【11】幸福を呼ぶビオン、破滅を呼ぶバシレオス
「よぉ、ビオン」
クラスメイトのエリオット・ハワードにそう声をかけられた時、シリルはただの人違いだと思った。
シリルがセレンディア学園の中等科に編入して、もう一週間が経つ。流石に名前を間違える者もいないだろう。
だがエリオットはシリルの真正面に立つと、シリルを見下ろし、「耳が遠いのか?」とニヤニヤ笑っている。
だからシリルは困惑しつつ答えた。
「人違いではないか? 私の名前はシリル・アシュリーだ」
「お前は、シメオンの息子のビオンだろう?」
「……? 私の父の名は、ヴィセント・アシュリーだが……」
シリルが困惑顔で言い返すと、エリオットはケラケラと笑い出した。
エリオットだけじゃない、クラスメイトの半分ぐらいもシリルを見てクスクスと笑っている。
自分は受け答えを間違えたのだ。とシリルはようやく気がついた。だが、何を間違えたのかが分からない。
エリオットはシリルの顔を不躾に眺めて、意地悪く笑っている。そういう不躾な態度を取っても構わない相手だと、明らかに舐められていた。
エリオットが芝居がかった仕草で両手を広げて言う。
「『父親に立派な服を着せてもらった青年ビオン。彼は口が利けません。何故ならビオンはただの人形だからです。息子のいない男シメオンは人形に服を着せて、息子のように扱っていたのでありました』……王都で流行りの喜劇も知らないのか? 一体、どこの田舎から出てきたんだ?」
そこでようやくシリルは、流行りの舞台をダシに、自分が養子であることを馬鹿にされているのだと理解した。
息子のいない男、シメオンに飾り立てられたお人形だと揶揄されて。
「貴様は今、私だけでなく私の父も侮辱したな」
元より負けん気が強いシリルは、エリオットに言われっぱなしで黙っているつもりはなかった。
シリルが鋭くエリオットを睨めば、エリオットは大袈裟に驚いたような顔をする。
「おいおい、口を利いたら駄目だろう? ビオンは物言わぬ人形なんだから、大人しく椅子に座ってろよ」
「貴様はクラスメイトの名前も覚えられないのか? エリオット・ハワード」
「お前なんて覚える価値もないんだよ」
エリオットは忌々しげに吐き捨て、シリルのリボンタイをグイと乱暴に引いた。
「どんなに見た目を取り繕ったところで、中身が伴わなきゃ無意味だ。お前なんかが、俺達と同じ場所にいられると思うなよ、成り上がり」
中身が伴わない。その一言にシリルは返す言葉に詰まった。
セレンディア学園に編入する前に、猛勉強をしてきたけれど、それでもシリルは知識量でクローディアには敵わない。
(クローディアならきっと、エリオットの言うビオンとやらも知っていたはずだ。恥をかくことなく、上手くこの場を切り抜けられたはずだ)
シリルが黙り込むと、エリオットはここぞとばかりにまくし立てた。
「どうせ飾り立てるんなら、ドレスでも用意してもらった方が良かったんじゃないか? その制服よりよっぽど似合うぜ、お嬢さん?」
カッと頭に血が上った。シリルは華奢な上に小柄で、クラスの男子の中で一番小さかったのだ。
だが容姿について触れられると、シリルは何も言い返せない。
父に似ている容姿を馬鹿にされると、父親を馬鹿にされたみたいで腹が立つ──そして、そんな自分に嫌悪する。
自分はあの男なんて慕ってない、似たいわけじゃない、大嫌いだ。違う、本当は嫌いたくなんかない……そのあたりで頭が考えることを拒否して、思考が真っ白になる。
(違う、違う、違う、今はあの男なんて関係ない。何か、言い返さないと、何か、何か……)
黙り込むシリルに、エリオットが更に何か言い募ろうとした、その時。
「なるほど、君がハイオーン侯爵の『幸福を呼ぶビオン』か」
よく通る声が聞こえた。
振り向けば、教室の入り口に長身の少年が佇んでいる。
鮮やかな金色の髪、端整な顔立ち、優雅な物腰。この年で、既に人の上に立つ者の風格を漂わせている少年。
(第二王子……フェリクス・アーク・リディル殿下!)
シリルが呆気に取られていると、エリオットがシリルのリボンタイから手を離し、飄々とした態度で言った。
「幸福を呼ぶビオン? お飾りのビオンの間違いだろう、殿下?」
「エリオット、君は古典文学を読まないのかい? 喜劇『シメオンの息子』の原題は『幸福を呼ぶビオン』。古典作品だよ」
フェリクスはニコリと微笑み、淀みなく語りだす。
決して大声ではないのに、聞く者の心に残る、そういう声だった。
「──息子のいない男シメオンは、人形のビオンに立派な服を着せて、息子として大事に扱った」
「その滑稽さを楽しむ喜劇だろ?」
「最近の芝居では、その部分だけを強調しているようだけれどね、原作ではこの後、ビオンは女神に魂を与えられて人間になるんだよ。人間になったビオンは、愛情を与えてくれた養父に沢山の恩返しをするんだ」
フェリクスは碧い目でシリルを見た。シリルの濃い青の目とは違う、透明感のある水色に緑を一滴混ぜたような明るい色だった。
美しい顔が、穏やかに笑いかける。
「きっと君は、ハイオーン侯爵にとって幸福を呼ぶビオンなのだろうね」
その時、全身にカッと血がのぼるのを感じた。怒りではなく、もっと別の感情で。
心臓がバクバクと音を立てる。顔が熱い。目の前にいる人が、キラキラと輝いて見える。
(この方に、仕えたい)
その時、シリルは強くそう思ったのだ。
* * *
「彼、いいね」
人のいない廊下で、フェリクス──アイザック・ウォーカーは、己の契約精霊であるウィルディアヌに話しかけた。
白いトカゲに化けたウィルディアヌはアイザックの肩によじ登り、小声で応じる。
「彼とは、シリル・アシュリーのことですか?」
「そう。編入前の学力調査試験の結果をこっそり見たのだけど、王国史をはじめ、記述問題の出来が抜群に良い。〈歩く図書館〉の妹よりも、こっちの方がほしいな……なにより、扱いやすそうだし」
クローディア嬢は扱いづらいからね、と小声で付け足し肩を竦めると、ウィルディアヌが控えめに訊ねた。
「来年の生徒会役員候補と考えても?」
「そうだね。生徒会役員のメンバーは半分ぐらい、クロックフォード公爵が指名する。エリオット・ハワードなんてほぼ確実だ。だからこそ、残りの枠は厳選したい」
エリオットの父ダーズヴィー伯爵は、クロックフォード公爵の腹心だ。確実に生徒会役員に組み込むよう命じられるだろう。
エリオットは本物のフェリクスと親しく、それ故に唯一アイザックの正体に気づいてしまった人間だが、そのことをクロックフォード公爵は知らない。
アイザックはエリオットが割と嫌いなので、真っ向からエリオットに言い返せるシリルに期待のようなものを抱いていた。
「ウィルディアヌ、最も強い忠誠心は、どんな感情から生まれると思う?」
「……人間の感情の機微は、わたくしには難しいです」
唐突なアイザックの問いかけに、ウィルディアヌは申し訳なさそうに縮こまった。
自分よりも人外のウィルディアヌの方がよっぽど繊細だ、とアイザックはこっそり笑う。
「信頼こそ最も強い忠誠心を生むと僕は考える。恐怖で支配することから生まれる忠誠心なんて、脆いものだ。そういう忠誠はいずれ裏切られる」
他でもないアイザック自身が、クロックフォード公爵を裏切ろうとしているように。
権力を使った飴と鞭は手っ取り早い手段ではあるが、本物の忠誠心は得られない。
アイザックが欲しいのは、信頼を築いた上で生まれる本物の忠誠心。
「──『幸福を呼ぶビオン』、彼の綺麗な信頼と忠誠が欲しい」
側近にするなら、そういう人間がいいとアイザックは思うのだ。
「そうそう、知っているかいウィルディアヌ。『幸福を呼ぶビオン』には、続きがあるんだ」
「ビオンと養父のシメオンが幸せになって終わりではないのですか?」
小さな頭を傾げるウィルディアヌに、アイザックは物語の続きを語りだす。
とびきり滑稽な喜劇を語るように、楽しげに。皮肉げに。
「幸せになったシメオンを羨んだ隣家の男が、シメオンの真似をしたんだ。人形に立派な服を着せ、バシレオスと名前をつけて、己の息子にしようとした。だけど、人形のバシレオスは動かない。腹を立てた男が人形を蹴飛ばすと、人形は魂を持って動き出し……」
碧い目がギラリと底光りし、唇に暗い愉悦の笑みが浮かぶ。
「男を殺してしまうのさ。素敵な結末だね?」
シリル・アシュリーが幸福を呼ぶビオンなら、アイザック・ウォーカーは破滅を呼ぶバシレオスだ。
いずれクロックフォード公爵を手にかける未来がくることを、アイザックは確信していた。