は貸してもらえた。なので、昨晩は借りた本を読むのに夢中で、うっかり寝坊をしてしまったのである。
モニカがへらりと笑うと、何故かアイザックは口元に手を当てて、考え込むように黙りこんだ。
(アイクも、本が借りたかったのかな……?)
モニカがアイザックを見上げると、アイザックはモニカを見て、何かを言いかけた。
だが、アイザックが声を発するより先に、イザベルが口を開く。
「そうそう、そういえば最近のお姉様は、セチェンという村に滞在することが多いと伺いましたわ! セチェンと言えば温泉で有名ですし。お姉様は最近は湯治がお気に入りなのですね!」
「…………へ?」
イザベルの言葉に、モニカは首を捻った。
セチェン。聞き覚えのない地名である。当然、滞在した記憶も無い。
アイザックが「また、僕の知らない情報が……」と苦い顔で呟いているが、モニカも知らない情報だ。
「あのぅ、セチェンって……どこ、ですか?」
モニカの疑問の声に、イザベルがキョトンと目を丸くする。
そんなイザベルに代わって、彼女の侍女のアガサが説明してくれた。
「セチェンはラゴット領の小さな村ですね。〈沈黙の魔女〉様が以前呪竜討伐をされたレーンブルク公爵領と、王都の中間ぐらいの場所にあります」
アガサの説明を聞いて、ますますモニカは困惑した。
二年前に山小屋を出てから、モニカは王都以外にも各地を訪問することがあったが、セチェンという村に滞在した記憶は無い。
モニカが正直にそう話すと、イザベルはカッと目を見開いた。
「そんな……わたくしが聞いた話では、セチェンという村に〈沈黙の魔女〉がいると……」
「お嬢様、もしかしてこれは、アレでは……」
アガサが低い声で呟けば、イザベルもまた険しい顔でコクリと頷く。
「えぇ、そうね、これはアレだわ」
アレとは何だろう。
いよいよモニカが混乱していると、アイザックが椅子の上で足を組み替えて、頬杖をつきながら呟いた。
「……〈沈黙の魔女〉の偽物が、その村に?」
自分の偽物、という言葉にモニカが呆気に取られていると、イザベルは神妙に頷いた。
「えぇ、これはきっと……何者かが、お姉様を陥れるべく仕組んだ陰謀ですわ」
陰謀。恐ろしい発言にモニカはヒィッと息をのむ。
だが、真っ青になっているモニカとは対照的に、アイザック、イザベル、アガサの三人はなにやら不穏な空気を漂わせていた。三人とも、控えめに言って目が怖い。
「ちょっとこれは、放置できない案件だね」
「えぇ、お姉様を騙るなんて……許し難いですわ」
「お嬢様、その村の領主に進言いたしますか?」
アガサがイザベルに訊ねれば、イザベルはしばし考えて、首を横に振る。
「領主に進言するのなら、まずは事実関係を正確に把握する必要があるわ……アガサ、領地に戻る前に寄り道をすると、お父様に手紙を」
「かしこまりました」
「……あの、イザベル様? アガサさん?」
モニカが恐々と呼びかけるも、二人ともなにやら使命感に満ちた顔で、手紙の準備やら馬車の手配やらをしている。
よく分からないが、この二人を止めないと大変なことになる。
そんな予感にモニカが焦っていると、今度はアイザックが窓の外に目を向けて、ポツリと呟いた。
「セチェンはここより冷えるからね。厚手の防寒具を調達しようか」
「……あの、アイク、アイク……?」
顔をひきつらせるモニカに、アイザックは美しい笑みを向ける。
「大丈夫だよ、村の人間もまさか僕の顔までは知らないだろうしね」
アイザックの笑顔は春の日差しのように穏やかで温かだ。それなのに、その目は氷点下の冷たさで底光りしていた。
壮絶に嫌な予感がする。
だが静かに戦意を燃やす三人を前に、〈沈黙の魔女〉はあまりにも無力だった。
 




