【17】最凶最悪、降臨
シリルに罵倒されながら、ラウルは考えていた。
──友達に嫌われるのと怖がられるの、どちらが嫌だろう。
どっちも嫌だなぁ、というのが本音である。だが、どっちかしか選べないのなら、やっぱり嫌われる方が嫌だ。
まだ親しくなったばかりの頃なら、絶交宣言なんて友達っぽい! と喜べたが、今のラウルに本気の絶交宣言はかなり堪える。
だから、ラウルは随分と久しぶりに、〈茨の魔女〉を演ることにした。
人から怖がられることが嫌いなラウルは、身内の人間以外の前では本気で力を使えない。どうしたって無意識にセーブがかかる。
友達のピンチなら全力を出せるんだぜ! とラウルはおばあ様達に主張したが、そもそも友達のいないラウルが口にするには、あまりにも虚しい主張である。
そのことを良く思わないおばあ様達は、ラウルに一つの教育を施した。
──どうしても、全力を出せぬなら……その時は、〈初代様〉になるのです。
子どもの頃から何度も何度も何度も何度も、飽きるほど読むことを強要されてきた、初代〈茨の魔女〉の物語。
その物語の中の、高慢で残忍で邪悪な魔女の振る舞いを、ラウルは半ば暗示のように刷り込まれて育った。
だから望まぬ形で全力を出さなくてはいけない時、ラウルは初代〈茨の魔女〉に逃げる。
「『さぁ、蹂躙を始めましょう』」
* * *
ラウルを囲っていた茨がざわめき、変質する。より太く強靭に。
咲き誇るのは、場違いなほど美しい純白の薔薇。だが、その下で蠢く強靭な蔓は、見る者の背筋を凍らせるおぞましさがあった。
『あーあーあー! 貴様が余計なことを言うからであーる! このぶぁーか、ぶぁーか、愚か者ー!』
「うぐっ……」
自分のことを盛大に棚上げして喚き散らす〈識守の鍵〉に何も言い返せぬまま、シリルは素早くラウルと距離を開けようとした。
だが、右足に激痛。足が止まる。
いつのまにか、ラウルの茨がシリルの足首に絡みついていたのだ。右足からごっそりと魔力が奪われていく──その速さが、尋常じゃない。
魔法戦では魔力を帯びた攻撃を受ければ、魔力が減る。だが、これはそれだけじゃない、とシリルは察した。
いつぞやのエンドウマメと同じだ。ラウルの茨がシリルの魔力を吸い上げている。それも恐ろしい速さで。
シリルは短縮詠唱で氷の矢を作り、足首に絡まる蔓を切り裂こうとした。
だが、一回では切れない。二回、三回、同じことを繰り返して、ようやく蔓を切断することができた。
(さっきまでと、まるで別物だ……)
先程までの蔓はラウルの意思で動いていた。だから茨の壁でラウルの視界が悪くなると、命中率も落ちる。
だが、この蔓は違う。一本一本が意思を持ってシリルのことを狙っていた。
この茨は、ラウルから独立した一種の魔物なのだ。
「『──人の体は、血と魔力の詰まった肉袋。私の茨は、血と魔力のにおいを違えない』」
シリルが足掻く様を眺めていたラウルが、歌うような口調で呟く。
その美しい顔に、残忍な微笑を浮かべて。
(誰だ、あれは)
動こうとして、シリルは眩暈を覚えた。
残りの魔力がだいぶ少なくなっている。蔓の切断に時間をかけすぎたのだ。
シリルの手元で、〈識守の鍵〉がヒィヒィと恐怖に引きつった声を漏らした。
『おぉ、なんということだ……あれは正真正銘、本物の〈茨の魔女〉ではないか……っ!』
「いや、最初から本物だが」
『あの頭の悪そうな顔でヘラヘラ笑っている男が〈茨の魔女〉とは、普通思わないのである!』
限りなく偏見だが、初対面のラウルに対して似たような感想を抱いたシリルは反論を飲み込んだ。
なにより余計なことを言っている余裕など、今のシリルには無い。
「今のラウルは、どういう状態なんだ? 明らかに様子がおかしい……」
シリルの疑問に答えるように、〈識守の鍵〉が『ふぅむ』と唸った。
『恐らく、おのれを初代〈茨の魔女〉と思い込むことで、力を解放しているのであろう。あれはもはや暗示というより精神干渉魔術の領域であるな。大方、ローズバーグ家の魔女共が仕込んだのであろうよ』
ローズバーグ家の魔女──それはおそらく、ラウルの言う〈おばあ様〉達のことを指しているのだろう。
シリルは思わず眉をひそめた。
「精神干渉魔術は、準禁術のはずでは……」
『ローズバーグ家の初代信仰は筋金入りである。初代の力を残すためなら、禁術だろうが邪法だろうが使うであろう。あの狡猾な魔女どもは、法の目を掻い潜るのが上手いのである。準禁術を使った証拠など、残しておるまい』
それは、なんとおぞましいことだろう。
魔術師の名門ローズバーグ家の闇の深さに、シリルは声に出さず戦慄する。
シリルの知るラウル・ローズバーグという男は、いつも脳天気で陽気に笑っている男だ。
そんなラウルが己の生家にどんな感情を抱いているのか、シリルには想像がつかない。
『幼子に呪いを刻むオルブライト家も大概じゃが……ローズバーグ家もなかなかどうして、まともじゃないのである』
〈識守の鍵〉がしみじみと呟いたその時、ラウルが──否、〈茨の魔女〉が獲物を見つけた猫のように目を細めた。
「『あら、珍しいオモチャだこと』」
不意に、シリルの右手に痛みが走った。
いつの間に回り込んだのか。手首に薔薇の蔓が絡みついている。
シリルが蔓を切断するより早く、細い蔓が手の甲を這い上がり、まるで昆虫の足のように器用に動いて、シリルの指から〈識守の鍵〉を抜き取った。
「ソフォクレス!」
『いやぁぁぁぁ!』
中年男性の声が、甲高い悲鳴を上げる。
シリルは手首の痛みを無視して〈識守の鍵〉に手を伸ばした。
だがシリルの手は届かず、〈識守の鍵〉を捕らえた蔓は茨の要塞に戻っていく。
「『黒……黒は好きよ。お前は後で、宝石箱に加えてあげる』」
〈茨の魔女〉は〈識守の鍵〉をつまみ上げると、とろりと微笑み、指輪を茨の棘に引っ掛けた。
その茨を他の蔓が覆い隠す。小さな指輪は茨に飲み込まれ、たちまち見えなくなってしまった。
「ソフォクレ……」
『いやぁーーー! せめて捕まるなら豊かな胸の美人に……なんで男……なんで男ぉ……っ、おぉう……』
あれはしばらく放っておいても大丈夫そうだ。そう判断を下し、シリルはラウルを観察した。
目の前に立ち塞がる〈茨の魔女〉は、ラウルの姿をしているが、まるで別人だ。
頬にかかる髪を耳にかける仕草、ローブの裾を捌く仕草、そういった仕草の一つ一つが女性的なのだ。
その振る舞いは己の美しさを知り、男を誑かす魔性の女のそれだった。
そういう仕草を、普段からガサツなラウルがごくごく自然にこなしているものだから、違和感に眩暈がする。
率直に言って気持ち悪い、とシリルは思った。
それなのに、そういう振る舞いがやけに様になっているのは、初代譲りの美貌故にか。
〈茨の魔女〉が右手を持ち上げ、指を一振りする。日に焼けた男の手が、一瞬、女の繊手に見えた。
「『さぁ、お食べ』」
〈茨の魔女〉を囲う茨の蔓が絡み合い、小型の竜を形作った。
シリルはあれを一度見たことがある。薔薇の蔓を寄せ集めて作った異形の竜。
あの時はもっと巨大だったが、目の前の蔓薔薇の竜は随分と小さかった。精々、雄牛ぐらいの大きさだ。竜で言うなら小型種というところである。
これなら、なんとか倒せる──そう思った次の瞬間にはもう、蔓薔薇の竜はシリルの眼前に肉薄していた。
十数歩程度の距離はあった筈だ。それなのに、恐ろしい速さで蔓薔薇の竜は接近し、その緑の牙を剥く。
シリルは咄嗟に左腕を前に差し出した。蔓薔薇の竜の口がバクンと閉じて、シリルの左腕に噛み付く。
これが魔法戦でなければ、間違いなく食いちぎられていた。
それほどの激痛にシリルは悲鳴を堪え、途切れ途切れに詠唱をする。
「……こっ、の………………凍れぇっ!」
噛みつかれた左手で氷の槍を放つ。
特大の槍は、蔓薔薇竜の体を突き破って串刺しにした。
だが、その動きは止まらず、シリルの左腕に食いついた竜の牙が緩むこともない。
「『その程度?』」
〈茨の魔女〉がシリルの奮闘を嘲笑う。
蔓薔薇竜から伸びる蔓が、スルリと音もなくシリルの首に絡みついた。
「──っ、がっ、ぐ……」
薔薇に魔力を食われ、一気に魔力が枯渇していく。息が詰まる。
目の前が、白く染まる。
* * *
「シリル様ぁっ!」
魔法戦用の結界を維持していたモニカは焦っていた。
魔法戦の結界は物理攻撃を無効化してくれるが、たまに抜け道がある。
だが茨の蔓による拘束は、拘束用魔術として成立し、物理無効結界が作動しない。
もしラウルがいつもの状態なら、窒息しないよう加減していたはずだ。だが、今のラウルにそんな慈悲などない。
このままだとシリルが窒息死してしまう。
(なんとかしなきゃ……でも……っ)
モニカがシリルを助けるためには、この魔法戦用の結界を一度解除する必要があった。
だが、今この結界を解除したら、茨の棘がシリルの首に刺さってしまう。
(どうしたら……っ)
焦るモニカの肩をアイザックがトントンと叩いた。
「……アイク?」
アイザックは人差し指を口元に当て、「静かに」のジェスチャーをした。そして、その指先をシリルの背後に向ける。
シリルの背後にある木の枝。そこから音もなく飛び降りたのは、金と白の毛並みのイタチだった。
* * *
(私は……負ける、のか?)
茨に食い込んでいたシリルの手が、力を失いダラリと垂れる。
「だから言った。無謀だって」
背後で響いたのは、冷ややかな女の声。
それが誰の声かシリルが認識するより早く、精緻な氷の剣が宙を舞い、シリルの首に絡み付いていた茨ごと蔓薔薇の竜を切り裂いた。
シリルの氷だと数回切りつけねば切断できなかった茨が、まるで紙のように散り散りになる。
ふらつき倒れそうになるシリルの体を、誰かがヒョイと背中に担いだ。
視界の端に見えるのは、白っぽい銀色の髪の毛。
「ねぇ、シリル。わたしはシリルの魔力で生かされている身だから。シリルのピンチを黙って見ているわけにはいかないんだよ?」
重い瞼を持ち上げれば、その目に映るのは、自分を背負う銀髪の青年と、その横に佇む淡い金髪の女。
トゥーレ、ピケ。シリルがそう口にするより早く、ピケが〈識守の鍵〉を飲み込んだ茨の塊に目を向ける。
「あの指輪……諸悪の根源。いっそ、破壊すればいいと思う」
『氷霊、貴様ぁぁぁ! 吾輩は古代魔導具であるぞ! 古・代・魔・導・具!』
茨の奥から元気に怒鳴り返す〈識守の鍵〉に、ピケは冷ややかに告げる。
「人間の事情も、古代魔導具の価値もどうでもいい。わたしは、トゥーレと静かに暮らせればいいだけ。それを邪魔するなら……排除する」
「ピケ、ピケ、その前に」
トゥーレが前方に目を向ける。
立ち塞がるのは人喰い薔薇要塞と、それを操る〈茨の魔女〉。
いつのまにか〈茨の魔女〉を取り囲む茨は量を増し、ちょっとした城のようになっていた。
のみならず、緑色の蔓が絡み合って人の形を取る。その数、およそ三十。
蔓薔薇の兵隊達は、その両腕が槍のように鋭い。
「すごいね。いっぱい増えてる」
トゥーレがおっとりと言うと、人喰い薔薇の主は僅かに眉をひそめて、トゥーレを睨んだ。
「『……我が宿敵。忌々しい白竜。脆弱なその身から、ありったけの血を搾り取ってやる』」
トゥーレを睨む緑の目には、明確な嫌悪が滲んでいた。
その悪意は何故か蔓薔薇を切り裂いたピケではなく、トゥーレに向けられている。
(初代〈茨の魔女〉は、白竜と何か因縁があるのか?)
シリルが困惑していると、ピケが一歩前に出て、片手をサッと一振りした。
ピケの操る氷の短剣が、空中にズラリと浮かび上がる。
一つ一つが彫刻のように美しい氷の短剣。それが、およそ五十本。
精霊としての圧倒的な力を誇示し、氷霊アッシェルピケは宣言する。
「トゥーレには指一本触れさせない。ついでにシリルも。指輪はどうでもいい」
「『威勢の良い氷霊だこと……お前も、我が茨の糧となるがいい』」
茨の城から伸びる蔓が更に増え、スルスルと絡み合って蔓薔薇の竜になる。
──その数、十。
たった一体でも脅威なのに、十体の蔓薔薇竜と三十を超える蔓薔薇兵が増殖しながらシリル達を包囲しているのだ。
〈茨の魔女〉が嗜虐心に満ちた笑みを浮かべ、杖を掲げた。
「『さぁ、食い散らかしなさい』」




