【19】書庫番の素質
ソフォクレスの張った結界の中で元気に手を振っているラウルに、モニカはふぅっと息を吐きながら、その場にしゃがみ込んだ。
「ま、間に合って良かった……」
魔法戦の結界を解除し、即座にモニカが封印結界を張るという手もあったのだが、本来封印結界は相応の手間と準備がいるものだ。
無詠唱の封印結界は、どうしてもいくらか簡易になる。
そしてモニカは、その簡易な結界でラウルを封じ切れる自信が無かったのだ。それだけ、ラウルの魔力量は脅威だった。
「お疲れ様、マイマスター」
モニカの元に戻ってきたアイザックが、ボロボロになったブランケットで短剣の草の汁を拭き取りながら言う。
アイザックが「僕が〈識守の鍵〉を回収してくるよ」と言い出した時は驚いたが、どこからともなく短剣を取り出した時は、もっと驚いた。一体どこに隠し持っていたのやら。
「アイクも、お疲れ様です。えっと、お怪我はないですか?」
「君が守ってくれたおかげで」
アイザックは蔓薔薇人形達を相手に余裕の顔で立ち回っていたが、正直モニカはいつ弟子がピンチになるかと、気が気でなかった。
見たところ、本当に怪我は無いらしい。
(ちゃんと、守れて良かった……)
モニカがホッと胸を撫で下ろしていると、木の影に隠れていたクローディアが姿を現し、ボソリと言う。
「……すごいわね。短剣に拳銃。あと、ブーツにも何か隠してるわね。魔術師の弟子っていうより暗殺者だわ」
「えっ!?」
モニカがギョッとアイザックの方を振り向くと、驚くことに短剣が綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
モニカがアイザックから目を離した、僅か数秒の出来事である。
短剣と言えど、それなりに刃渡りが長かった筈だ。それなのに魔法のように消えてしまった。
「短剣が無くなった……な、なんで? …………アイクの魔術?」
思わず呟くモニカに、アイザックはパチンとウィンクをする。
「そうだよ。無詠唱収納魔術」
「…………。……後で、魔術式を、教えてください」
真顔になるモニカにアイザックはクスクス笑い、シリル達の方に目を向けた。
「さて、あっちの方もそろそろ決着を着けようか」
* * *
氷と茨の残骸の中、シリルは〈識守の鍵〉に命じる。
「……ソフォクレス、ラウルを解放してくれ」
『うむ──〈識守の鍵ソフォクレス〉の名のもとに、この者を解放す』
〈識守の鍵〉が明滅すると、ラウルを覆う結界は音もなく消えた。
ラウルは感心したような顔で、己の手を握ったり開いたりしている。
「あ、なんか魔力が使えるようになってる。へぇ、魔力との結びつきを強制的に遮断する結界なのか。そういう結界があるのは知ってたけど、実際に受けてみると、なんか不思議な感じだなー」
ペラペラと喋って、ラウルはチラッとシリルを見る。その表情は、なにやら酷く気まずげだ。
ラウルはいつも快活に笑う顔に、ぎこちない笑みを浮かべて、シリルに話しかける。
「あー、えーっとさ……そのぅ……」
「すまなかった」
ラウルの言葉を遮り、シリルは頭を下げる。
「七賢人の力を見誤って、自分でも勝てるのではないかと過信した、私が浅はかだった」
七賢人とはこの国の魔術師の頂点。遙か高みにいる存在だ。
それでも策を練れば、対策をとれば、自分でも勝てるのではないかと過信した。そんな自分の高慢さが恥ずかしい。
シリルは己の行動を振り返り、羞恥のあまり消えてしまいたくなった。
「挙句、あんな煽るような真似をして……どうかしていた。本当にすまない」
「……あのさ」
深刻な顔で謝るシリルに、ラウルは翠色の目を泳がせながら、ボソリと問う。
「……怖くない?」
「何の話だ? 私は今、真剣に謝罪を……」
「いやぁ、ほら……さっきの……」
ラウルにしては珍しく煮え切らない口調だった。
シリルはムッと眉をひそめて問い返す。
「だから、何の話だ」
「さっき……ほら、色々あったろ? ……怖くない?」
「怖い? 私がそう簡単に怖気づく人間に見えるのか!」
思わず怒鳴ったシリルはハッと己の口を塞いだ。
この、すぐ頭に血が上る性格のせいで大失敗をしたばかりだというのに、またやってしまった。
「いや、すまない、今のは……」
シリルがしどろもどろに言い訳を口にしていると、何故かラウルはだらしなく顔を緩めた。
「ふへ、へへへ、そっかぁ……へへへへへへ」
「……なんだその締まりのない顔は」
「えっへっへ」
ラウルはいつもの彼を更に数倍ユルユルにしたような顔で笑い、駆け寄ってきたモニカの方を見る。
「モニカも、止めてくれてありがとな!」
「あ、はい。えっと……できれば次からは、もうちょっと早めに……言っていただけると……」
指を捏ねながら控えめに言うモニカに、ラウルは長いまつ毛を上下させた。
翠色の目が期待にキラキラと輝き、頬が薔薇色に染まる。
「次も止めてくれる?」
「えっ? は、はい、それは勿論……」
ラウルは堪えきれないとばかりに「ニヒヒッ」と声を漏らすと、右手でシリル、左手でモニカの肩を抱き寄せた。
「えっへっへっへっへ」
「なんだ急に! 重い!」
「あ、あのぅ、ラウル様? ラウル様?」
シリルが怒鳴っても、モニカがオロオロと声をかけても、ラウルはニヒニヒと笑い続けている。
シリルは思わず右手の指輪を見た。
「ソフォクレス、もしかして結界に不備があったのではないか? 何かこう、精神とか言語機能に影響をもたらすような……」
『吾輩のせいではないのである』
〈識守の鍵ソフォクレス〉はヤレヤレとばかりに、ため息をつくような声を漏らした。
* * *
──あの化け物である〈茨の魔女〉を恐ろしくないとは、いやはやまったく!
〈識守の鍵〉は内心、笑いだしたい気持ちだった。
やはり、自分の目は正しかったのだ。
かつて、神官の家系であるハーヴェイ家に、一人の変わり者の女がいた。
神官の家系に相応しい魔術の才を持ちながら、全く魔術を学ぼうとせず、ただ黙々と本を読み続けている、氷のように冷たい目をした静かな女だ。
彼女は人に興味を持たなかった。興味があるのは本だけ。
彼女の扱いに困った一族の人間は、彼女に書庫番を任せることにした。
その書庫とは、危険な魔物を封印した本が収蔵されている特別な部屋だ。
室内は魔物達の気配と声に満たされており、大抵の者は恐怖のあまり失神するか、十秒と保たず部屋を逃げ出す。
だが、その女は悪意に満ちた書庫に足を一歩踏み入れると、滅多に開かぬ口を開き──こう怒鳴ったのだ。
『やかましい! 私が静かに本を読めぬではないか! 少し黙っていろ!』
その迫力のある一喝に、魔物達はピタリと口を閉ざす。
女は魔物達が黙ると、何事もなかったかのように本を読みだした。
周囲が魔物達の悪意に満たされていても、お構いなしに。
いつしか魔物達はこの女に興味を抱き、気を惹こうとするようになった。魔物達も大概に暇を持て余していたのだ。
仕方がないから、女は魔物達に本を読み聞かせてやったり、本に関することなら話に付き合ってやるようになった。
次第に書物に封じられた魔物達は女に懐くようになり、いつしか書庫の空気も以前ほど、おどろおどろしくはなくなった。
だが、女がアシュリー家に嫁ぎ、書庫番が別の者に変わると、書庫の魔物達は一斉に怒りだした。
そこで国王はアシュリー家に図書館の管理を命じ、女は生涯、書庫の管理と最適化に尽くしたのである。
……主に自分が快適に本を読むために。
禁書室の管理者に求められるのは、魔物に気に入られる素質だったり、或いは魔物に怯えることのない胆力や勇敢さだったり、或いは冷静さだったり。
一言で言い表せられるものではないが、とにかく魔物達と上手く付き合っていく──あるいはやり過ごす能力が求められる。
ヴィセント・アシュリーが後継者探しのため市井に出た時、〈識守の鍵〉はそれに便乗した。
そして、見たのだ。
周囲の子どもに揶揄われても、馬鹿にされても、背筋を伸ばし続けた、いかにも負けん気の強そうなシリル・ウェインという子どもを。
勉強をしているシリルのそばで、他の子ども達が何やら騒ぎ立てる。
シリルやその父を馬鹿にするような悪意に満ちた言葉に、シリルは本から顔を上げて怒鳴った。
『やかましい! 私が勉強に集中できぬではないか! 少し黙っていろ!』
そしてシリルは周囲の悪意を跳ね除けて、また黙々と勉強を続けたのだ。
〈識守の鍵〉は思わず声をあげて笑いだしたい心地だった。
かつて魔物を怒鳴って黙らせたあの女に、なんと似ていることか!
『ヴィセント、吾輩は決めたぞ! あの子どもだ! あの子どもがいいのである!』
『君にしては珍しく、決断が早いね。ソフォクレス。だが、私も彼が良いと思っていたところだ』
『……彼? え? 女の子じゃなくて? え?』
あれが少女ではなく少年だと知って、ちょっと目も無いのに泣きたくなったけれど、まぁそれでも、この〈識守の鍵ソフォクレス〉の継承者として、あの根性は認めてやっていい。そう思ったのだ。