【21】証拠隠滅のためスープは外で完食
『あー、おほん。久しぶりに力を使ったら疲れたので、吾輩は寝るのである。ハイオーン侯爵邸に着いたら起こすのである』
そう言って、〈識守の鍵〉は静かになった。宝玉部分の虹色めいた輝きが、心なしか薄くなったようにも見える。
モニカはシリルに訊ねた。
「あのぅ、古代魔導具って……寝るんですか?」
「……分からん」
シリルは首を捻りながら、とりあえず指輪を隠すように革手袋を嵌める。
そんな二人の疑問に答えてくれたのは、意外にもラウルだった。
「意識を遮断するっていうのは出来るらしいぜ。まぁ、今の場合、ヤキモチ妬いてたのが気恥ずかしいんじゃないかな!」
「はぁ、なるほど……」
曖昧に相槌を打ちつつ、モニカはコッソリ考える。
〈識守の鍵〉は、自分が一番ではないことを不満に思い、ピケやトゥーレにヤキモチを妬いたのだという。
(……ヤキモチ、ヤキモチ)
モニカは滅多に口にすることの無い単語を、声には出さず舌の上で転がし、吟味する。
ヤキモチ、嫉妬──と言うと、正直あまりピンとこない。
だけどそれは、シリルが婚約すると聞いて喜べなかった時、婚約の話が流れたと聞いてホッとした時、確かにモニカの胸にあった感情なのだ。
(……誰かのことを「羨ましい」と思う気持ちなら、少しだけわかる)
モニカは共同研究の時しかシリルと会えないから、いつも一緒にいられるトゥーレやピケがちょっとだけ羨ましいし、アイザックから男子寮の思い出話を聞いた時は「いいなぁ」と思った。
(きっと、わたしは、もっとシリル様のことを知りたいんだ)
だから、髪を下ろしているシリルを──「いつもとちょっと違うシリル様」を見た時、あんなに浮かれてしまった。
(……最近のわたし、なんだか、すごく、ワガママになってる気がする)
誰にも嫉妬をせずに生きていくのは、とても難しいことだ。
山小屋を出て、人と関わり生きている今、きっとモニカは何度でも、誰かと自分を比べて、嫉妬したり、ヤキモチを妬いたり、羨ましいと思ったりするのだろう。
(でも、ワガママは良くない。うん、良くない)
なにせ、ヤキモチを妬いた指輪のワガママに散々振り回されたばかりである。
今回の出来事は反面教師にしようと、モニカは密かに自分に言い聞かせた。
* * *
しばし歩き、やがてローズバーグ邸の離れが見えてきたところで、ラウルが足を止めて「あれ?」と目の上に手をかざした。
離れの前に誰かが佇んでいるのだ。
茶色の癖っ毛に小柄な体躯──モニカは「あっ」と声を上げる。
隣でクローディアが小さく呟いた。
「……ニール」
「クローディアさん!」
ニールは血相を変えて駆け寄ってくる。
クローディアはジトリとアイザックを見た。
「……本当に気の利く従者ね」
「彼が仕事で王都にいることは、知っていたからね」
どうやらアイザックはサザンドールを発つ直前に、王都で仕事をしているニールの元に手紙を送っていたらしい。
今回、モニカ達の旅程は非常にゆっくりとしたものだったから、アイザックの手紙の方が先に届いたはずだ。
「もう! 家で大人しくしててくださいって言ったじゃないですか!」
ニールは眉を吊り上げた怒り顔で、クローディアを睨むように見上げていた。いつも温厚な彼にしては珍しい。
「クローディアさんと、お腹の赤ちゃんに何かあったら、どうするんですか!」
モニカは「へ」と声をあげた。モニカだけじゃない。
シリルもラウルも、モニカとよく似た顔でクローディアを凝視している。変わらずニコニコしているのは、アイザックだけだ。
シリルが全身を戦慄かせ、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「何故、兄の私が知らされてないんだ──!?」
「えっ、お義兄さんに言ってなかったんですかぁ!?」
シリルの大声に肩の上のイタチ達が驚いたように尻尾を膨らませ、ニールがギョッと目を剥いた。
高貴な身分の人間が、身の安全のため妊娠を隠すことはあるが、今のクローディアは男爵夫人である。わざわざ隠す理由が無い。
唖然としている一行に、クローディアは意味深に目を逸らし、ボソリと呟く。
「……きっと、情報伝達の過程で不幸な事故があったのね」
絶対に嘘だ、と誰もが思った。
シリルが知らなかったとなると、もうこれはハイオーン侯爵に口止めをしたか、嘘を吐いているのは確実である。
「は、初耳だっ、知っていたら、ここまで連れてこなかった……あぁ、立っていて平気なのか? 座った方がいいのでは……」
シリルは怒りと心配がない交ぜになった顔で、無意味に両手を上げ下げしていた。
肩の上のイタチ達が、小さな手足でシリルの肩にしがみつきながら言う。
「シリル、うるさい」
「ものすごく慌ててるね」
「これが慌てずにいられるかっ! 妊婦が馬車で遠出するなど言語道断っ! 待て、そうだ、その格好は薄着すぎるのではないか。毛布に包まっていた方が……」
クローディアは狼狽えるシリルから目を逸らし、モニカ達を見た。その陰鬱な顔がこう語っている。
──だから黙っていたのよ。
「……お、わ、か、り?」
「え、えぇと……」
モニカが口ごもっていると、ニールが深々と頭を下げた。
幼さの残る容姿はセレンディア学園時代と然程変わっていない。
それでも今のニールには大人の落ち着きがあり、不思議と堂々として見えた。
「僕の奥さんがお騒がせしました。アイザックさんも、お手紙ありがとうございます」
「どういたしまして。帰りの馬車の手配は必要かい?」
「いえ、大丈夫です。すぐそこに停めてあるので……クローディアさん、お仕事終わったから、このまま帰りましょう!」
ニールの言葉に、クローディアが小さく首を傾げる。
「……あら、今回の仕事は、長くなる予定だったでしょう?」
「大急ぎで終わらせました!」
胸を張って答えるニールに、クローディアは無表情のまま近づき、その腕に抱き着いた。
結婚した今でもクローディアの方が幾らか背が高いので、そうしているとクローディアがニールにのしかかっているようにも見える。
クローディアはニールの腕に抱きついたまま、モニカ達を見てニタァと笑った。
邪悪だが、一目で上機嫌と分かる笑みだった。
「……私の夫、優秀でしょう?」
「待て、クローディアっ、医師の手配は済ませたのか? 乳母は? 産衣など必要な物は? そもそも予定日は……っ」
言い募るシリルから目を逸らし、クローディアは半ばニールを引きずるように歩きだす。
「……それじゃあ、ご機嫌よう」
「クローディアさん!? 後でちゃんとお義兄さんにお手紙書いてくださいねっ!?」
「……そうね、産後にね」
「クローディアさん──!!」
メイウッド夫妻は風のように去っていき、シリルが両手で顔を覆って項垂れる。
そんなシリルを慰めるように、二匹のイタチが尻尾でシリルの頬を撫でた。
* * *
ローズバーグ邸離れの食事部屋で、シリルは年代物の机に突っ伏し「私だけ知らされてなかった……」とブツブツ呟いていた。
そんなシリルの前に、ラウルがスープの椀を置く。
「シリル、元気出せよ! ほら、スープ大盛りにしたからさ!」
スープに口をつけず落ち込むシリルの肩や頭の上では、イタチ達がよじ登ったり、髪を引っ張ったりと自由に振る舞っていた。
一応励ましているつもりらしい。
「すごく、落ち込んでる」
「シリル、元気だして」
「怒らないで落ち込むの、珍しい」
「シリル、いつも怒ってるものね」
シリルが上半身を持ち上げて、横目でイタチ達をジロリと睨む。
その顔は非常に不服そうであった。
「……私は、そんなにいつも怒っているか?」
金色のイタチ──ピケが机の上に下りて、正面からシリルを見上げる。
「怒ってないつもりだった? 一日十回は『えぇい、何々せんか!』って怒鳴るのに?」
「……そんなに言ってない」
「言ってる。次から、言う度に数える」
ピケの指摘に、シリルは再び項垂れ、両手で顔を覆った。
「……私があんまり怒りっぽいからクローディアも黙っていたのか? いや、だが確かに今回の騒動では、私が短気だったばかりに……」
ブツブツと反省を口にするシリルの肩の上で、トゥーレがふんわりした尻尾でシリルの頬を撫でた。慰めているつもりらしい。
そんなシリルとイタチ達のやりとりを眺めつつ、モニカは小声でアイザックに訊ねた。
「あのぅ、もしかして、アイクは……クローディア様のこと、気づいてたんですか?」
「まぁ、なんとなくね」
なんとなくなどと言うが、恐らくアイザックは確信していたのだろう。
思い返せば、食事や馬車の手配、荷物の持ち運びにいたるまで、アイザックの振る舞いは徹底していた。
そういえば、クローディアが段差を移動する時、アイザックは必ず自分が下になるように移動していたが、あれは何かあった時に受け止めるためだったのだ。
「わたし、全然気づかなかった……」
「オレも気づかなかったから、気にするなよ! それより、お祝いは何が良いか考えようぜ!」
ラウルが全員にスープを配り終えたその時、玄関の方で扉の開く音がした。
それと、カツカツという硬いヒールの音も。
「ラウルー! 誰か来てんのー?」
「あっ、姉ちゃんだ」
次の瞬間、アイザックが音もなく立ち上がった。
彼は自身の前に置かれたスープの椀と匙を手にし、窓から外にヒラリと飛び出す。
モニカも、ラウルも、シリルも、ついでにイタチ達も、その場にいる誰もが唖然とするほど静かで、無駄のない動きだった。
一同が絶句していると扉が開き、外出着姿のメリッサが室内に入ってくる。
華やかな帽子を被り、首に毛皮を巻いたメリッサは、モニカ達を見て目を丸くした。
「あらやだ、モニモニじゃない。きゃあ、シリル様ぁん、お久しぶりですわぁん」
メリッサが声をかけている間も、モニカはアイザックの席と窓を交互に見ていた。
(あ、そうか、メリッサお姉さんは、殿下の顔を知ってるから……)
退屈な式典でフェリクス殿下の顔を眺めて時間を潰していた、と言っていたぐらいだし、鋭いメリッサなら、アイザックの変装を見抜く可能性が高い。
それにしても、アイザックの逃走は徹底していた。
ご丁寧に椅子は元の位置に戻しているし、スープの椀と匙まで持って逃げたので、この部屋にもう一人の人間がいた痕跡は綺麗に消えている。
モニカがしみじみ感心していると、メリッサがモニカの頬をつねった。
「ちょいとモニモニ。お姉様が帰宅したってのに、なにボーッとしてんのよ」
「ひゃ、ひゃい、しゅみませんっ……」
モニカが涙目で謝ると、メリッサは何かを思いついたような顔でニンマリ笑った。
「そういえばぁ、アタシ、さっきまで王都でお芝居観てたのよぉ。主役がかっこよくて、もう最高でね」
「は、はぁ」
「知り合いに喉飴融通したら、お礼にって、芝居の割引券たくさんもらってさ。ただ、有効期限が近いのよね」
メリッサは上着のポケットから一枚の券を取り出すと、モニカに握らせた。
そうして、チラリと横目でシリルを見ながら言う。
「ほら、あんたにあげるから、誰かと一緒に行ってきなさいよ」
「あ、その割引券、四人まで有効なんだ! じゃあ、みんなで観に行こうぜ!」
横から覗き込んだラウルが弾んだ声で提案し、メリッサが「この節穴……っ」と呻く。
さっきまで背中を丸めて落ち込んでいたシリルは、きちんと姿勢を正すと、メリッサに礼を言った。
「お心遣い、ありがとうございます。レディ・メリッサ。なんという芝居なのですか?」
初代〈茨の魔女〉もかくやという眼光でラウルを睨んでいたメリッサは、次の瞬間には愛想の良い笑顔でシリルに応じた。
「『幸福を呼ぶビオン』──古典を今風にアレンジしたお芝居ですわ。一昔前ぐらいに、同じ原作の短い喜劇が流行ったのですけど、今の芝居はビオンの活躍に焦点を当てた冒険活劇風の仕立てですの」
その時、モニカは見た。
僅かに見開かれたシリルの目が、キラキラと輝くところを。
シリルはほぅっと息を吐き、柔らかく微笑みながら言った。
「それは、是非観てみたい」