【12】学び続ける者
中等科三年の冬のある日、アイザックは図書室で勉強をしているシリル・アシュリーを見つけて足を止めた。
それだけなら声をかけることはなかっただろうけれど、シリルが開いている本の内容に興味があったのだ。
シリルが開いているのは、魔術書だった。それも、どちらかというと実践向きの。
「随分と難しそうな物を読んでいるね」
シリルはビクッと肩を震わせ、顔を上げた。
「殿下っ」
シリルはわざわざ椅子から立ち上がって挨拶をしようとした。アイザックはそれを片手で押し留め、シリルの隣の席に腰かける。
アイザックは魔術が好きだ。魔術書を見ていると心が躍るし、もっと読みたい、学びたいと思う。だが、彼の立場がそれを許さなかった。
もし自分が第二王子ではなく、アイザック・ウォーカーとしてこの場にいたら、シリルと共に魔術を学ぶ未来もあったのだろうか──そんなあり得ない未来に蓋をして、アイザックはその顔にフェリクスの笑顔を貼り付ける。
「そういえば、君は選択授業で魔術入門を選択していたのだっけ?」
「っ、はいっ! 覚えていただいて光栄です」
シリルは口元をムズムズとさせていた。
本当に心の底から光栄に思い、喜んでいるのがありありと分かる。
アイザックとて、全校生徒の選択授業を把握しているわけではない。ただ、生徒会役員候補の成績や選択授業については常に把握している。それと各選択授業の成績上位者も。
シリル・アシュリーは中等科の魔術の授業で、一、二を争う成績を出していたはずだ。
(アシュリー家は、〈星詠みの魔女〉の生家ハーヴェイ家と親戚筋……魔力量が多い人間が生まれやすい家系ではあるな)
シリルもその例に漏れず、魔力量に恵まれているのだろう。
「君はどんな魔術が得意なんだい?」
「得意属性は氷です」
「へぇ、珍しい属性だ」
そんな些細な一言でシリルは顔を輝かせて、喜びに緩みそうな顔を懸命に引き締めている。
生徒会役員候補として目をつけた時点で、アイザックはシリル・アシュリーの境遇について調査をしていた。
旧姓シリル・ウェイン。市井の学校での成績は非常に優秀だが、父親の影響で友人は少ない。
性格は真面目で勤勉。
セレンディア学園に編入した直後は周囲から浮いていたが、エリオットとの諍いにアイザックが介入したあの日から、少しずつクラスメイトとの交流も増えたらしい。
成績が良いので、勉強の苦手なクラスメイトから頼られることもあるのだとか。
(……ただ、あのクローディア・アシュリー嬢が義妹だから、苦労は多いんだろうな)
クローディアは〈識者の家系〉の正統な血を引き、〈歩く図書館〉と言われるほどの知識を持つ才女だ。
中にはシリルとクローディアを比較し、露骨にシリルを馬鹿にする者もいる。彼自身も、そのことを引け目に感じているのだろう。
シリルはポツリと言った。
「私は、クローディアが得意ではない魔術の分野で、義父の役に立てればと考えております」
(……うん?)
アイザックは生徒会役員候補の成績を全て把握している。その中には、シリルの義妹クローディア・アシュリー嬢の名前もあった。
クローディアは魔力量で、シリルに引けを取らないはずだ。
なにより彼女が魔術書の類を読んでいるところを、アイザックは何度か見たことがある。
「クローディア嬢は、魔術が得意ではない?」
「はい、本人がそう申しておりました。自分に実践魔術の才は無い。座学だけで充分だと」
これはもしや、とアイザックが察したのとほぼ同時に、シリルの席に近づいた時から感じていた視線の圧が増した。
背中に突き刺さる視線に胸の内で苦笑しつつ、アイザックは朗らかに言う。
「そうか。君は君なりのやり方で、ハイオーン侯爵の役に立とうとしているんだね」
シリルは分かりやすくはにかみ、耳まで赤くなる。
アイザックは段々とシリルの扱いが分かってきた。
シリルは彼自身の能力を褒めることより、彼が義父の役に立ちたいという気持ちを尊重することの方が喜ぶ。そういう意味では「幸福を呼ぶビオン」の話は効果てきめんだったらしい。
「君のように優秀な人間がいてくれると、私もこの国の未来を背負って立つ身として、とても心強いよ」
我ながら薄っぺらい言葉だな、と思う。
それなのに、シリルはもう目をキラキラさせて、心酔した目でこちらを見ているのだ。
もう一押しだとアイザックは冷めた心で考える。
「君に期待している、シリル・アシュリー」
「──はい、殿下!」
アイザックは「私はこれで」と告げて立ち上がり、図書館の棚の間を静かに歩く。
出口に向かうと見せかけて棚の裏側に迂回すれば、先ほどから感じていた視線の主が、ジトリとした目でアイザックを見据えた。
「私は君にとって、余計なことを言ってしまったかな? クローディア・アシュリー嬢」
「………………」
クローディアは何も言わない。
ただ、少女らしからぬ凄みのある美貌には、無表情ながら静かな怒りを感じた。
おそらく、クローディアの魔術の才について触れたのが理由だろう。
「君はお兄さんのために、自分に魔術の才能があることを隠していたのだろう?」
アイザックが静かに問うと、クローディアはその無表情を崩し、今にも自殺しそうなほど悲痛な表情を浮かべた。
「……なんて不愉快な誤解かしら。それじゃあまるで私が、お兄様が私に対する劣等感で苦しんでいることを哀れに思って自分の才能を隠している、お兄様が大好きなあまりお兄様を憐んでいることにも気づかない馬鹿な妹みたいじゃない」
そこまでは言っていない。
アイザックが返す言葉に困っていると、クローディアは長い黒髪をかき上げて吐き捨てた。
「……面倒くさいだけよ。あの人、すぐに張り合いたがるから」
ボソボソと呟くクローディアは、口を開いてからは一度もアイザックと目を合わせようとしなかった。
第二王子に対する態度とは思えないその振る舞いは、あくまで独り言として、ごり押すつもりなのだろう。
彼女のその振る舞いを咎めたら、彼女は〈殿下〉に対して社交辞令の上澄みのような言葉しか言わなくなる。そんな確信がアイザックにはあった。
クローディアは静かにアイザックの横をすり抜け、ボソリと呟く。
「……『期待している』なんて言ったこと、きっと後悔するわ……あの人、やらかすわよ」
その言葉の真意を理解したのは数ヶ月後。
自分を追い込むように魔術の修行をしたシリル・アシュリーが、過酷な訓練の末に魔力過剰吸収症を発症した時だった。
* * *
「…………う」
入院を余儀なくされ、病室のベッドで寝返りを打ったシリルは、ガンガンと痛む頭を押さえながら詠唱をし、痙攣する指でベッドのそばに置かれたタライを指さす。
魔術で生み出した氷が、ガランガランと音を立ててタライの中に落ちていく。そうして魔力を消費すると、幾らか頭痛が楽になった。
それでも全身が熱っぽくて、体を起こすことすら辛い。
(もう少し、魔力を消費しておきたい……)
少し長めの詠唱をして更に氷を作ろうとして、魔力制御を誤った。タライが完全に氷漬けになる。やってしまった。
(魔力過剰吸収症を発症して、もう、どれだけ経つ……?)
日付の感覚がすっかりおかしくなってしまったが、かれこれもう一ヶ月近く経っている気がする。
自分はこんなところで寝ている場合じゃないのに。勉強もしなくてはいけない。魔術ももっと上達したい。
(義父上が期待してくださったんだ……殿下も、期待していると言ってくださった……期待に応えないと……)
期待に応えようと必死になればなるほど、空回っていることをシリルは理解していた。
勉強ではクローディアに追いつけず、魔術を身につけようとすれば魔力過剰吸収症を発症する始末。
それでも、シリルは必死になって頑張る以外のやり方を知らない。
(このまま、義父上に見捨てられてしまったら……)
恐怖に背筋がゾッと冷たくなる。
ハイオーン侯爵に見限られ、アシュリー家を追い出されたら、シリルはどこに行けば良いのだろう。
故郷の母が自分を迎え入れてくれるという自信が、シリルには無い。
──あなたはもう、私の子ではないでしょう?
もし、母にそう言われたら?
冷たく自分を見る母を想像し、臓腑がズゥンと重くなる。目の奥が熱い。頭が軋む。
グスッと洟をすすって毛布の中に潜り込むと、病室の扉をノックする音が聞こえた。医師の巡回にはまだ早い時間だ。
ノロノロと毛布の隙間から顔を覗かせれば、早足でこちらに近づいてくるハイオーン侯爵の姿が目に入った。
シリルは慌ててベッドから下りようとする。それをハイオーン侯爵が押し留めた。
「まだ起きてはいけない」
ハイオーン侯爵は氷漬けになっているタライを見て、「相当、悪いようだ」と顔をしかめた。
その表情に、シリルは完全に動転した。
呆れられた、見限られた、ガッカリさせた、このままでは捨てられてしまう。
「──っ、申し訳ありませんっ」
シリルはグシャグシャになった髪を振り乱して、必死でハイオーン侯爵に取り縋った。
「わたしは、もう大丈夫ですっ、明日から授業にも出られます、次の試験では学年一位を取ってみせます、だから……だからっ……」
見捨てないで、の一言はいつだって、シリルの喉に貼りついて言えない言葉だ。
今も、シリルはみっともなく口をパクパクさせることしかできない。
そんなシリルにハイオーン侯爵はキッパリとした口調で言った。
「それは違う。今の君に必要なのは、きちんとした治療と休息。勉強はその後だ」
シリルはゼィゼィと荒い息を繰り返しながら、ハイオーン侯爵の言葉を反芻した。
そうして熱でボンヤリする頭で考える。
(……見捨てられて、ない?)
「見舞いに来るのが遅くなってすまなかった。これを作ってもらうために王都に行っていたら、時間がかかってしまってね」
ハイオーン侯爵は懐から小さな何かを取り出すと、それをシリルの手のひらに握らせた。
それは金細工に青い宝石をあしらったブローチだ。
手に持っていると、全身にこもっていた不快な熱が少しずつ冷めていくのを感じる。
「これ、は……?」
「魔導具を見るのは初めてかね? 魔力を吸い上げて放出してくれる効果があるらしい。持ち主の属性に反応し、簡易魔術として放出すると言われたが……なるほど、君の場合は冷気になるわけだ。他の属性だとどうなっていたのか興味深いな」
魔導具、それは庶民には決して手が届くような物ではない。下手をしたら家が買えてしまうほどの高級品だ。
シリルはたちまち青ざめた。
「う、受け取れません……」
「何故だね?」
「私は、この立派な魔導具に見合う……価値のある人間では、ありません」
「『価値のある人間』──これはまた、定義の難しいことを言う」
ハイオーン侯爵は「ふむ」と唸り、口髭を指で扱く。
そうして、瑠璃色の目でシリルを見据えた。
「君は〈識者〉とはどのようなものだと考える? たくさんのことを知っている物知り? 教養のある立派な人間?」
シリルにとって、識者とは義父とクローディアをそのまま意味する言葉だ。
だが、己の認識をそのまま答えるのも違う気がして口ごもっていると、ハイオーン侯爵は静かに言った。
「識者の定義は様々だが……識者とは学ぶことをやめない者だと、私は考える」
パッと顔を上げるシリルに、ハイオーン侯爵は一つ頷いてみせた。
そうして、シリルの指をそっと折り曲げて、ブローチを握らせる。
「学び続けた君の努力は報われるべきだ。これは、その証だと思いなさい」
空回って、望む結果を出せなくて、人に迷惑をかけた。
自分は許されて良いのだろうか。このブローチを受け取って良いのだろうか。胸に抱える不安の全てが消えて無くなったわけじゃない。
それでもいつか胸を張って、自分は〈識者の家系〉の人間なのだと言えるようになりたい。
シリルは強くそう思ったのだ。
「君の人生はまだ長い。焦らず、君の歩幅で、これからも学び続けなさい」
シリルはブローチを握りしめて、何度も頷く。
ボタボタと溢れる雫が、ブローチを握る手を濡らした。
ハイオーン侯爵はシリルにハンカチを握らせると、神妙な顔で言う。
「勿論、君の努力は評価するが、無茶をしたことについては、このあとでたっぷりお説教だ。私のお説教は長い。覚悟しておきなさい」
義父のお説教は、長いけれども怖くはなかった。
お説教のはずが脇道にそれて、今後どうすれば良いか、改善策の検討と考察が始まってしまうからだ。